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「准教授・高槻彰良の推察」Season2 4話視聴(ネタバレあり)

シーズン2も折り返し地点に突入。今回は今まで以上に謎の多い部分があったので感想は一旦保留にしようかと思ったが、この4話だけでも色々語れる描写があったのでやはり書くことにした。

 

(以下、原作・ドラマのネタバレあり)

 

4話

准教授・高槻彰良の推察 民俗学かく語りき (角川文庫)

今回からドラマは原作の手を離れ、ドラマオリジナルの神隠し事件」に移行する。原作でも一応1巻で神隠しのエピソードはあるが、ドラマの内容と全く異なっているしその中身も小粒なので、ドラマは完全に脚本の藤井清美氏によるオリジナルの物語と考えて良いだろう。

原作はシリーズ未完のため物語の着地点は不明だが、この4話を見る限り、ドラマはドラマなりに着地点があるみたいで、原作ではまだノータッチに近い高槻家をクローズアップし、そこを掘り下げようとしている。そのため、高槻の母(清花)の人物設定や瑠衣子の介入など、原作と異なるポイントが多くある。改変ポイントについてはおいおい語っていくが、1~4話を見た感じだとシーズン2は高槻の過去をテーマに置きながら、その裏に家庭内の闇がもう一つのテーマとして描かれているのではないかと思う。

 

家庭内の闇というのは高槻家だけでなく、1・2話の刈谷親子もそうだし、今回失踪した栗本小春の家も含まれている。冒頭の失踪当時の小春と夫の幹夫との間の描写を見ればわかると思うが、表面上は夫婦円満に見える家庭でも、実際は共働きにも関わらず夫が仕事を理由に育児を妻に押し付けているフシがある。夫と妻の関係が対等でない家庭なのに、夫は臆面もなく「近所の人からも羨ましがられる家族」と言い切ってしまう。そんな夫の無神経さ・愚かさを容赦なく描いている所が、以前読んだホラー小説『ぼぎわんが、来る』を彷彿とさせた。

ぼぎわんが、来る 比嘉姉妹シリーズ (角川ホラー文庫)

岡田准一さん主演で「来る」というタイトルで映画化されているから知っている人もいるだろうが、この『ぼぎわんが、来る』も家庭内の不和、とりわけイクメンになった夫を(ある意味)狂気の沙汰として描いているので、興味のある方は是非読んでいただきたい。映画も原作にはない除霊シーンとかあって面白いよ。

 

「女の墓場」と化す高槻家

幹夫の調査依頼の後、父親の秘書からの伝言で高槻は実家に行く。当然原作で高槻は実家に戻っておらずこの展開はドラマオリジナル。「お金だけはある家」と侮蔑的に高槻が表現する高槻の実家にも、またこの家ならではの闇があると言えるだろう。

 

前回の感想でもちょっと触れたと思うが、この高槻家で清花は夫にほったらかし状態にされており、息子の彰良がいない3話の時点で清花は妻でも母親でもなく、一人の女性としてあの家に籠もっているイメージを受けた。夫である智彰本人はまだ劇中に登場していないものの、妻を対等な一人の女性として扱っているようには思えない。何というか、人形を家に置いているという感覚に近い気がするのだ。

息子が「天狗様」として戻ってくると聞き喜んで迎えた時、清花は下ろしていた髪をきちんと結んで余所行きの服に着替えていたが、あの描写から私は、清花は息子を「天狗様」として置き自分の傍にいさせることでしか母親としての自己を確立出来ないのではないか?と考えた。

 

あくまで私の個人的な意見だが、母親が母親としてのアイデンティティを獲得するのは子供をどれだけ世話したかという経験の積み重ねがあるからではないか?と思っていて、食事の用意や掃除・洗濯といった家事を通じて子供の成長を確認し、「自分はここまで育て上げたんだ」という実感を得て、母親としての確固たる地位を築くと共に、子供を独立させる心構えが出来るのではないかと、そう思っている。

ただ、この高槻家はいわゆる上流階級で執事や秘書がいるくらいだから、当然家事全般は家政婦や清掃業者がやってくれる訳で、一般家庭に比べると清花の母親としての経験値はかなり低かったのではないかと、そういう推測がつく。母親としての経験が希薄にも関わらず彰良が12歳の時に例の神隠しに遭い背中に不可解な傷を負って戻ってきたのだから、現実的な対処ではなくファンタジックな「天狗様」という形でしか息子を対処出来なかったのも当然の結果だろう。

 

