読みましたよ、『春にして君を離れ』。
『アガサ・クリスティー完全攻略』で「未読はおれが許さぬ」と絶賛されていたが、
冗談ぬきのガチで必読書だぞこれは。
(以下、本作のネタバレあり)
あなたも他人事ではない
小説・ドラマを問わず、ある種エンターテインメントは「対岸の火事」「別世界の出来事」を楽しむ所が無きにしも非ずだが、本作はそういうタイプの小説ではない。
ここで描かれることは決して他人事ではないのだ。
これは必読書なのであまりネタバレしたくないが、本作で描かれているのは思考の怠慢からくる、一方的・独善的な価値観だ。
全ての人にあてはまる訳ではないのに、それが正しいと思っている。自分のやり方に間違いはないと自負している。本作はそういった思考的怠慢・自己満足に対する糾弾の書と言って過言ではないと思うのだ。
だから、1944年に発表された作品にもかかわらず古さを感じない。万人に関わるテーマを扱っているのだから当然だろう。
読者の価値観が反映される
読者によって登場人物の行為に対する評価が分かれるというのが本作のもう一つのポイント。本作の主人公であるジョーンに対する評価はそれほど変わらないと思うが、彼の夫やその娘に対する評価は読者によって様々ではないかと思う。解説の栗本薫氏は終盤の夫の考えに対して「不誠実で怯懦」と評価している。一方『アガサ・クリスティー完全攻略』の著者である霜月蒼氏は「底知れぬ絶望と諦念を感じる」と評価した。
で、私の評価はというと霜月氏の評価に近い。
何というか、夫といい娘といい冷めている。口論はあるが「ああ、もうこの人には何を言っても意味ないな」と衝突を避けている感じがした。思考の怠慢に陥った妻を娘は冷笑し、夫は義務的な態度で妻と接する(仕方ないから一緒にいるという感じ)。そこに愛はなく一種偽善的なつながりを続ける選択をとった彼らも思考を止めてしまった。
私はこの夫を不誠実だと糾弾出来ない。読者は妻が帰りの旅路で自己を振り返ったことを知っているが、夫は知らない。※息子も娘も巣立って愚痴を言う身内もおらず、夢の無い仕事をこなしながら妻の問題に取り組むなんて荷が重すぎる。
他者から見ると平穏な家庭。しかしそこに温かさはない。それが哀しく恐ろしいのだ。
※作中では夫側の親族について詳しい言及はなかったが、上記のような選択をとった以上、鬼籍に入っているか相談相手にならなかったかのどちらかだと考えられる。
さいごに
本作の裏表紙に「繊細かつ流麗に描いたロマンチック・サスペンス」と書かれている。
ロマンチックだと?とんでもない!
これはそんな生やさしい小説ではない。『そして誰もいなくなった』に通じる、法で裁けない罪がここにはある。平穏な家庭を揺さぶり、価値観の押しつけに警鐘を鳴らす小説。こんなスゴイものを著していたとは、クリスティ恐るべし。