魍魎って「声に出して読みたい妖怪」のトップ10に入っていると思うのだ。
(※今回は京極夏彦『魍魎の匣』の核心部分に触れながら感想を述べるので、未読の方は要注意)
魍魎
78話ゲスト妖怪「モウリョウ(魍魎)」
— タリホー@ホンミス島 (@sshorii10281) 2019年10月20日
原作「モウリョウ」に登場。墓を荒らして死体に乗り移る妖怪。死体が腐ってくるとまた新しい死体を求めて墓を荒らす。実体が無いため死体に乗り移らない限りは相手に攻撃出来ない。退治するにはモウリョウが乗り移った死体ごと焼くしかない。#ゲゲゲの鬼太郎 pic.twitter.com/o2TaOGW06O
一般的には死体の肝を喰らう妖怪として流布しているが、『魍魎の匣』でも解説されているように、詳しく紐解くと矢鱈と情報が錯綜していてややこしいのが魍魎の特徴だろう。自然界に存在する怪異の総称でありながら、死体を喰う小鬼といった具体的な姿も与えられており、更には水神ミヅハノメとも関連がある。ホントややこしい。
今回劇中で水葉(みずは)という女性が登場し、魍魎が封印されていたのが湖というのも上記の伝承を鑑みれば適当に設定された訳ではなさそうだ。
アニメでは1・3・4期に登場。2・5期にも“もうりょう”は出て来るが、こちらは週刊少年マガジンに掲載された「モウリョウ」ではなく、月刊少年画報に掲載された「妖怪魍魎の巻 死人つき」(以下、「死人つき」)が元になっている。
「死人つき」は鬼太郎が登場しない作品であり、昭和39年に発表された「異形の者」をリメイクしている。ロシアの小説『ヴィー(妖姥)』から案をとった作品としても興味深いので是非読んでもらいたい。
魍魎は死体にまつわる妖怪ということもあり、基本的に物語もホラー路線なのだが、4期だけは例外。魂のない死体に乗り移る魍魎と、魂のない怪獣の着ぐるみに魂を吹き込むベテラン着ぐるみ役者という似て非なる二者の交わりを描きながら、「自分の代わりになる人間などいない」「誰もが必要とされる存在」というメッセージを込めた異色作となっている。そのためか、魍魎のキャラクターも他作品と比べると怖くなく子供じみた姿に映った。
境界を越えるなかれ
20日の鬼太郎。6期で6回目の担当回「六黒村の魍魎」です。
— 長谷川圭一 (@dinahasegawa) October 15, 2019
ちょいと、いい感じのホラーです。よろしくお願いします。 pic.twitter.com/C0N3ZkIynk
今回の脚本を担当したのは長谷川氏。例によって過去作のモチーフが散見されたので振り返ってみよう。
まず目についたのは八角円の下り。これは2・5期の「死人つき」からとったもの。原作では死体に乗り移ったもうりょうが仲間のもうりょうを呼び寄せ、八角円を囲む描写がある。そしてもうりょうの一体である土精が八角円の中の人間を見つけた瞬間、周りのもうりょうが人間に向かってワッと襲い掛かるのだ。
今回は六黒村から離れた廃病院のため、呼び寄せられたのは仲間のもうりょうではなく病院に巣食う怨霊たちに置き換えられている。また久能本人の過失によって存在が怨霊たちにバレてしまった点も注目すべき改変である。(これは後で詳しく述べる)
また「六黒村」という名前は5期の「鹿羽村」のオマージュと考えて良いだろう。
そして最大のポイントは「間接的な殺人」だ。これは3期に共通するポイントだが、3期の場合は屋敷の主人が大切にしていた皿を割ったことが原因で死んでしまった女性にモウリョウが取り憑く。有名な怪談「番町皿屋敷」をモチーフにした回だ。そして皿を割った女をきつく責めたてた屋敷の主人は間接的な殺人者と言って良いだろう。
今回は溺れている恋人を助けず、その姿を写真に撮り続けた結果、彼女を死なせてしまった男、久能恭平が登場する。
