タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

『狩人の悪夢』における『本陣殺人事件』らしさ(ネタバレあり)

狩人の悪夢 (角川文庫)

正月休みの勢いにまかせて、『狩人の悪夢』を読了。その際に『本陣殺人事件』らしいものを感じたので自分なりに考えてみた。

 

(以下、『狩人の悪夢』『本陣殺人事件』のネタバレあり。また『狩人の悪夢』はHuluオリジナルドラマ版についても言及するので未試聴の方は要注意!)

本陣殺人事件 (角川文庫)

 

「恥」という悪夢

『本陣殺人事件』(以下『本陣』)といえば、密室トリックもさることながら犯人の犯行動機の特殊さが取りざたされ、それにより賛否の意見が分かれることがしばしば。

togetter.com

犯人の潔癖性と旧家の跡取りとしての威厳、そして村という共同体が犯人を窮地に立たせているのが『本陣』の面白い所だ。人によっては「処女厨の犯行」と言い切っているが、個人的にはこの物語の根源には「恥」が関係していると思っている。

ルース・ベネディクト菊と刀』でも言及されているが、日本人は「恥」をかくことを極度に嫌う。勿論、この論説には批判出来る部分もあるし、現代の日本人の中には恥を厭わない人もいるだろうから、「日本人=恥を嫌う」というのは一概には言えない。

ただ、「恥を嫌う」のは人間の感情として自然なことであり、「恥から逃れられない状況」に陥りたくないと足掻こうとするのも、これまた自然ではないだろうか。

「村」という共同体、そして「由緒ある名家の当主」、この2つこそ犯人が「恥」から逃れる退路を断つ要因として立ちはだかり、結果複雑怪奇な殺人事件として現出したのだ。

 

現代では家格や当主といった価値観は廃れ、村という共同体も昔ほど強固なものではないため、『本陣』の犯人のように追い詰められる状況は起こらず、「恥」を殺人動機に置くのも現代のミステリには似合わないと思っていたのだが、今回『狩人の悪夢』(以下『狩人』)で、やり様によっては現代でも「恥」を根源とした殺人事件は描けるものだと発見した。

 

『狩人』の犯行動機は、犯人が著したとされる大ヒット作『ナイトメア・ライジング』(以下『ナイライ』)が実は犯人のアシスタントの作品であり、それを知っていた女性にその事実を公表されることを防ぐため。つまり「口封じ」の殺人である。

「これのどこに恥が関係しているのだ?」と思うだろうが、よく考えてほしい。もし『ナイライ』がゴーストライターによるものだと公表された場合、犯人にとっては経済的な損失だけでなく、世間から白眼視されることになる。しかも『ナイライ』は既にハリウッド映画として公開が予定されており、この問題が明るみに出れば日本だけでなく世界からもバッシングされることになる。

犯人にとってこの問題が暴露されることはかなりの屈辱になることは間違いない。ましてや、作家として初めてヒットしたのがこの『ナイライ』であり、それ以前の純文学作品は鳴かず飛ばずだったのだから、その点もマスコミに暴き立てられ「ほうら、やはりコイツに才能は無かったのだ」と笑われることになるのだ。これは『本陣』における「恥」なんて比にならない大恥だ

 

『狩人』の作中では、犯人は作家を引退するつもりでいた。ゴーストライターが遺した作品を公表し、自分が考えたサスペンス・ミステリを書いて作家を引退することで、犯人は「秘密」から解放されることを望んだ。

しかし運命はそれを許さない。

アメリカから帰国した女性がその事実を突き止め、一種の正義感から「秘密」の暴露をしようとした。生きていたら弁護してくれたであろうゴーストライターのアシスタントも2年前に他界しており、犯人の退路は断たれたも同然。殺すしか選択肢はなかったのだ。

殺してもなお続く不測の事態に犯人は狼狽し、結果「とっ散らかった」様相を呈した事件となったのが、この物語の面白い所。

※作中で言及されているが、アシスタントは過去に正当防衛で父親を殺害しており、自分の実名がネットに流出したことで心に傷を受けていた。そのため自分名義で作品を出すとマスコミから過去の事件が蒸し返される恐れがあり、それを嫌った彼はゴーストライターとして作品を世に出すことを良しとした可能性がある。

