タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

【最終回】「准教授・高槻彰良の推察」Season2 8話視聴(ネタバレあり)

最終回見終えました。

はぁ~、いいドラマですね。どこから語ろうか迷いますが映像としても物語としてもホントに綺麗な着地をしたというのはまず先に言っておきます。

 

(以下、原作・ドラマのネタバレあり)

※加筆しました(2021.12.01)

 

8話

准教授・高槻彰良の推察 民俗学かく語りき (角川文庫)

高槻と寺内の決着が描かれた最終回。前回の感想記事において高槻の「親としての救済」に少なからず不安があったものの、それが暴走化することなくキレイな形で為されたことが今回感動したポイントの一つだ。

 

最終回の始めの部分、深町と寺内が対峙した場面で寺内の心の底には孤独感があることが判明したが、それも当然と言えば当然で、彼がいくら神隠しの講」を作り上げて虐げられている人々を救済してもそれが底なし沼のような彼の孤独感を完全には埋めてくれない。何故なら自分が両親から愛されなかった、友達を救えなかったという過去にこだわり続ける以上それに見合う愛や心のつながりは見出せないからだ。親や友達への執着を断ち、新たな関係の発展に喜びを見つけない限り、その孤独から抜け出そうとする飢えや渇きは永遠に続く。正にそれは仏教の六道における餓鬼道に落ちた状態だったのではないだろうか。

 

それに彼が行う救済というのはあくまで「子供の立場からの救済」にしか過ぎない不完全な救済だ。小春は親という立場の人間だったが、寺内は「母親からの抑圧で苦しむ娘」として小春を見ていたから彼女を救い上げようとしたと思う。ただ、親の立場で見る意思がないため、いつまでたっても親子の間の溝は埋まらない。親には親の苦しみというのもあるはずだし、その親の苦しみを理解しようとしないから、ただただ一方的に健全で潔癖な親の姿を求めようとする。そういった不完全な救済も彼を餓鬼の状態から抜け出せないようにしていたと思われる。

 

高槻を巻き込もうとしたのは、そういう自分の状況を無意識のうちに把握していて、そこから抜け出したいから彼の元へ来たのだろう。過去に出会った「天狗様としての高槻」と、現在の「母性溢れる高槻」が重なったことで、「自分の子供としての不完全さを埋めてくれるのは高槻先生しかいない」という気持ちがはたらいたように思う。潜在的な自分の中の未熟性、親に太刀打ち出来ない子供の弱さを、高槻によって克服しようとしたが故の執着だったと今はそう思うのだ。

 

そんな寺内が抱える飢えや渇きに対して高槻が取った救済というのは正に親の救済というべきもので、あそこで口先だけでなくぎゅっとハグしたというのが個人的には大事なポイントだった気がする。(専門家ではなくあくまで素人の意見として)子供が抱える孤独には、やはり親から身体的な愛情表現を受けてこなかったことも原因にあると思っていて、寺内も親から抱きしめられたり手を握って一緒に寝た経験がないのではないだろうか。そういう愛情表現の記憶が自分の身体に残っていないことも彼の飢えにつながっているような気がするし、シーズン2の1話の感想記事で寺内の寝室が彼にとっての胎内回帰の場だと推測を立てたが、あの寝室も親からの愛に飢えていたことを象徴している。子供が抱える孤独も、親からの虐待も、全ては母親の胎内から出て来た時から始まると言えるし、そこに戻ればまた親は愛してくれるという切実な子供の思いがあの部屋に込められているようだった。(子供が胎内にいる時に虐待は出来ないからね)

 

シーズン2総評(隔絶した親子の物語)

シーズン2はシーズン1と比べると間違いなく物語としての尺は短いが、それでも個人的には満足度の高い感情のまま見終えることが出来た。それはやはり、このシーズン2が徹底して親子間に横たわる埋まらない溝や家庭内の闇を容赦なく描いているからであり、それも一つの家庭ではなく四つの家庭を描くことで、それぞれ異なる地獄として視聴者に提示されているのがまた凄かった。

 

まず最初の刈谷親子は父親が不在で経済的貧困といじめからファンタジーに逃避し親子の相互依存によって心の安寧を図ろうとしていたが、それは遅かれ早かれ悲劇的な破局が来るという点で見ればやはり地獄に変わりはないと言える。

