タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

ご都合主義の研究、映画「記憶にございません!」視聴

記憶にございません! DVD スタンダード・エディション

新年あけましておめでとうございます。

予定外ながら、今回は先ほど見た映画「記憶にございません!」のレビューをしてみようと思う。

 

基本ミステリ関係か妖怪しか興味ないが、今回この映画のレビューをしようと思ったのは以下の動画レビューが切っ掛け。


ゆっくり映画レビュー#15『記憶にございません!』修正版

この方の映画レビューは(ある程度の偏りはあるにせよ)比較的信用の置ける映画レビューだと思っていて、三谷作品初でこの作品をレビューしたこちらの動画も見ていた。

 

そんな訳でTVで「記憶にございません!」が放送されると聞いたので、この動画の感想と、実際に私が見てみたイメージとの間にギャップがないか確かめたくなり視聴してみた。

ちなみに私、三谷作品は「古畑任三郎」「オリエント急行殺人事件」「黒井戸殺し」は勿論、「ステキな金縛り」「ザ・マジックアワー」は見て来た人間なので、ある程度三谷作品に対しては好意的な視点の持ち主であることを断っておく。

 

で、この方(ヨッシー氏)の感想と実際の私が見た感想とのことについて述べると、確かにノレる感じの作品ではなかったと思う。コメディ要素を各登場人物に頼り過ぎている感じがするし、福耳の外務大臣に半袖短パンの財務大臣とビジュアルでクスっと笑わせようとする仕込みもイマイチだった。必然性の薄い笑いが多いと言えば良いかな?

まぁこういった部分は各個人の好みの問題でもあるので三谷氏を責めてもしゃあないのだが、では問題の脚本面はどうか?

 

この物語は記憶喪失の総理大臣が以前の「最悪の総理大臣」から国民のために働く総理大臣へと変わる物語だが、記憶喪失になって政治のこともまるでわからない状態になったにも関わらず、物語はとんとん拍子に進む。

過去にやらかしたことは謝罪と誠実な対応で乗り越え、水面下で動いていた悪政は友人との対談で解決、家庭内の不和も国会中継を利用してクリアするし、米国首脳との会談も腹を割った対応が評価され無事終了。映画という尺の都合とはいえ、余りにも都合良く総理の役に立つ人物が配置されており、敵役の官房長官を失墜させるにしてもこれまた都合よく抱き込んだジャーナリストがネタを掴んで来る。

 

こんな具合で当たり屋CHの指摘通り、本作は政治劇としては余りにもお粗末。総理本人は誠実な対応をしたって位で、あとは周りが良いように動いてくれたから上手くいったという感じの物語なので、特別この総理に思い入れも起こらないし、作品としての印象もイマイチなのである。

 

理想を前提とした脚本ゆえか?

脚本家として名を馳せている三谷氏が脚本面でダメじゃあ、この作品は駄作なのかもしれないが、それにしてもこの目に余るまでのご都合主義的展開は何なのだろうかと思った。生憎当たり屋CHでその辺りの推察みたいなものはなかったので、自分なりに考えてみた。

この物語は政治家が主人公ではあるが、「我々一般人が知らない総理の仕事」という側面の描きは為されておらず、TVでも見たようなお仕事が劇中では描かれている。だから政治家の知られざる仕事を取材し、それにコメディ要素を合わせて視聴者に提供する目的で制作されたものではないことはわかる。むしろ、この作品は政治家視点で作られたというよりも国民視点で「政治家のあるべき姿」を描いている

そう思わされる描写が随所にあって、まず序盤からして総理は記憶喪失の状態のまま街の人や店の店主から“世論”を聞かされるし、退院して仕事に戻ってからは自分に投石した大工の男を官邸に呼んだり、SPになりたいとか言ってた警官をマジでSPにしている。

この辺りは単にコメディとしての展開なのかもしれないが、個人的には三谷氏の政治家に対する思いが噴出した部分ではないかと思っている。

官邸に民間人を呼ぶのは無理だとしても、世の政治家は余りにも国民(特に肉体労働者や日雇いの人といった「底辺の人々」)の意見に耳を傾けない。警官を即日SPにするのは無理があるとしても、余りにも世の政治家は約束を守らない。自分の発言すら責任を持たず、「誤解を招く発言をした」と済ませてしまう無責任さは私が改めて述べなくても世の人々はおおよそ身をもって知っているはず。

以上のような政治家の悪しき性質を三谷氏は「政治家よ、ここまでは無理でももうちょっと頑張れよ」という思いで物語を描いたのかもしれない。そう思えば、国会中継で妻に愛を伝えるあの場面も、形式的な答弁しか出来ない政治家に対する叛意を感じはしないだろうか?

 

つまるところ、本作のご都合主義の展開は三谷氏の政治家の理想像を優先した結果によるものではないか?というのが私の意見だ。権謀術策入り混じる政界で頭を使いながら奮闘する総理を描くより、学がなくても誠実で学習意欲があり、周りの人を動かすパワーのある政治家が求められていることを三谷氏は本作で述べたかったのではないだろうか?

コメディ部分の評価は意見の分かれやすい部分ではあるし、「ご都合主義でも話が面白ければ良いではないか」という意見もあるだろう。ただ、仮にもミステリ作品を手掛けている三谷氏がここまで都合の良い政治劇を描くと言うのは、上で述べたような理想が物語の質以上に創作の前提にあったからではないかと解釈している。まぁ、かなり弁護的な意見かもしれないがね。

 

映画に限らず創作物は多かれ少なかれメッセージ性がある。それが物語の質と合致した場合は傑作になるが、「これがやりたい、描きたい!」という思いばかりが先行して出来はイマイチという作品も多い。本作は個人的にはそのイマイチな作品ではあったものの、コロナ禍で政治家の愚行が浮き彫りになった現在において、この映画がTVで放送されたということに、私は意図的なものを感じてしまうし、意義は大いにあったと思うのだ。