 

『本陣』では村内における恥だが、『狩人』では恥の規模が大きくなり世界的な恥となっているのが特徴。『本陣』では自らも死ぬことで「恥」という来るべき現実の悪夢から逃れようとした犯人だったが、『狩人』では逃れようともがくほど泥沼にはまっていくという感じ。そんな犯人が運命と論理の糸によって射止められ、追いつめられる様が何とも哀れで印象深い。

 

「切断された手首」と「偶然」の扱い

『本陣』と『狩人』を比較していて気になったのは「切断された手首」「偶然」の扱い方の違いだ。

『本陣』における「切断された手首」というのは、三本指の男の右手首のこと。犯人はこれをスタンプのように利用して殺害現場に三本指の血の手形を残し、犯人は三本指の男だと捜査陣に印象付けた。

一方『狩人』では二つの手首が出て来る。一つは証拠隠滅として、そしてもう一つは殺害現場の偽装として。特に殺害現場の偽装として切断された手首は、血の手形をスタンプするために切断した、と捜査陣に思わせるためであり、切断の目的が『本陣』と真逆になっているのが面白い。

 

そして「偶然」。『本陣』では「雪」という偶然によって密室殺人の謎が生まれる。『狩人』では「落雷による倒木」が起こり、これが犯人特定の材料となる。共通するものがあるとしたら、どちらの犯人も偶然によって困ったことになったということだろうか。

 

Huluオリジナルドラマ版について

原作を読んだらドラマの方も気になったので、Huluに加入して見てみた。

連ドラの方で作風がどんなものか把握していたので期待はしてなかったが、まぁまぁという感じ。駄作とまではいかないけれど、味付けが気に入らぬ。

序盤の大学の講演として出て来た「推理クイズ」ははっきり言って蛇足だったし、そんなの入れるなら他に描写すべきことがあっただろ、というのが真っ先に感じた不満。

 

本筋の事件についてはほぼ原作通り。ただ、原作ではアリスが来る前日に凶行があったのに対し、ドラマではアリスが来た当日に起こった事件となっているため、「倒木の連絡時刻」が変わっている。

謎解きのプロセスも原作に沿っているが、ちょっと勿体ないと思ったのは「弓に血が付いていなかったこと」がカットされていた点。この情報によって現場の血の手形が真犯人の偽装工作である証拠になるのだから、それを無視したのはいただけない。

あと第二の被害者(大泉)の左手首切断の理由について。劇中の台詞をそのまま引用すると、

「大泉の左手に左手首が無ければ、犯人は廃屋で大泉を殺し、左手首だけを徒歩で沖田の現場まで持って行ったと解釈されるのではないか」

と述べ、「猟奇殺人に見せかけ捜査を撹乱」する目的もあっただろうと推理している。揚げ足をとるような指摘になるが、上記の台詞を一回聞いただけでは切断目的がピンと来ない。せめて「スタンプ」というワードがあれば、「偽装工作のため手首をスタンプとして利用するために切断したと思わせる」目的が頭に入りやすいと思った。まぁネット配信のドラマなので、見直しが出来る分そこは大した瑕疵ではないのだが。

 

そして事件の決着の仕方として火村が机をバンバン叩き、「あんたの見ている悪夢はな…現実だ!」と言い放つ場面。

何だいコレ?お前は「半沢直樹」の小木曽か!!

連ドラを見ていた時にも感じたが、ドラマの火村はサディスティックな断罪者という面がある。ある意味探偵のカッコよさを演出するつもりなのだろうが、私はこういうのが嫌いだ。

犯罪者にも色々あって、快楽目的で人を殺す者もいれば本作のようにのっぴきならぬ事情で人を殺す者もいる。でも大半はのっぴきならぬ事情の方が多いのではないだろうか。それなのに、ドラマの火村は「この犯罪は美しくない」と、芸術作品を評価するかの如くのたまい、解決場面においては容疑者の神経を逆撫でするような態度で話を進める(連ドラの「朱色の研究」は酷かったぞ…)。

