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ゲゲゲの鬼太郎(5期)第2話「ビビビ!! ねずみ男!」視聴

今日配信された2話は再来週の8月12日昼12時までの配信なのでご注意を。

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がしゃどくろ

ja.wikipedia.org

今回登場したがしゃどくろは「戦死者や野垂れ死にした人の霊の集合体が巨大なガイコツと化した妖怪」と一般的に妖怪図鑑で紹介されているが、そういったことが記された文献は特にないため、創作された妖怪の可能性が高い。またがしゃどくろのイメージは歌川国芳『相馬の古内裏』に描かれたガイコツが基ではないかと言われている。

原作では鬼太郎地獄編に登場。無数の骨を軍団として操れる「呪いの壺」を所有しており、危うくその壺をドラキュラ率いる西洋妖怪に利用されそうになるという役どころ。見た目こそ恐ろしいが物分かりの良い性格であり、鬼太郎たちが退治した西洋妖怪を最後は現世に送り返していた。

 

アニメでは3期で初登場。3期のがしゃどくろは妖花の回で戦没者が眠る島の墓守という役どころで、鬼太郎たちを墓荒らしと思って襲い掛かってきた。ただ、頭蓋骨はエイリアン、胴体は昆虫みたいな形をしており、がしゃどくろとしてはかなり特殊なビジュアル。映画「エイリアン」が日本で公開されたのは1979年のことだから影響を受けた可能性はないと言い切れない。

4期では毛羽毛現という妖怪と共に登場。霊山を切り開きハイウェイを作った人間に怒りハイウェイを通る車を襲ったが、元々は大人しい妖怪として描かれている。

6期では鏡じじいの回で登場。石碑に封印された妖怪で、石碑を倒した犬山まなの同級生を病院送りにしている。近くにいたまなにもしつこく付きまとい鏡じじいの鏡の世界まで追ってきた。片目から光線を出す以外は他期のがしゃどくろと大体同じである。

 

で、この5期のがしゃどくろは妖怪図鑑の紹介通り亡者の集合体として描かれており、処刑場跡地の祠で祀られていたが、祠をビル建設のため破壊されて以降は仕返しとばかりにビル内にいる人間の生気を吸っていた…という設定。ねずみ男の秘書がエレベーター内で襲われる描写はなかなかのホラーだったと思う。

 

ねずみ男はマージナルマン(境界人)

2話はタイトル通りねずみ男のメイン回。路地裏に不法投棄されていたノートパソコンが切っ掛けでねずみ男平成の妖怪と称される悪徳社長が経営する建設会社に就職するが、その会社で怪事件が起こるというストーリー。

ねずみ男は初回にも登場したが、猫娘に引っかかれたり悪ガキに詐欺師と看破されたり、役回りとしてはこれまでのシリーズの初回で登場したねずみ男と比べると損な感じがした。何というか、したたかさやずる賢さといったこれまでのねずみ男像が5期の初回では感じられなかった。それ故に2話でキチンとねずみ男の人となりを描いた回が用意されたのかもしれない。ねずみ男最大の特徴である臭いや半妖怪の設定も、3・4期の初回では露骨な描かれ方をされていたのに対し、5期の初回では全然描かれなかったからね。

 

今回改めて見てちょっとびっくりしたのは、鬼太郎が最初のオープニングトークねずみ男を「友達」と明言している所だ。

いや、他期でも原作でも鬼太郎はねずみ男のことを多少は友人として意識しているし、3期でねずみ男が死刑になりかけた回(55話)なんかはねずみ男に友情を感じるが故の葛藤を描いている。でも2話の段階でねずみ男を友達と言っているのは今のところ5期だけだったはず。そしてねずみ男のずる賢さやしたたかさを2話の段階で容認しているのも恐らく5期だけだと思う。

これは他期と比べてねずみ男の裏切り描写が格段に減ったことが大きいだろう、2期まではねずみ男もかなりえげつない裏切りを鬼太郎にしているが、3期以降になるとねずみ男の描写に同情の余地が与えられてくる。人情味やお調子者的な性格も加味されて今や憎めないキャラとして確立しているが、各期によってねずみ男の性格は微妙に異なる。比べて見れば、当時の制作陣が彼にどのような思い入れがあり、彼を通して世間に何を発信したいかが、何となくでもわかる。

 