そして失踪した小春の家は、夫はいるし傍目には円満な家庭だが、蓋を開けば夫は子育てに無関心・無理解であり、実の母親に自分の母親としての家族価値を押し付けられてどこにも頼れる人がいない、抑圧された母という地獄があった。

次の長谷川千里ちゃんの家は、これはもう言うまでもなく虐待という直接的な暴力があったし、高槻家は上流階級ではあるが父親が家庭内で絶対的な権力を持っていて、母親が母親として機能を果たさず一人の女として放置されている。そして母親になれない女が自分の子供を天狗様にして母親になったつもりでいると、まぁこんな感じの地獄だった。

 

そういった不完全な親たちにも彼らなりの事情があるのかもしれないが、このドラマではそんな親たちを同情的には描かずあえて突き放して描いているのも注目すべき点で、そこを同情的に描いてしまうと「不完全な親でも子供は赦し愛さねばならない」という余地が物語に生じてしまう。そうなると結局親子の間の地獄のような関係性は永遠に続いてしまうだろうし、誰も救われない結末になる。

大抵の物語だと親に己の間違いを認めさせたり、自分が親を受け入れようとする傾向になるが、このドラマは原因となる家庭の問題をどうにかこうにか修正したり矯正するといった選択をとらず、(第1シーズンの最終回と同様に)他者との新たな関係を育むという方向に舵取りしたのがナイスで、この解決法は実に仏教的な方法だったと思う。仏教では、執着が人間の苦しみの原因になっていて、それを断つことで仏の境地に至れると、ざっくりと単純な言い方をすればそういう教義がある。伊野尾さん演じる高槻の菩薩のような救済といい、やはりこの物語における希望や救いは仏教的だなと思ってしまうのだ。(寺内も仏教を勉強していたらあのような狂気に駆られなかったのにね)

 

第二シーズンは4話以降完全にオリジナルになったが、それでも原作との乖離をあまり感じなかったのは、やはり原作の高槻や深町も親子関係が隔絶していることや、最終回における高槻の救済が原作の高槻に感じた「人としての危うさ」に通じていること、怪異の元に人間心理が働いているというシリーズの基本的なプロットが踏襲されているからだ。

そして第二シーズンで描かれたことは第1シーズンでも実は描かれていて、例えば1話で志田未来さんが演じた学校の先生のトラウマにもクラスという一種の疑似的な家族価値みたいなものが見出せるし、3話の鬼頭家の悲劇にしても家筋という家族価値が絡んだ親子の隔絶が原因として描かれている。だからこそオリジナルの物語でありながら原作と地続きの世界観が保たれているし、一貫性のあるテーマとして成立している感じがするのだ。

 

原作が未完結のシリーズということもあって、高槻が幼少期に体験した神隠しの全容(何故目が青くなるのか、背中に傷が出来たのか等)や父親との間の具体的な確執が描かれていない点に消化不良を感じた人もいると思うが、そこまで描き切ってしまうと原作とは別の方向に物語は進んでしまうし、続編を期待する自分にとっても「ああ、終わっちゃった…」と喪失感で一杯になるので、これで良かったと思う。この不完全さは続編への布石として期待したい。

 

それにしても、最初は民俗学で怪異を扱ったミステリだからという理由で視聴をした私がここまでガッツリ感想を書くことになるとは思わなかったな。脚本の巧さがドラマにハマった最大の理由だけど、映像としてのキレイさだったり、抑えられた演出のおかげもあってずっと見ていることが出来たと思う。何かここ最近のドラマは尺を伸ばそうと必然性の薄いエピソードを入れたり過剰な演出で盛り上げようとするフシがあるなと感じていたから、そういう自分にとってこのドラマのテイストは丁度良い心地よさがあった。

そして私自身親子間の溝というか、(恨みとまでは言わないが)母に対する不満だったり父に対して気の許せない感情を持っている人間なので、そういう点でもこのシーズン2は私にとって刺さる物語だったな~。

 