その態度は犯罪者を狩る優越感からか、或いは「人を殺したい」と思った心の闇が犯人を追い詰めるサディスティックさに影響を与えているのか、解釈はどうにでもなるし、探偵も人間なのでそういうエゴイスティックな部分を演出するのは悪いことではないと思う。が、そんな探偵像の演出によって犯人の心情や事件の内情が蔑ろにされてはならない。

にもかかわらず、ドラマではそういった機微がカットされたり簡略化されてしまっているので、それが不満となってしまうのだ。

 

今回の場合、犯人が作家を引退しようとしていたことや、亡くなったアシスタントが自分名義で作品を発表出来なかった事情がカットされているため、犯人が現実という悪夢から逃れられない事態に陥っていた深刻さや、弁護してくれる人のいない運命の恐ろしさは感じられず、「衝動的に人を殺し、あとは現実逃避するかの如く偽装工作を重ねた犯人」という、何とも薄い犯人造形になってしまった

地上波放送でない分、尺の制約はそれほど厳しい訳でもないのだから、正直そういったバックボーンを入れようと思えば入れられたはずなのにね。

 

続編を楽しんだ人には悪いが、犯人の物語より探偵側の物語を優先するという、悪い所が継承された映像化、というのが率直な意見である。

2019年読了書籍ベスト10

今年も残すところあと一週間。去年は出来なかったけど、今年は読んだ本のベスト10を紹介してみようと思う。

今年読んだ書籍(マンガ・歴史書・事典を除く)全48冊(少な…)から選んだベスト10はこちら。

 

1位:青柳碧人『むかしむかしあるところに、死体がありました。』

2位:今村昌弘『魔眼の匣の殺人』

3位:法月綸太郎法月綸太郎の冒険』

4位:青崎有吾『ノッキンオン・ロックドドア 』

5位:阿津川辰海『紅蓮館の殺人』

6位:小林泰三『アリス殺し』

7位:アンソニーホロヴィッツカササギ殺人事件〈上/下〉』

8位:似鳥鶏『レジまでの推理 本屋さんの名探偵』

9位:中西智明『消失!』

10位:三津田信三『黒面の狐』

 

以下、選評(或いは雑感)。

 

10位:三津田信三『黒面の狐』

黒面の狐 (文春文庫)

6月読了。今年読んだ三津田氏の作品からはこちらをチョイス。怪談と民俗学的な色合いが強い刀城言耶シリーズの作風とは若干趣が異なる新シリーズ。閉鎖的な炭鉱社会を舞台とした注連縄連続殺人事件は、社会情勢ネタも相まって歴史ミステリ寄りの風格がある。作中で使用された密室殺人のトリックは海外の某密室ミステリを彷彿させるものがあったため面白く読めた。が、謎解きの部分でちょっと引っ掛かる所があったのでベスト5まではいかなかった。

 

9位:中西智明『消失!』

消失! (講談社文庫)

3月読了。以前当ブログでも紹介したが、これは発想の勝利とでも言うべき傑作。死体の消失とミッシング・リンクという二つのテーマを扱った作品であり、今年読んだ中で最も奇想天外・予想外な真相。トリックは申し分ないが、反対に物語的な面白さ(登場人物や物語の奥深さ)は薄いため9位にした。

 

8位:似鳥鶏『レジまでの推理 本屋さんの名探偵』

レジまでの推理~本屋さんの名探偵~ (光文社文庫)

9月読了。似鳥氏の作品はこれが初めて。脚注やあとがきがふざけている印象が強いものの、トリックや謎解きは堅実かつ面白みがあって良かった。書店を舞台にしており、電子書籍でなく紙の本を、そしてネット注文ではなく書店をこれからも応援したくなる一冊。本作を読了後、今まで気にしなかった開店直後の書店の品出しの様子を見てしまうようになった気がする。

 

7位:アンソニーホロヴィッツカササギ殺人事件〈上/下〉』

カササギ殺人事件〈上〉 (創元推理文庫)

カササギ殺人事件〈下〉 (創元推理文庫)

