タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

「准教授・高槻彰良の推察」Season1 8話視聴(ネタバレあり)

シーズン1終わりましたね。シーズン2の視聴とか色々腹が決まっていない所もありますが、それは最後に言及するとして、とりあえず最終回の感想・考察を進めていきます。

 

(以下、原作・ドラマのネタバレあり)

 

8話(死者の祭の怪)

准教授・高槻彰良の推察5 生者は語り死者は踊る (角川文庫)

シーズン1の最終話は原作5巻の第二章「死者の祭」。深町のアイデンティティとなった嘘を聞き分ける能力が身に付く原因となった死者の盆踊りのルーツを探る物語で、当然ながらシリーズの大きな山場の一つとなっている。

民俗学ネタとしては盆踊りだけでなく、その土地に根付く山神信仰も取り入れられているのが特徴で、原作では深町の祖父母の実家がある土地で祀られている山神の名称や死者の祭が行われる経緯等の詳しい説明が為されているが、ドラマでは展開の都合から省略されている。また、原作では異界入りしてしまった高槻・深町がある人物の助けを借りて現実へ戻ったのだが、ドラマではその人物がまだ登場していないため、別の方法で異界から戻った。その違いも注目すべきポイントだろう。

 

イザナギイザナミ神話

死者の祭に戻ってしまった深町や高槻に対して、山神の伝言役をつとめる祖父はそれぞれに寿命の半分を要求するが、流石にドラマ版だと二人でその問題をクリア出来ないため、一度目と同じ飴の選択に改変されている。とはいえ、重要なのはそこではなく異界から抜け出すために高槻がとったイザナギイザナミ神話に基づく脱出方法の方だろう。

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大学で日本史の古代史を専攻していたらまず間違いなく知っている神話だし、仮に知らなくとも鬼灯の冷徹などで紹介されるくらい割とメジャーな神話なので知らない人の方が少ないかもしれないが、一応説明しておくとイザナギイザナミは日本を作った神様。その二柱の神様のうちイザナミは火の神様を産み落とした際に火傷で死亡し黄泉の国へ行ってしまった。それを悲しんだイザナギは妻を取り戻そうと黄泉の国へ行きイザナミを説得する。

夫の説得に応じたイザナミは「黄泉の国の神々と相談するからその間こちらを覗かないように」と言ったが、いつまで経ってもこちらに来ないことに焦れたイザナギは約束を破り、妻の姿を覗いてしまう。するとイザナミは腐敗した醜い姿になっており、仰天したイザナギはそのまま逃走。逃がすものかとイザナミや黄泉の国の者(ヨモツシコメ等)が追ってくるが、イザナギは髪飾りから生まれた葡萄、櫛から生まれた、黄泉の境に生えていた桃の木の実を投げて、黄泉の国の者がそれに喰らいついている間に現世へと逃げ帰ったという。

これがイザナギイザナミ神話の概要であり「三枚のお札」や「鶴の恩返し」といった有名な昔話の形式にはこの神話の成分が多少なりとも含まれている。「桃太郎」だって桃が魔除けの象徴だから鬼を退治するのに相応しかったのだ。

 

そういう訳で今回高槻はその神話を元に前もって用意しておいた葡萄や筍が描かれたお札、3つの桃を置いて難を逃れた。神様が持っていた装飾品から生まれた果実と世間一般で売られている果実を同等のものとして扱い異界から逃れる術として用いるとは随分博打を打った行為だと思うが(苦笑)、今回のドラマでは死者や山神への供物として扱われた部分もあるし、死者の祭も原作とはまた違う解釈をしているからこの改変は妥当だったと思う。

 

