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「准教授・高槻彰良の推察」Season1 7話視聴(ネタバレあり)

今回のクライマックスは伊野尾担でない私でも息をのむ展開でしたね…。

 

(以下、原作・ドラマのネタバレあり)

 

7話(四時四十四分の怪)

准教授・高槻彰良の推察4 そして異界の扉がひらく (角川文庫)

7話は原作4巻の第一章「四時四十四分の怪」。建築設計事務所で遊び半分で行った四時四十四分の儀式によって、事務所の社員が立て続けに事故に遭う謎を高槻・深町が調査するが、本作は深町にとって衝撃的な出会いがある事件としてシリーズ中かなり印象に残っている。

原作の舞台は建築設計事務所だが、ドラマは千葉県の記者クラブを舞台としており、登場人物も全て男性として改変されている(依頼者の沢木は畑中という名称に変更)。それに伴い遠山の役職も設計事務所の所長から千葉県警の広報官という権力者の立場に近い役職へと変更されている。その影響もあってか、遠山の性格も原作を読んだ時と随分印象が違った気がするが、これについては後々触れていきたいと思う。

 

※原作者の澤村御影氏によると執筆当時見ていた「まだ結婚できない男が本作の舞台設定に影響したとのこと。私もこのドラマは見ていたからわかるけど、遠山が桑野と同じポジションだと思うとより親近感がわくね。

 

遠山の世界には「慰め」がない

今回の事件の原作からの改変ポイントだが、原作では能力差による嫉妬が切っ掛けで、林を主導に村田・大野が沢木を脅かしていた…という真相で、そこに別の人物の思惑が介入したことで事件が複雑化したのだが、これについては原作未読の方のため詳しくは語らないでおく。

一方のドラマは林・村田・大野の三人が畑中を脅かしていた点は原作通りだが、遠山の前任者から不正に受け取った情報で利益を得ていた事実が発覚しそうになり、その発覚を阻止するため畑中を脅かしていたという動機に変わった。そのため、原作では単なる事故の偽装だった書棚の転倒も、書棚に残った不正の証拠の隠滅のため起こした事故として改変されている。

 

事件についての改変は今回は比較的シンプルな改変だったため、事件自体はこれまでの物語のようなメッセージ性のようなものは特段感じなかったが、個人的に今回注目したのは遠山の人物像である。

原作で遠山に関する描写や発言を読んだ印象だと深町に寄り添った感じだったのに、今回のドラマにおける遠山は能力への理解はあるものの、どこか突き放したような印象を与えた。これは原作のような民間企業ではなく公的機関、それも警察組織に勤める人間として描いたことが大きく影響していると思う。

原作の遠山は自身の能力を武器(経営上の取引き等に利用)として扱い共存しているが、ドラマの遠山は自身の能力を武器として使っても報われない世界線で生きている。それは今回の不正絡みの事件における処分についての吐露――下層部の記者たちは処分を受けるが前任者や警察上層部は何の処分も受けない――からもうかがえる。

 

交番勤務や少年課に配属していた時代は嘘を見抜きそれに応じた行いが報われた世界だったから、彼も人の悩みを聞きそれを救うという、一種のお地蔵さん的な境地に浸っていられたと思うが、警察組織の上へとのぼっていくにつれ、嘘の質もより悪質なものになりどうあがいても報われない世界線へと変わっていく。もうそうなってくるとお地蔵さんのように穏やかな顔でいられるはずもなく、不動明王的な境地へと変わらざるを得なかった、とこんな感じがするのだ。不動明王は人々の災難や煩悩を焼き清めるためなら火炎の世界にいても構わないという神様なので、今回のドラマにおける遠山の境地もそれに近いのではないだろうか。