あとこれは蛇足かもしれないが、今回のことで高槻を演じた伊野尾さんや深町を演じた神宮寺さんにも興味を持ち自分なりに調べてみた。その中でちょっと気になったのがWikipediaの伊野尾さんの記事で伊野尾さんが過去に子供の虐待死の報道(2018年の目黒区虐待死事件)で思わず涙ぐみ追い詰めた親に対して「許せない」と感情を出したというエピソードが記されていた。(私も何となくその映像を見た記憶がある)

虐待に対する怒りや悲しみの感情は誰しも持ち合わせていると思うが、生放送の場でそういう感情があふれ出すという所に彼の感情移入・共感性の強さがうかがえると思ったし、そんな伊野尾さんが今回の虐待が物語に絡んでくるドラマに関わったというのは、何か運命的なものを感じてしまうというのは大げさだろうか?(もしかしたらそういう面も込みでプロデューサーの方は起用に至ったのかもしれないけど)

 

以上でドラマ「准教授・高槻彰良の推察」の感想・考察を終えても良いが、まだまだ語りたいことがいくつかある。この先は専門的な用語も取り入れて原作とドラマのことを語っていこう。

 

ちょっと専門的な話(体癖論から見た「准教授・高槻彰良の推察」)

まず先に言っておきたいのは、今回のドラマにおける感想や考察は精神科医名越康文先生の影響と受け売りがある。名越先生はYouTubeでゲームの実況解説を行っており、体癖論を駆使した登場人物の性格分析や物語の深読みを行っている。

www.youtube.com

名越先生の動画に出会わなければ、私もここまで深く今回のドラマを読み解くことが出来なかったし、表層的な面白さを拾うだけになっていたのではないかと思う。だから私は感謝の意を込めて自分も原作やドラマの感想を精神分析的に進めていこうと思ったのだ。勿論精神分析において私はまだまだ素人でその道の専門家ではないので外れていたり間違っていることもあるが、それも考慮に入れて読んでいただければ幸いだ。

 

高槻らの深読みに入る前に、名越先生が用いる体癖論についてちょっと説明するが、体癖という概念は整体師の野口晴哉氏がまとめ上げた理論で、人間の体格や重心移動の癖・心理的感受性といったものから人間を十二種類に分けている。

ja.wikipedia.org

体癖 (ちくま文庫)

その十二種類の体癖については上のWikipediaの記事を読んでいただければざっくりと知ることが出来るが、これだけでは理解に不十分だと思い、一応野口氏が書いた『体癖』も読んだし、名越先生の実況解説からの知識も取り入れて、ここからは「准教授・高槻彰良の推察」のことを語っていく。

 

ドラマと原作は共通する所があるものの、やはりドラマの高槻と原作の高槻には根っこの部分に違いがあると思っていて、原作の高槻はビジュアルや性格的な面から考えて上下型の体癖(細長い体型で首に特徴があり、言葉や理屈で世界を捉える)ではないかと思う。彼が怪異にこだわるのも自分が体験した神隠しの理屈・原因がはっきりとしていないからだし、家族との隔絶もこの理屈がハッキリすれば解消されると彼は思っているような気がする。

一方のドラマの高槻は、彼を演じた伊野尾さんが典型的な3種体癖(重心が左右どちらかに偏っており、嬉しい時でも悲しい時でも食欲が衰えない。体型や顔はやわらかく丸い感じで、腰が細く色白の美人が多い。理屈より感情で物事を捉える。感情表現が豊かでアイドル的な華がある)のため、理屈や理論で行動するのではなく好き嫌いが行動原理になる。そのせいか、ドラマの高槻は原作以上に感情表現が豊かで、好きな人には仏のような穏やかな顔になるのに対し、嫌いな人には表情が硬くなったり冷ややかな目で相手を見る。このドラマの成功の一つには伊野尾さんの3種体癖の特徴をうまく親子関係の物語に取り込んだこともあると言っておきたい。

ドラマの高槻の方が感情表現が豊かとは言ったが、原作の高槻も感情表現は比較的豊かな方だと思う。ただ、その感情表現の豊かさの裏には実の母親から拒絶されたトラウマもあると私は考えていて、拒絶されたくない相手に対しては自分が辛くてもニコニコと笑顔を見せてしまう。原作の1巻「いないはずの隣人」でも嫌悪すべき人間に爽やかな笑顔を見せている(文庫本の113頁を参照)が、これも好き嫌いが行動に関わる左右型の3種・4種ではあり得ない場面だと思った。