原作における死者の祭は、どちらかというと山神が人間の子供に仕掛けた罠という側面が強く、代償を払わせ一旦は返すものの、口がきけない・歩けない・孤独になる苦しみから子供が自殺し、たとえ大人になっても死者の祭に戻って帰って来ないよう仕組まれている。こういった物語は山神の土地に住む人々がある種山神の捕虜として土地に縛られているという思想や、医療技術が発達していない昔は子供が今以上に死にやすく「七歳までは神のうち」などと言われていた時代ならではの解釈によって成り立っていると言えるだろう。

一方のドラマは、走馬灯の部分は山神の試練的な要素はあったものの祭自体は「山神の理不尽な法則に基づく罠としての祭」ではなく、「死者が生者との繋がりを求めようとする祭」として描いているのが秀逸で、そう考えれば一見理不尽ともとれる代償としての飴の選択も、死者たちが自分達が生きていた証を生者に刻み込もうとする行いだと読み取れるし、その代償で障害を背負うことになっても、それが切っ掛けで人との関わりが生まれる社会になった現代においては、ハンデどころか自分の道標にもなる重要なアイデンティティとして昇華されることをこのドラマは示していると評価出来る。

 

正にそれは「呪い」を「のろい」と読むか「まじない」と読むかの違いで、幸運も災厄も全ては自分の解釈次第だという前向きなメッセージとして視聴者に提示しているのだ。シーズン1の締めくくりとして、実に最適な高槻の解釈だったと思う。

 

シーズン1総評(解釈の物語)

初回から今回までの感想・考察を読んでいただいた方なら、私がこのドラマを最高の映像化と評価していることは大体わかってもらえたと思うが、一応総評として今まで言及しなかった点も含めてどこが素晴らしかったか述べていきたい。

 

何といってもこのドラマの成功の一つはキャストの方々がハマり役だったことにある。高槻を演じた伊野尾さんは原作で描かれたイラストビジュアルとは厳密には違うものの、一般の人々がイメージする三枚目的なかわいらしさやコミカルさとは趣を異にするスマートさを醸し出している点や、彼の独特な声質が高槻の過去のトラウマ(これは後述する)を感じさせるという点で実にピッタリとハマっており、伊野尾さんでないと生み出せなかった高槻彰良だったと思う。特に私は以前「家政夫のミタゾノ」で見た伊野尾さんのイメージが強かっただけに、こういう二枚目的な役も出来るんだなと(上から目線の発言になるかもしれないが)感心したものだ。

深町を演じた神宮寺さんもまた、(異能持ちではあるが)一見すると特出した特徴のない大学生を演じるため、登場人物の中では最も演技が難しい役どころだったにも関わらず、原作イメージを損なわない、それでいて彼の胸中が視聴者にも伝わるような演技が素晴らしかったと思う。役者なら当然なのかもしれないが、ジャニーズアイドルで演技経験も俳優を本業とする方々と比べたら乏しいかもしれないのに、今回の深町のようなデリケートな役どころを演じきったのだから、間違いなく本作は神宮寺さんが俳優としてスキルアップに繋がった作品と言えるのではないだろうか。

あと言うまでもなく主演・助演の二人以外の周りを固める方々も原作の世界観を崩さず、それでいてドラマならではのキャラクターとして演じていて良かった。

 

次に脚本についての評価を。これは原作既読者としての評価なので未読だとまた色々違っていたかもしれないが、原作の改変がドラマとして相応しい改変になっており、そのまま映像化するとマズい所や単調になってしまう部分をうまいこと回避しドラマの見所として再構築しているため、既読でも展開が読めない部分や原作を読んだだけでは気付けなかった発見があって実に面白いし勉強になった所もあった。

原作者の澤村御影氏も以前Twitterで言及していたと思うが、原作の高槻・深町をそのまま映像化するとコントみたいになってしまう所があって特にそれは高槻が怪異の依頼を受けて興奮する場面で顕著に表れる。

これは原作者が観劇が趣味ということもあり、意図的に演劇的な大袈裟さをキャラクターに取り込んでいるためなのかもしれないが、これをそのままドラマでやると作品全体の世界観と高槻・深町の(BLとも読み取れるような)関係が乖離してサスペンスミステリとしての空気が壊れてしまう危険があった。

