タリホーです。

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「准教授・高槻彰良の推察」Season2 7話視聴(ネタバレあり)

はい、次回最終回ですね。(さみしい)

最終回前で色々グッとくる展開があったので、今回はドラマ視聴後出来るだけ間を空けないように書こうと思います。鉄は熱いうちに打てと言いますし。

 

(以下、ドラマのネタバレあり)

 

※加筆・修正しました。(2021.11.23)

 

7話

准教授・高槻彰良の推察 民俗学かく語りき (角川文庫)

物語もいよいよ大詰め。今回は一連の神隠し事件のメカニズム(失踪者の共通項や解放の条件等)が明らかとなり、高槻や寺内の過去にもまた新たなスポットが当てられた回だった。

最終回前とはいえ謎な部分はまだまだあって、高槻が何故幼少期に旅行先の禁足地(大沼池)に足を踏み入れることになったのか、寺内は高槻を「天狗様」にしてどういう使命を果たさせようとしているのか、といった疑問が残る。こういった疑問や寺内との決着を最終回でどうまとめるか非常に気になる所だ。というか、うまくまとまるのかそれすら不安だけど(まぁ、まとまろうがまとまらなかろうが、続編はしてほしいのです!!)。

 

拡大・暴走化する「親」という概念

今回の7話は前述したように寺内の神隠しのメカニズムが明らかになった。このメカニズムは親・先生・上司から虐げられた者同士が山奥で一つの共同体を形成し、一種の疑似家族になっていることがうかがえる。このコミュニティは彼らにとって救済であり悪いことではないのだが、それでも寺内の様子を見ているとそこはかとなく狂気のようなものを感じてしまう。

何故そう感じるかというと、救済のため形成された疑似家族は、それだけ寺内の中の「親」という概念をより一層崇高で潔癖性を伴ったものにしてしまうからだ。そうなると現実世界の親にも同様の崇高さ・潔癖さを求めてしまうし、もっと深みにハマると不完全な親に対して排他的になり、最悪の場合攻撃を以て粛清しようとすることになるのだ。当然これは、かつて助けられなかった友人に対する贖罪の精神が心理的背景として作用しているからで、それだけに彼のエネルギーは自分ではなく虐げられた他人に対して無限に注がれている。それは生涯をかけてこの世の親という親を浄化しようとする狂気ではないだろうか。

しかも寺内が親と見ている人は肉親のみならず先生や上司といった指導者にまで向けられている。「教え子」という言葉がある以上、指導者もある意味「親」であり、拡大解釈すれば、先生と生徒、上司と部下も一つの親子関係と言える。寺内はそこにも立ち入って救済しようとしていたことがわかるだろう。

 

寺内が抱く親に対する潔癖性は実を言うと高槻にもあって、だから高槻は寺内の言う「使命」を果たさなくてはという気になったのだと思う。高槻の両親は虐待こそしていないが不完全な親であり、何より高槻はこの1話から7話にかけて親の不完全さというものを目の当たりにしてきた

 

・自分の子供を病院に連れて行かず「奇跡の少女」というファンタジーによって子供を守ろうとした親。(1・2話)

・母親という家族価値を自分の娘にまで押し付ける親。(6話)

・母親としての機能を果たさず「天狗様」という形でしか息子と付き合えない高槻の母。(4話)

 

そういった自分の両親を含む親たちに幻滅したり軽蔑の念を抱いた高槻は、「自分は絶対にこうはならない」という意識が働いたはずだ。その親という概念に対する潔癖性が第1シーズンにおける深町を「孤独の呪い」から救おうとする情熱として作用したと私は思っている。深町は死者の祭の体験から親とも疎遠な関係性になっていたから、そこで高槻自身の母性というか親としての概念が働いて「深町くんは絶対に救いだす」というエネルギーになった。それは教え子を救うというより、自分の子供を救うという感覚に近いものだ。

普通なら肉親と他人は分けて考えてしまうが、高槻や寺内の場合「親が自分の子供を救うのは当然だ。ならば真の親になるなら自分が子と思った他人さえも救わなければならない」という概念があったのではないかと思う。正に親鸞悪人正機説と同じような思想だ。※1

 

そして今回、高槻の親としてのリビドーは深町ではなく寺内に向かっている。勿論それはかつて「天狗様」だった時、寺内の境遇を聞かずに「僕みたいにならない方が幸せだ」とだけ言ってしまった後悔から来ているが、それは子供の不始末の責任をとろうとする親の立場に近い。寺内と同じ神隠しの体験をしていることによる共感※2も影響しているのだろうが、ここまで来ると一個人の救済というより神による救済の領域にまで達している。ハッキリ言ってそれは崇高というより狂気の沙汰だ。この暴走化しつつある高槻の救済の思いを深町や佐々倉といった此岸の人々がどう止めるのか。最終回はそこを特に注目したい。

 

※1:悪人正機説全ての衆生(人々)は根源的な意味で悪人であり、一個人では悪人の宿命から逃れられないからこそ阿弥陀様にすがるという思想。つまり、自分が悪人だと自覚した時に阿弥陀様の救済の対象となる。

寺内や高槻も、ある意味この世にいる全ての人が誰かの子であり、同時に親となる存在だと心のどこかで気付いているから、その救済対象が血の繋がらない他人にまで及ぶのかもしれない。

 

※2:高槻が大沼池の水に寺内と浸かっている場面があったが、(幻想とはいえ)あれこそ高槻が寺内に共感・感化されていることを象徴してはいないだろうか?