タリホーです。

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映画「ピーチガール」のイアーゴー、柏木紗絵を考察する

昨年放送していたドラマ「准教授・高槻彰良の推察」から、ちょっと伊野尾慧さんに注目しつつある私、Twitterのフォロワーさんから得た情報で普段は絶対に見ないジャンルの映画を見た。

それは、2017年に公開されたピーチガールという漫画原作の映画で、伊野尾さんの他に山本美月さんや新田真剣佑(当時は真剣佑として活動)さん、永野芽郁さんなどが出演している。

gyao.yahoo.co.jp

(※無料公開は3月8日まで)

 

(以下、映画の内容に関するネタバレあり)

 

物語は山本さん演じる主人公の安達もも(以下もも)・伊野尾さん演じる岡安浬(以下カイリ)・新田さん演じる東寺ヶ森一矢(以下とーじ)・永野さん演じる柏木紗絵(以下さえ)の4人で主に展開される。ギャルっぽい見た目から遊び人のレッテルを貼られるもも、学校一のモテ男であるカイリ、主人公の中学時代からの同級生で真面目な青年・とーじとの間で繰り広げられる恋愛の駆け引きがメインだが、ももの恋路を邪魔しようとさえが様々な策略を巡らせることで、この恋愛劇は波乱の展開を迎える。

映画のテイストとしては(メインの登場人物を除き)露骨に見た目で人を判断するような人々が出て来るやや戯画的な世界観であり、一貫して「人は見た目が全てではない」というテーマのもと物語が紡がれている感じがした。そういう意味では比較的ベタなストーリーだし、最終的に登場人物の関係は良好に終わるという点だけで評価すると、予定調和で面白みがないと言えるだろう。

 

とはいえ、伊野尾さんのアイドルとしての華やかさがカイリの喜怒哀楽、様々な感情を通して豊かに表現されている部分なんかは、彼のファンの方々にはたまらないと思うし(私も実際カワイイと思ったからね?)、何より私が注目したのは本作で悪役として登場する小悪魔・さえの存在だ。

いや、映画では「小悪魔」と形容されているけど、彼女とんでもない女ですよ。一言で例えるなら外面如菩薩内心如夜叉の女。表面的にはももの友人として接しているが、裏で彼女の恋が破滅するようえげつない策略を巡らすとんでもない鬼女なのだ。

映画の最初の10分くらいは大したことない作品かな、とやや舐めてかかっていたけどさえの計略が見えて来た辺りから面白くなってきた。と同時に私の中でふっと思うことがあった。

「あれ、このさえって女、もしかしてシェイクスピアの『オセロ』に出て来るイアーゴーみたいな奴じゃないか?」

ja.wikipedia.org

「オセロ」といえばシェイクスピアの四大悲劇として有名な作品で、その作品に出て来るイアーゴーという男は軍人オセロとその妻デズデモーナを死に追いやった悪党として登場する。そのイアーゴーのやり口というのが映画のさえみたいに、表面的には誠実さを装って相手の嫉妬心や疑惑を焚きつけ、その者が自分で破滅の道に進むよう誘導するという方法だ。正直さえのやり口はイアーゴーほど巧妙ではないしすぐに露見してしまっているが、やはりさえとイアーゴーには同じものを感じてしまう。

 

で、個人的に気になったのはさえがももを貶める動機としてカイリに言い放った「ももが不幸になれば、私は幸せなの!」というこの一言。単純に考えればももに対する嫉妬だろうが、最初の場面でももは周囲からビッチというレッテルを貼られた女性として描かれており、その時点ではカイリとの交際経験も当然ないし、とーじとも恋愛関係には至っていない。だからさえがももと友人としてこれまで交際してきたのは決して幸福なももに嫉妬して、彼女を何とか不幸にさせようとしていた訳ではない。むしろ慢性的な不幸――周囲からの好奇の目――を抱える彼女を糧にしていたのに、その彼女が幸福になろうとしている。それがさえにとって許せなかったのではないだろうか。

 

ここからは私の推測も交えての考察となるが、さえはももの不幸を糧にしていたとはいえ、本質的には愛や恋というものに飢えており、幸福を他の登場人物以上に求めていたと言えるだろう。現にさえはカイリの兄・涼にころっと騙されている。計略を巡らせる頭脳はある一方で、その時の感情に負けてよく考えずに身の丈以上の幸福に飛びついたという点から見ても、彼女の幸福のレベル設定が通常の人以上に高かったか、或いは自己肯定感が低い女性だったことがうかがえる。

この映画で彼女は雑誌の読者モデルに数ヶ月連続で選ばれる美女として周囲からチヤホヤされた存在として描かれていたが、彼女にとってそれは真実味のある幸福ではなかっただろう。「私のことカワイイって言ってくれるけど本当にそう思ってるの?いなくなったら陰で悪口でも言ってるんじゃないの?」といった疑念・不信感が常につきまとっていたかもしれないし、日常生活の上で彼女は幸福より不幸の方に真実味を感じていたのではないかと思う。実際、幸福なフリをしている(≒相手に弱みを見せたくない)人と不幸なフリをしている(≒他人の関心・同情を得ようとする)人とでは多分前者の方が多数派だと思うし、さえも不幸にこそ人間の真実があるという価値観を持っていたのではないだろうか。彼女にとって読者モデルの世界は所詮現実味の無い虚飾の世界にすぎず、それ故現実世界の親しい人間が破滅し不幸になる様に刹那的な享楽を見出してしまったのではないかと、そう思うのだ。

 

現実味のない幸福より真に迫った不幸を糧とし、友人が不幸に喘ぐ様をむさぼり喰っていた夜叉・さえが、最終的にはももとカイリの恋路を取り持つ形で物語はハッピーエンドを迎えたが、やはり自分が涼に騙された時に散々裏切ったももが自分を助けてくれたことで、荒んだ心が軟化したのだろう。

シェイクスピア悲劇のイアーゴーは最後は自らも破滅の道を辿ったが、この「ピーチガール」のイアーゴーは善性のイアーゴーとして生まれ変われたのかもしれない。