上流階級の奥様という家庭事情が母親としての行動に制限を課してしまい、「天狗様」というファンタジーでしか母親になれない人間になってしまった。そして母親になりきれないまま彰良が海外へ行ってしまったので、未練を残した幽霊のようにあの家に籠もっていた。だから清花にとって息子の彰良は生き甲斐であると同時に、妻になれない自分が母親としていられる対象とみなしているのではないだろうか?お茶を沸かしご飯を作って息子の帰りを待つという一般的な母親の振る舞いが出来ず、「天狗様」という形でしか息子を扱えず母にもなれない。清花の病的な母親像に対する依存が今回うかがい知ることが出来たと思う。この辺り、原作の方の清花はある意味完全に狂っているので母親という枠から抜け出すことに成功しているが、ドラマの清花は病気の域にとどまっているからこっちの方が深刻なんだよな。

清花が母親としての自己に依存していることに対して、本来なら夫の智彰が働きかけて妻としての地位を自分と対等なレベルまで上げる、或いは「母親にこだわることはないんだよ」と一人の女性として妻を社会進出させ彼女のアイデンティティをうまいこと転換させるよう努力すべきなのだが、彼女を放置したまま対処や責任を息子に負わせているのがやはり問題で、きちんと妻と対話をしないから清花は母親であった当時の時間感覚のまま家にいる羽目になったと、あえて批判的に言わせてもらう。

 

そういえば、「天狗様」が戻ると知ったマダムたちが高槻家のサロンで待っていたが、あのマダムたちもある意味妻にも母親にもなれない女性たちなんだよ。夫との関係が希薄或いは対等でなく、社会進出するほどの能力を持ち合わせていないマダムたちが溜まる高槻家のサロンは、怖い表現になるが「女の墓場」とでも言うべき場所になっている。マダムたちにとっては退屈な日常における刺激剤なのかもしれないが、外から見れば(表現として適切でないかもしれないが)自己選択を放棄した女性の吹き溜まりであり、自分の意志で今の准教授という立場を獲得した彰良でなくとも、忌まわしい場所に映るはずだ。自己選択を放棄するということは、見ようによっては死んでいるも同然だからね。

 

マウントをとる寺内

今回寺内は高槻の母に「天狗様」復活を働きかけたり、深町と接触を図ってきたりとまた色々行動したが、特に注目したのは深町に対するマウントとりとも思える行為。

これまでの感想でも言及したが、寺内は高槻に対して母性を感じ崇拝していると仮説を立てていて、「外の世界にお母さんがいる違和感」を高槻に感じているから高槻を「天狗様」として実家に戻そうとしている部分もあるのではないかと推測した。

そんな思惑がある寺内はこれまで深町に対して何の反応も示さなかったが、今回高槻が深町にハグする瞬間を目撃し、両者の関係の深さを知った寺内は深町に接触。「自分の手伝いをしてくれるなら、高槻先生には関わらない」と交渉を持ちかけた。

 

この交渉だけど、「がっつりマウントをとりに来ているな~」と視聴した時は思って、最初に深町の経歴を並べ立て、彼の能力を見抜いたけどあれは単にコールドリーディングとホットリーディングを組み合わせたに過ぎないのよね。別に瞬間記憶能力がなくとも以前から高槻と深町を盗撮し調べていた寺内なら簡単に出来ることなので、手法としては割とありきたりなんだよ。

そんな手法で突然交渉を持ちかけたのは「自分が高槻先生に一番近しい存在なのだ」という嫉妬心の表れでもある。手伝ってくれという交渉自体に嘘はないとはいえ、それは深町を自分より下の立場に置くことで自分の優位性だったり、「高槻と同じ経験をした自分こそ先生の隣にいるべき人間だ」と暗に主張しているように思える。それはさながら「僕がお母さんの子供であって赤の他人のお前がお母さんとくっつくのは許さない」という外の男性に対する敵愾心だったりマザーコンプレックスが転換した形で表れたものだと思うが、どうだろうか?

 

最後に「内緒です(ニコッ)」って人差し指を口に当てる仕草も、何というか寺内の幼児性が表れているな~と思う。母親に拒絶されたくないから母親の前では可愛く振舞うけど、母親がいない子供同士の喧嘩では容赦なく残酷なことをする子供って感じで、そういった精神描写が描かれているのもドラマの面白い所だよね。大学の事務員になっていきなり距離感を近付けてきたのも高槻・深町の関係の深さに対する焦りとも受け取れるし、この先の寺内の動向にますます注目がいく。

 

※コールドリーディングは外観を観察したり何気ない会話を交わしたりするだけで相手のことを言い当て、相手に「わたしはあなたよりもあなたのことをよく知っている」と信じさせる話術や観察法のこと。反対にホットリーディングはあらかじめ相手のことを調べ上げて、さもその場で相手の心や過去を読み取ったように思わせる技術を指す。

 

※地上波放送で二回目を見て新たに思ったこと・感じたことを以下のツイートにまとめました。

(2022.03.13追記)