生前水木先生は「鬼太郎はバカ」だと何度か言っていた。鬼太郎は正義の味方として行動し、金や幸福にこだわらず人助けをするキャラとして描いているが、それでは物語が安定しないそうで、物語を安定させるためにねずみ男はいるのだという。第二次世界大戦を経験し「正義=正しさ」がいかに相対的なものか実感した水木先生にとって、ねずみ男は物語を安定させ、正義が抱える息苦しさを和らげ、読者(視聴者)に幸福とは何かを訴えかけるキャラクターだったはずだ。ねずみ男が「ゲゲゲの鬼太郎」という作品の枠を越えて様々な短編で縦横無尽に活躍出来たのも、彼が一つの枠に囚われないマージナルマン(境界人)だったからだ。

 

そんなマージナルマンなねずみ男を各期の制作陣は彼ら自身の枠を通して新たに再構成し、それぞれの期で異なるねずみ男像を作り上げた。改めて5期を見て思うが、5期のねずみ男は妖怪(鬼太郎)に同情的な面があると思う。それはねずみ男が妖怪横丁に来た場面で窺えるが、彼は「これからは人間に媚びないとやってけないぜ」と鬼太郎に言っている。「媚びる」と言っているからには人間の営みを全面的に支持している訳ではなさそうだし、マージナルマンとしての視点から妖怪が人間側にすり寄るのが生存戦略として最適ではないかと提案しているようにも見える。特に5期は(前回の記事で言及したように)人間と妖怪が分断した社会を描き、人間社会が化け物じみて来た=妖怪が潜む領域が減りつつあることを示している。それでも鬼太郎はまだまだ人間は妖怪の域には達しないと反論・忠告するが、その答えがあの禍々しい名無しが暗躍した6期にあると今は思うのだ。

 

ねずみ男が鬼太郎にあのようなことを言ったのは、今の状況が鬼太郎の先祖である幽霊族の状況と似ているからであり、幽霊族と同じ危機が妖怪全体にも来ることを感じていたのではないかと思っている。

 

何故人間(社会)が妖怪じみて来たのか

「人間社会が妖怪じみて来た」という劇中の発言は一種の自己批判というか問題提起を促す言葉である。でも、一体どういう所を指して「妖怪じみて来た」と考えるかは結構人それぞれだと思う。地球の環境を悪化させた=自然を(悪い方向で)大きく変化させたことを指して「妖怪じみた」と思う人もいるだろうし、精神面(薄情な人が増えた、殺伐とした動機による事件が増えた等)を指して「妖怪じみた」と批判する人もいるだろう。

ただ、私は環境面の変化も精神面の変化も元となる部分は今の人間が現在に執着するようになったせいではないかと思っている。言い換えれば、歴史にこだわらなくなってきている、という感じかな?

そう思ったのは劇中で描かれる根津三男社長の影響もある。町や森を破壊し新しいビルを作り大儲けする社長は自分の拠点となるビルの立地の過去にもこだわらない。今回登場したがしゃどくろは妖怪ではあるが亡者の集合体=元人間であり、広い意味での先祖と言えるのだ。その先祖の過去を省みず今の利益のために行動する社長は正に歴史にこだわらない人だ。そして、歴史にこだわらない人は往々にして未来への意識もあまりない。仮に意識してもせいぜい5~10年先という両手で数えられる程度の見通ししか出来ないと思う。

 

では何故歴史にこだわらないことが妖怪的と言えるのか。それは妖怪が歴史的ではないからだ。こう言うと「いや妖怪って古代の鬼から始まって現代の八尺様とか連綿と続いているじゃん。十分歴史的だろう」と否定されるかもしれないが、これはあくまで私たち人間が妖怪を分類し過去の記録を漁って歴史を形成したのであって、妖怪自体に歴史という概念はほぼないということが言いたいのだ。そもそも妖怪は死を超越した存在であり無限の時間を生きている。そして無限に生きるということは後世に記録を残す必然性がなくなるということである。時間が有限だとわかっているからこそ、自身の考えや正当性を記録として遺し後世の人に理解してもらおうとする。意識的にせよ無意識的にせよそうやって歴史は作られたと思うのだ。

 

歴史にこだわらない、つまり過去を省みず未来を意識しないということは現在に執着することに繋がる。今見たい、今食べたい、今金が欲しいといった欲求に負けた結果がこの「妖怪じみた社会」を作り出したと言えるだろう。そして歴史を意識しないということは現在の行動・発言にも責任を感じないことにもつながる。昨今のコロナウイルス感染拡大も未来に対するヴィジョンが弱まり、人々が「今遊びたい」「今酒を飲みたい」「今人に会いたい」という欲求に負け続けた結果なのかもしれないと思う限りだ。

(あくまでアニメ感想なのでそれに関する良し悪しについては言及しないけど)

 

 

次回は鬼太郎アニメでは定番の夜叉が登場。今のところ何を書こうかちょっと迷っている。