あと些末なことではあるが原作で大型犬モードになった高槻をいさめる時に深町は高槻のことを「あんた」呼ばわりするのだが、人と距離を置いている深町が最初の事件の段階で「あんた」呼ばわりするのは深町の性格と矛盾しているのではないかと思って、個人的に納得出来ないというか受け入れられなかった部分なのだが、ドラマでは深町の「あんた」呼ばわりがカットされており、原作のある種演劇的な部分がドラマとしてナチュラルに、それでいて大型犬らしさを残した高槻とそれに困惑気味な深町として描かれていたので、原作に感じたモヤモヤが解消されたのも評価ポイントの一つだ。

 

原作は民俗学ネタを取り入れた事件を扱いながらも、面白さの軸は高槻・深町の二人にあるため、事件自体は非常に単純というか、ミステリ好きの私から見ればしょぼいと一蹴してしまうような物足りなさがある。事件自体のしょぼさを民俗学というウンチクや高槻・深町の関係をスピーディーに発展させることでカバーしている感じがするというのが私なりの原作の評価である。

ディスっているように思われるかもしれないが、これは私がよく読む本格ミステリとこのシリーズは売りにしている部分が違うだけの話。だからミステリとしては物足りないと思いながらも、高槻の過去が明らかになり深町との関係が発展していく流れにはワクワクしたし、この先二人がどうなるかも非常に気になっている。それだけストーリーの牽引力が強くキャラクターに魅力があるのがこのシリーズの特長なのだ。

 

スピーディーな展開で読者を牽引する原作と異なり、ドラマはこのシーズン1を深町尚哉の成長譚として描いているため、スピーディーに描かれた高槻・深町の関係性の発展をあえて低速化させ、個別の事件にヒューマンミステリとしての奥深さを与えた。それによって事件を通じて深町が成長する様子が描かれたと同時に、解釈の物語というドラマとしての一貫性が生まれたのも素晴らしかった。

民俗学のウンチクが原作に比べると薄いにも関わらず民俗学研究で取り上げられる思想が随所に感じられたのは、それぞれの事件関係者の心の動き(死者への思いや精神的逃避など)が民俗学や怪異誕生のベースになっているからであり、原作とは異なるアプローチで民俗学の面白さを伝えようとした脚本の心意気に拍手を送りたい。

 

シーズン2の視聴予定に関すること

民俗学好きとして、また怪談や怪異が好きな私として今回のドラマ化は渡りに舟であり、ドラマの感想も民俗学好きとしての視点から考察してみた。そのおかげかどうかはわからないが、多少なりとも反響はあったしTwitterで新たにフォローしてくださった方もいた。それは本当にありがたいし嬉しいことではあるが、一方で「自分が思っていたほどブログ感想の反響がなかったな…」という思いもあって、「物語の面白さや秀逸さが伝わってないのだろうか」とか「文体が固いから読みにくいのかな?」「伊野尾さんや神宮寺さんのことにあまり触れていないからダメなのかな?」とかそういう不満というか納得のいかなさみたいなものがあって、結構複雑な心境だったんだよね。

まぁブログを書いてUPすること自体エゴイスティックな行為だし自己満足に過ぎないから反響を求めようとするのがお門違いなのかもしれないし、備忘録として割り切り感想を自分のために書くようにしようかと思ったがそれでも心は晴れなくて、軽い自己嫌悪みたいなものに陥った。

 

そういう訳でシーズン2に関しては視聴はする予定だが、感想はいっそ書かないか書いたとしてもTwitterにツイートする程度にしようかと検討している。コメントを送らずとも読んでくださっている方もいるとは思うが、自分の知識をふんだんに盛り込んで書いてもPV数が放送前と大差があまりないのでは書かないのと一緒だなと思う。