キャモン。明日の鬼太郎。テーマは生と死のボーダーラインです。 pic.twitter.com/3atyAorqvw
— 長谷川圭一 (@dinahasegawa) October 19, 2019
スランプ状態だった久能が恋人の死にゆく様から見出した美。「生と死のボーダーライン」という妄執が彼を人でなしの境地へ引きずり込もうとする、というのが今回の物語のテーマの一部だろう。
ちなみに、ボーダーライン=境界線(境界)というのは『魍魎の匣』における重要ワードの一つだ。『魍魎の匣』において中禅寺は、魍魎は境界的なモノであり、軽はずみに近寄るとあちら側(彼岸のことだろう)に引きずり込まれると説明している。事実、『魍魎の匣』では境界を越えてしまった結果、狂気の連続殺人犯になってしまった者や壮絶な最期を遂げた者、「人でなしの幸福」を得た者が出てくる。
境界というと小難しく感じるが、平たく言うと「人としての一線」という訳である。人としての一線を越えた者たちが起こす連鎖反応が生み出す事件が『魍魎の匣』の醍醐味なのだ。
さて、以上のことを踏まえると今期の魍魎回は「境界を越えて彼岸に行きかけたが此岸に留まることが出来た男の物語」として読み解くことが出来よう。
恋人である水葉の死に様から「生と死のボーダーライン」というインスピレーションを得た久能は、それをテーマに写真撮影を始める。とはいえ、これは人間社会の法律や倫理観に背く芸術。久能も流石にそれはわかっているので、撮影は美女と死を感じる場所を組み合わせたものという法律・倫理観の範疇に留まったものになった。しかし彼は一度境界の向こう側の美を見たせいか、写真には満足出来ない。ある意味彼自身が生と死のボーダーラインの狭間にいたのだ。
そして魍魎は水葉の死体に乗り移って境界の狭間にいる久能を彼岸へ引きずり込もうとする。それが上述した八角円の下りだ。
八角円の下りでは怨霊に襲われるモデルの姿に「生と死のボーダーライン」を見た久能が撮影をするあまり、八角円の線を消してしまい結界が破れ、彼自身が窮地に立たされる。八角円が彼を守り此岸へと留めるための境界線であったにもかかわらず、彼自身が境界線を消し、彼岸に引きずり込まれる結果を生んだのだ。
殉死的な死
ところで…、50年ぶりに魍魎が復活したのは水葉の強い思いが影響している。ここでもし水葉の「強い思い」が久能に対する恨み・憎しみだったならば、今回の物語は単なる因果応報譚にしか過ぎなかったのだが、水葉自身が魍魎の魔手から久能を守ったことによって、「第三者には理解しがたい愛の物語」にもなった。
六黒村の魍魎。オーソドックスな展開が続いたが、終盤、フラッシュ閃光の瞬間から一気にドラマが深まった。
— 稲羽白菟@『三毛猫ホームズと七匹の仲間たち』赤川次郎他(論創社)店頭発売中/収録作「五段目の猪」 (@masaya_kawakami) October 20, 2019
これはカメラマン一方のエゴの物語でなく、男と女の愛の共犯と挫折の物語。女は死に、男の夢は破れ、残されたのは僅かな間二人の夢を叶えた一枚の写真のみ。今期一愛の傑作。#ゲゲゲの鬼太郎
正直な所、今回の事件は久能と水葉の二者の間で完結している部分があるため、久能の罪業を「愛の共犯」と断定して良いのかちょっと迷ったのだが、「言われてみれば…」と思う描写はある。
①久能と水葉の出会いは久能が写真家として自信を失い、自殺のための死に場所を求めていたことが切っ掛け。彼女と出会ったおかげで写真家としての自信を彼は取り戻した。(久能の独白)
②水葉の言葉「あなた(久能)と出会って生きる楽しさ知った」
(→久能と出会う以前に自殺願望があった可能性あり)
③水葉は元々身寄りのない子であり、5歳の頃から住職に育ててもらっていた。