原作とドラマ両方で高槻の母性は描かれているが、原作の方は母親の拒絶によるトラウマや、父親が母を家に残して自分を外国へ追いやったという一種のエディプスコンプレックスが彼の母性獲得につながっている。一方ドラマの高槻は3種体癖が女性的な要素を持った体癖なので伊野尾さん自身の素質と言っても良いのかもしれないが、高圧的な父親と機能不全に陥った母親に対する嫌悪・軽蔑の念がそれを後押ししているという感じだろうか。だから原作の高槻の母性や愛情には病的な執着を感じるし、ドラマの高槻にはより一層母親的なものを感じてしまうのだ。

 

では助手の深町の体癖はというと、高槻ほど簡単にはわからなかったが、シーズン1の4話の助手の関係を解消する場面で彼が前後型の体癖、それも6種体癖(呼吸器が弱く前かがみの姿勢。あごが尖っている、或いはしゃくれており、ロマンチストで非日常的な状況でも冷静に対応できる。無意識にヒステリーを起こし相手の気を引こうとする傾向がある。一人になることを好むが孤立することはあまりない)的な人物ではないかと思った。というのも、前後型の行動原理には利害損失があって、損得勘定で物事を判断する傾向がある。深町が助手の関係を解消しようとしたのも自分に嘘を聞き分ける能力が麻痺したため、高槻先生はもう自分に利用価値がないと思っているのではないかと思い込んだからだし、彼が周りとの関わりを避ける孤独の呪いに陥ったのも、「嘘を見抜く自分といて得する人などいない」という考えがあったからだろう。

そんな6種体癖的な深町を演じた神宮寺さんも6種かというと、それは違うと思っていて、彼がジャニーズに入った経緯や「国民的彼氏」というアピールポイントを作っている辺りから同じ前後型の5種体癖(いわゆるスポーツマンタイプでV字型の胴体をしている。目立ちたがり屋で人を集めて騒ぐことを好む。人が見ているとついつい気取ったり威張ってしまう傾向がある。頭で考えるより行動で答えを得ようとする)ではないかなと思った。5種と6種はある意味真逆の性格なので、ポジの面が強い神宮寺さんがネガの面が強い6種を演じるというのは何とも面白い。真逆ではあるけど行動原理は共通している分、全く理解出来ない役ではなかったと思う。

 

※(2022.03.31 追記)

ツイッターの方で、当ブログ記事を読んだ方が「神宮寺さんって5種かな…?面倒見という点では開閉型に近いのでは」という意見があったので、一応補足というか改めてコメントしておきたいと思う。

体癖は重心や体つきなど客観的に観測して判断する一方、観察者の主観・先入観もかなり影響するというのが正直な所で、体癖論の祖である野口氏の研究が基礎になっているとはいえ、研究者によって各体癖の特徴に対する考えは微妙に異なる。また、体癖そのものは生まれてから死ぬまで変わることはまずないが、他者、つまり別の体癖がその人の人格形成に影響することはあると思うし、男性は1種・女性は3種の要素を少なからず持っていると言われている。そのため、体癖を見るときは(特に初心者は)性格から判断するより体型で判断していくのが良いと言われているのだ。

そういう訳で私は全体的な見た目の印象と、バラエティ番組とかで見られる様子から神宮寺さんは5種かなと判断した。面倒見の良さを考慮に入れると10種だろうが、9種というのはちょっとあり得ないかな。ちなみに10種の特徴は身体の骨盤が開いていて顔のパーツが大きめ。博愛精神が強く性格は大らか。来るもの拒まずで受け入れるが、八方美人な所があり、ストイックな9種に比べると仕事は大雑把な傾向がある。漫画だと「あたしンち」の母(↓)なんかが正に10種だね。

あたしンち SUPER(1)

 

高槻の幼馴染みであり世話役的な面もある佐々倉健司は見た目のいかつい感じや警察官のイメージからねじれ型の8種(体重のかかり方が右足と左足で異なっている。勝ち負けが行動原理にあるが、7種ほど勝ちにこだわらない。ただし他人と比較すると負けず嫌いなので無類の力を発揮する。逆境に強くボランティア精神があり、正義感や同情心が強いので敗者や弱者・ダメ男に惹かれやすい)かなと判断した。

