タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

言わぬが毒、合理化の悪循環「ミステリと言う勿れ」9話視聴

ミステリと言う勿れ(7) (フラワーコミックスα)

最後の池本が風呂光に対して言ったことが、原作ファンに対して火に油を注ぐ結果になってしまったが、それはともかく、今回の感想いってみようか。

 

(以下、原作・ドラマのネタバレあり)

 

9話(アイビーハウス編・後編)

今回はアイビーハウス編の後編で、ミステリー会の裏で進行していた計画と計画者の正体や動機が明らかとなった。原作にはない停電によるアクシデントもあったが、ほぼ原作通りの展開だった。

原作を読んでいたので犯人は勿論、動機も知っていたが、今回の犯行動機って比較的日本人的な犯行動機だなとちょっと思った。日本の会社なんかでもあるけど、いわゆる減点方式みたいにミスや失敗を許さない気風があって、それゆえミスの発覚を恐れて隠蔽して逆により深刻な罪を犯すパターンがある。ルース・ベネディクトの『菊と刀』でも同様のことについて言及されていたが、(今の日本人観に当てはまらない所があるにせよ)恥をかくことやミスが発覚し辱めを受けることを極端に恐れる人は現代においてもいると思う。

 

橘高は意図せずストーカーに喜和の居場所を教えてしまい、結果彼女を死なせてしまった。ほんの些細なミスとはいえ、ストーカーに殺害の切っ掛けを与えてしまったことが彼にとってはミス以上の罪だったのだろう。だから事件当時あのような隠蔽工作をしてしまったということは大体の人ならわかると思う。

ただそれ以降の行為――ストレス解消としてストーカーに意図的に被害者の居場所を教えたり、(今回の事件のように)友人含む関係者を皆殺しにしようとする――はある意味狂気の沙汰であって理解出来ないと思った方もいたのではないだろうか。この辺りの橘高の心理状況はあくまでも推測の域を出ないが、一種の合理化としてやったことだと私は考えている。ストーカーに被害者の居場所を教える行為は、ストーカー殺人を増やす行為であり、それによって「ストーカー殺人が日常茶飯事に行われている=喜和の事件は特別な事件ではなかった」罪の意識を分散させようとしてやったことではないだろうか。つまり、喜和の死を「最近頻発している事件のうちの一つ」「喜和はよくある事件に巻き込まれてしまった」という形で形骸化させようとしていたのだと私は思うのだ。

ただそんなことをした所で、全ての切っ掛けは自分の密告行為に集約されてしまうし、結果的には多くの被害者を出しているのだから、罪悪感が薄れるどころか更に濃くなってしまう悪循環に至っている。自分のミスを合理化しようとして更なる地獄へと落ちているのだから精神的にはかなり危なかったと思うよ。

 

そして今回のアイビーハウスでの一件でも、橘高が殺人行為を合理化しようとしていたのではないかと思う場面がある。彼の計画が久能に明かされた際、橘高は友人の天達や蔦を「どうせ以前から自分を見下していたんだろ」「自分が母の介護で苦しんでいる間、友人は独身貴族を謳歌していた」という感じで罵ったが、あれはストーカー殺人で喜和が死ぬ前から思っていたというよりは、むしろこれから殺す友人を下衆に仕立て上げないと、自分が大切な友人を殺してしまう大罪人になってしまうから、自己正当化のために友人を悪い人間に「設定」していたと思うのだ。

 

6話に登場した梅津さんみたいに自白していたら罪の意識を抱えることなく生活出来たのだろうが、橘高はミスを自白出来ずに抱えてしまったが故に心が毒され、合理化・自己正当化のための犯罪を重ねた。これには彼自身の完璧主義的な一面が犯罪行為を後押ししていたとも私は思っていて、それは彼の犯行計画に如実に表れている。徹底的に自分の痕跡をアイビーハウスに残さないよう行動していた所なんか、他の人だったらもっとボロが出ていたと思うし、予行演習の目的で長野の山荘で夾竹桃による殺人をやっていたというのも、彼の完璧主義的な性格の表れだろう。

完璧主義というのは裏を返せばミス・失敗を出来るだけなくしたい、つまりミス・失敗を嫌う訳であり、そういう人は往々にして他人にも出来るだけミスを見せたくないし、その発覚を恐れる。そういう心理的背景をふまえると、若い頃に失敗体験が少なかったり、失敗を極端に責めたり蔑んだりする行為が後々大きな犯罪事件につながることを今回のエピソードは私たち視聴者に伝えていたと、そう解釈出来る。横溝正史の「本陣殺人事件」(ネタバレになるかもしれないので一応伏せ字)でも同様の動機で殺人を犯した人物がいたが、現代でも失敗の発覚・恥を恐れるが故の犯罪は十分起こり得ることがわかったのではないだろうか。