④久能が写真家であること、これが水葉と久能の夢であった。(水葉の言葉)
久能の非道な行いがクローズアップされてしまい見過ごしてしまったが、以上の点をふまえると、死を願う二人が互いに生きる支えとなっていたことがわかる。しかし二人の前には「写真家としてのスランプ」という障壁が出来てしまう。そして皮肉にもそれは水葉の死によって解消されてしまったのである。
©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション
傍から見れば、溺れる恋人を助けず写真を撮り続けるなど「狂っている」の一言に尽きるのだが、水葉は死の苦しみの中で「自分の死が久能さんの救いになる」と悟ったのかもしれない。元々みなしごの身で生への未練が無かったことも影響しているのかもしれないが、彼女にとっては殉死みたいな感覚で死んでいったのだろう(久能が生きているので厳密には殉死ではないのだが)。
これを「写真家の性に振り回された馬鹿な女」と一蹴する人もいるだろう。「久能など魍魎から守る価値なんてないのに…」と思った方もいただろう。しかし私たちは第三者なのだから、二人の間で何があったかを全て知ることは出来ない。故に、これは理解しがたく辿りつけない愛なのだ。
写真家としての夢のために死んだ水葉だったが、最終的に久能は夢を捨て彼女への償いを選んだ。残酷な言い方をすれば無駄死にになってしまった訳だが、このまま久能が彼岸に片足を突っ込む様な撮影をし続けることを思えば、まだマシな結末なのだろう。
蛇足
・お前はどこの化け火じゃ?
©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション
今回魍魎を死体からあぶり出す役目を果たした化け火(上の画面左側)・釣瓶火(同画面右側鬼太郎寄り)・姥が火(同画面右側)。何気に3期の炎の妖怪五人衆を彷彿とさせてくれて個人的に嬉しかったが、これを見て思い出したことがある。
「あれ?確か化け火って57話のラ・セーヌの回で石動の腕から召喚されてたよな…」
…う~ん、別個体という可能性もあるけれど、願わくば今回登場した化け火は石動から解放されたという設定であってほしいな。そうでないと貉と一つ目坊も解放されてない可能性大だし、不憫過ぎるからね…。
・「生と死のボーダーライン」を写した悲劇
久能の様に美を求めてではないが、「生と死のボーダーライン」を写した写真家がいる。ケビン・カーターだ。
彼が撮影した「ハゲワシと少女」と題する写真は私も学校の教科書の資料集か何かで見た覚えがある。この写真はピューリッツァー賞を受賞した一方で「少女を助けずに撮影した」ことに対して強い批判も受けた。実際は撮影後すぐにハゲワシは追い払われ、少女も国連の食糧配給センターへ向かったから、特別撮影に非人道的な所は無かったにせよ、この写真は報道倫理に対する論争を巻き起こした。
そして「ハゲワシと少女」がピューリッツァー賞を受賞した僅か数か月後に彼は自殺する。この写真が自殺の直接的な引き金になった訳ではないが、死と隣り合わせの世界を写すというのは直接的な生命の危険だけでなく、社会的な批判も覚悟しなければならない、という点で過酷であり耐えられなくなったのであろう。
いずれにせよ、当事者でない外の人間が好き勝手に言えるシロモノではないのだ。
次回は1年ぶりのハロウィン回。昨年猫娘とねずみ男が発した「ハロウィン爆発しろ」がようやく実現する模様。そして57話で言及されたバックベアード復活計画もまた動き出すようだ。
ゲスト妖怪はこうもり猫。原作を読んだ時からポンコツ感漂う妖怪だと思っていたが、公式HPや予告を見る限り、今期のこうもり猫もポンコツ臭がプンプンするので楽しみだ。