ただドラマの吉沢悠さん演じる佐々倉は原作のようないかつさというか怖さは感じられない。それは吉沢さんがねじれ型ではないからであり、だから原作よりマイルドに感じたのだと思った。吉沢さん自身の体癖に関してははっきりコレだと断言できることがないので割愛させていただく。(パッと見た感じは4種体癖っぽい)

 

以上、物語の主要人物三人の体癖を語った。他にも難波とか瑠衣子・寺内といった人の体癖も分析すれば面白い発見があるかもしれないが、きりがないのでここまでにする。

 

その他感想(加筆事項)

・高槻と深町の二人を見て今更ながら思い出したことだが、二人が怪異に遭って異能を獲得し、結果的に最良のパートナーと関係を深める原作のプロットは、実は日本の昔話にも同様のものがある。

それは「狼の眉毛(或いはまつ毛)」というタイトルで語られる昔話だ。地方によって微妙に内容は異なるが大枠を説明すると、物語の主人公は正直な貧乏人で肩身の狭い暮らしをしていた。その暮らしぶりに絶望した主人公は山へ行って狼に食われて死のうと思ったが、真人間である主人公を食べることを狼は拒否する。代わりに狼は自分の眉毛を一本抜いて「この眉毛をかざして人を見ろ」と言う。主人公は山を下りて狼の言った通り眉毛をかざして通行人を見ると、道行く人は豚だったり狐だったりと獣の姿をしていた…という話だ。

結末は地方によって大きく異なり、通りかかった長者に丁重に扱われて貧乏人から抜け出したとか、欲の深い主人公の嫁と別れて同じ真人間の子供と貧しくとも一緒に暮らす、といった終わり方をする。

どうだろう、高槻が神隠しに遭い深町と出会った経緯と似てはいないだろうか?

 

・高槻が長谷川千里の父親に手をかけようとした場面があったが、この場面は高槻が寺内を試すため演技したとはいえ、ちょっとドキっとした。というのも(原作のネタバレのため一応伏せ字)原作では高槻の脳内には彼の記憶を支配する別の人格が潜んでおり、瞳が青い時に現れる(伏せ字ここまで)。もしかしたらそれがここで現れたのかと一瞬思ってしまう場面だったが、こういう原作既読者に向けた目配せとでもいうべき演出があるのも最終回の評価ポイントだ。

 

・シーズン2の4話の高槻家の場面、高槻が深町のことを抱いたあのシーンは高槻が本当に求めていた愛だったのだろう。両親は神隠しの原因(=解釈)を突きつけることばかりに気をとられていたが、高槻自身は原因はどうあれ自分が戻ってきてくれたことを心から喜んでほしかったのだと思う。親から得られなかった愛(というよりは、間違った方向での愛)が深町の優しさによって昇華されたという点で、このシーンは名場面だった。

 

さいごに

画像

これで原作・ドラマ共に感想と考察は全て語れたと思う。ここまで結構難しいワードを用いてきたし、間違っている解釈もあるかもしれないが、それでも本作をより深く楽しむ助けになったらこちらも嬉しいです。

最後に勝手ながら、本作が面白いと感じた方のために関連した書籍を紹介してこの文を終わろう。

 

民俗学及び怪異に興味がある方

北森鴻『凶笑面』(「蓮丈那智フィールドファイル」シリーズ)

京極夏彦姑獲鳥の夏』(「百鬼夜行」シリーズ)

三津田信三『厭魅の如き憑くもの』(「刀城言耶」シリーズ)

↑いずれもシリーズ1作目なので、読み始めるにはちょうど良いと思う。

 

・家庭内の闇や家族価値をテーマにした物語に興味がある方

澤村伊智『ぼぎわんが、来る』(「比嘉姉妹」シリーズ)←怪異や民俗学の要素もあり

アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』

田村由美「ミステリと言う勿れ」(特に5巻収録の炎の天使編)

 

原作者の澤村御影先生並びにドラマ制作に関わったスタッフの皆様、そしてこの難役を見事に演じきった主演の二人に改めて敬意と感謝を表します。ありがとうございました!

 

※地上波放送で二回目を見て新たに思ったこと・感じたことを以下のツイートにまとめました。

(2022.03.27追記)