ただ、不動明王の境地で生きるということは、当然衆生の救済は出来るかもしれないが自分自身は救われないし慰めも得られない。孤独という炎の中で常に誰かしらの嘘・欺瞞・不正を暴いていかなければならないというシビアでストイックな世界なのだ。物語の終盤で遠山は深町を警察組織に誘ったが、当初は「遠山さんもさみしかったんだろうな」と思ったし実際自分と同じ能力を持った人に出会えたのだから仲間を求めていた気持ちもあったのだろう。ただ、自分の生き方=不動明王的な生き方しか出来ないことを深町に突き付けたのだから、ある意味残酷な誘いだったんだよな。

 

怪異に善悪の概念はない

これまでドラマは高槻の過去を小出しにして原作ほど立ち入らなかったが、今回ようやく高槻が幼少期に不可解な誘拐に遭ったこと、その際に背中に翼を切り取ったかのような傷痕が出来たこと、異常な記憶力が身についたこと等が本人の口から明かされた。

ドラマは高槻の過去を出し渋ることで深町との関係に揺らぎを生じさせ、深町が助手としてのアイデンティティを取り戻す展開を生み出した点で脚本構成の巧さを感じていたが、今回は過去の開陳だけでなく隠していた背中の傷を高槻自身がさらけ出したのが原作既読の私でも衝撃的な演出だった。

それは勿論白い肌に毒々しいまでの傷痕があるという見た目の影響もあるけど、遠山の出現により傷をさらけ出さないと深町を繋ぎ止めておけないと判断した高槻の痛ましいまでの執着を感じ取ったせいでもあると思う。高槻が怪異を追い求めるのは自身の過去が現実的な脅威(人間の仕業)だと解釈した場合、その脅威が完全に去った訳ではない=いつまたその犯人が自分に襲い掛かってくるかわからないことになり、常にその恐怖に晒されなければならない。しかしこれを怪異と解釈すれば、一応高槻の中で怪異の物語は幼少期の時点で完結していることになり、日常生活を送っていればその脅威に晒されることはないからだ。

人間の悪意よりも怪異の方が良いと高槻は言うが、これは怪異には人間のような善悪の概念がないという認識があってのことだろう。勿論、幽霊や怨霊といった怪異は人間がベースになっているため善意も悪意もあるが、深町が体験した「死者の祭」や高槻の母が解釈した「天狗による誘拐」は超自然的なものの仕業であり、善悪の概念ではなく異界のルールに基づいて自分はこのような目に遭ったと思えば、それは精神的には楽に違いない。何故なら大抵の怪異は特定の場所に近づかなければ良いし関わろうとしなければまず自分たちに牙を向けることはない。それは高槻が研究している数多くの怪異譚によって裏付けられている。

 

高槻が怪異を追い求め深町に執着するのは以上のような動機があってのことだ。彼が遠山のような不動明王の境地に至らなかったのは怪異という逃げ道や(ドラマではまだ描かれていないが)少年時代を支えてくれた叔父の渉の存在がある。それすら無ければ高槻はいつ襲いに来るかわからない犯人に恐れ狂っていたのかもしれない。

 

その他感想

・高槻の背中の傷痕でちょっと連想したことがあった。

ツイートした横溝正史の作品だけでなく、江戸川乱歩「D坂の殺人事件」なんかでも見られる描写だが、こういうサディスティックな美しさにはちょっと惹かれるものがあるよね、痛いのはイヤだけど。

 

傷痕と言えば、もう一つ連想したのが聖痕のこと。

ja.wikipedia.org

高槻の事件がもし海外で起こったことだったら聖痕として扱われたのかもしれないが、もしそう扱われた所で「天狗様」として崇められた幼少期とそんなに大差はなく、どっちにしろ高槻は幸せになれないと思うと物悲しいな…。

 

・今回は劇中で瑠衣子の将来に対する迷いが描かれていた。そこで高槻がしたアドバイスと、遠山が深町にしたアドバイスを比べればわかるのだが、高槻のアドバイスが過程を大事にした母性的な目線でのアドバイスだったのに対し、遠山のアドバイスはある意味結論ありきの父性的なアドバイスだったと思う。そうやって今回のドラマを見ると父性と母性の対立みたいなテーマも今回の話にはあったのではないかと思う。