自分勝手かもしれないが今のところはそういう感じ。勿論、今までの調子で感想・考察を続けてもらいたいという意見があるのであれば、現金な人間だと思われるかもしれないが引き続き感想は当ブログでUPしようと思うが、気持ちの整理が完全についていないので現状シーズン2の感想のUPは保留という形でお願いしたい。

 

さいごに ~父性を嫌悪する高槻~

愚痴に近い今後の視聴予定になってしまったので、最後に後味良く高槻の人物像について語って終わろう。特にシーズン2は高槻の過去を掘っていく物語なのでここで高槻の心理を探るのは予習としても適しているだろうからね。

 

原作を読んだ段階では気付かずドラマの7話で気付いたことだが、高槻の行動原理には常に母性的なものがある。4話で風邪を引いた深町を看病する様子や7話で将来の進路に迷う瑠衣子に対するアドバイスなどで顕著に表れているが、この母性的な行動原理の裏には高槻が抱える母親に対するトラウマがあるのではないかと考えているのだ。

原作を既読の方なら知っているだろうがドラマではまだ明かされていない情報があるため一応その部分は伏せて説明する。高槻は12歳の頃不可解な神隠しに遭い自宅から遠く離れた鞍馬で発見される。その際にずば抜けた記憶力を身につけたと同時に背中に深い傷を負わされたのだが、それを見た高槻の母は「天狗にさらわれた」と解釈し、その解釈が災いして高槻は両親と別離することになってしまう。

 

両親との別離の経緯は今の段階で詳しく明かすとネタバレになるので伏せたが、高槻の母の解釈がある種狂人的なレベルにまで悪化し、それを見かねた高槻の父が彰良をよその土地へと追いやったと、これだけは言っておかないとこの後の説明がわからないと思うのでそこはご容赦願いたい。

本来なら「母親にトラウマがあるのだから母性的な行為をとるのは矛盾しているのではないか」と思うだろうが、これは母親のトラウマ以上に父親が自分を捨てて母親の方のケアを選択したという点に一種のエディプスコンプレックスがあるのではないだろうか?

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多感な幼少・少年期に母性を求めていた彰良が絶対的な父親の権力によって母性から引き離されてしまった。それが原因かどうか断定は出来ないが、原作やドラマの高槻が父の秘書と対峙した時の冷たさは(秘書自体に対する嫌悪もあるだろうが)父親、もっと言えば父性に対する嫌悪と捉えることが出来る。直接自分にトラウマを与えた母親は自分が母親として行動することでそのトラウマをカバーしている感じがするが、彰良を構成する人格に父性的なものがないのは母親を選んだ父に対する嫉妬や嫌悪があるからではないかと思っている。

 

つまり、高槻彰良の人格には母親と幼少期の自分はいるが、父親が存在しない。そして父性的な人には無意識に対立しようとしている感じがするのだ。ドラマの遠山は父性原理で動く人間として描かれているが、結論ありきのアドバイスで深町を警察組織に誘おうとした遠山に「それは本人が決めることだ」と水を差したのは深町を気遣ったのは勿論だが、その背景に父性原理への対立があったのではないかと考えている。絶対的な答えを相手に突きつけず、解釈や推察を武器にして世を渡るのも母性原理に基づいていると今更ながらそう思うのだ。

 

シーズン1の高槻は母性原理によって深町の負のアイデンティティ正のアイデンティティに転換させ、少年期に自分が味わった苦悩を深町に投影し彼を救うことである意味自分も救われようとしていた部分があった。シーズン2では自分の子供として投影していた深町によって高槻が救われる展開があるとにらんでいるが、原作でも描かれた母親に対するトラウマや、父親への嫌悪は描かれるのか、それともまた別のアプローチで物語が紡がれるのか、その辺りを注目していきたい。

 

※大型犬のようにはしゃぐ様子や甘いものを好む性質は子供の時の人格の名残と解釈出来る。

…と思ったら原作者本人が甘党の理由を語っていた(恥)。