2月読了。今年は特に海外ミステリがあまり読めなかったが、本作はアガサ・クリスティをリスペクトした作品であり、ミステリランキングのトップをとったと聞いたので、「じゃあクリスティ好きとして読まない訳にはいかないだろう」と思い着手した。読了してから日が経っているものの、読書中はずっと心の中で「あるある」を連発していたことは覚えている。「事故か殺人か不明な死」とか「探偵に依頼する女性の下り」とか例を挙げればきりがない。作中作と現実世界の二つのフーダニットをやり遂げたのも凄いし、「見かけ通りではない真相」というのもクリスティ的で好感が持てた。

 

6位:小林泰三『アリス殺し』

アリス殺し (創元推理文庫)

5月読了。単行本を買って積読にしていたらまさかの文庫版が発売され、結局文庫版の方を読んでしまったという、自分の中で過去前例のない行為をとってしまったという点でも記憶に残る一冊。ディズニーのアニメと映画「アリス・イン・ワンダーランド」の知識しかないけど、十分面白かったよ。割とグロい展開もあるけど、不思議の国独特の「話の進まない会話」「うまく噛み合わない会話」がうまい具合にまろやかにしてくれている。あと他の方の感想サイトでも見かけた「異色のダイイングメッセージ」は本当に秀逸だった。

 

5位:阿津川辰海『紅蓮館の殺人』

紅蓮館の殺人 (講談社タイガ)

12月読了。探偵小説研究会編著『本格ミステリ・ベスト10』2020年版で国内第三位になった作品。発売前から面白そうだと思っていたが、読んだのはランキングが出てから。確かにこれは名作と呼べるクオリティで、館に仕掛けられた吊り天井による殺人から、終盤における怒涛の「暴き立て」探偵対元探偵という構図、探偵という業を背負った者の宿命など、色々盛った美味しい(けど後味は良くない)ミステリになっている。トップ3までいかなかったのは、本作に登場する探偵役・葛城と助手・田所のキャラ設定が影響している。元探偵との対決構図がありながら、結局は未熟さと己のエゴに潰されている所があるのがちょっと個人的に好きじゃなかったので。

 

4位:青崎有吾『ノッキンオン・ロックドドア 』

ノッキンオン・ロックドドア (徳間文庫)

5月読了。「分業制探偵」というありそうでなかった設定と、気の利いたロジック・トリックがあり、読みやすさも申し分なし。キャラ重視もトリック重視も満足させる短編集になっている。以前当ブログでも言及したが、今一番私がドラマ化を望んでいるミステリ小説。金のかかるセットやトリックを使わないから絶対イケると思うのだけどね。作品を応援する意味も込めて続編は文庫ではなく単行本を買って読もうかしら。

 

3位:法月綸太郎法月綸太郎の冒険』

法月綸太郎の冒険 (講談社文庫)

9月読了。本作所収の「死刑囚パズル」がヤバいと噂に聞いていたが読めずに悶々としていた折りの復刊、非常に感謝。読んでみたら「何故これが今まで絶版状態だったのか」と疑問に思えるほど。前半部は重い事件、後半部は書籍絡みの軽めの事件と短編集としてのバランスも良かった。来年以降は『新冒険』『功績』も復刊してもらいたいものだ。

 

2位:今村昌弘『魔眼の匣の殺人』

魔眼の匣の殺人

4月読了、12月再読。『屍人荘の殺人』の続編ということで色々ハードルはあがっていたが、前作と遜色のない作品となっている。前作は暗黙のうちに被害者が誰になるのかわかる節があったが、本作では「絶対に外れない予言」によって、誰もが被害者になるかもしれないという緊張感が漂っていたのがポイント。事件自体はかなり地味なのだが、「予言」という特殊設定ならではの謎解きロジックと伏線が素晴らしく、その点は前作を凌いだのではないかと思っている。

 

1位:青柳碧人『むかしむかしあるところに、死体がありました。』

むかしむかしあるところに、死体がありました。

5月読了。本作を1位にしたのは心の奥底で「寓話の世界で本格ミステリをやる小説」を私が望んでいたからに違いない。勿論、おとぎ話だからトリックも何でもあり…な~んてことにはなっておらず、しっかり伏線を張り、存在しない道具・モノには「法則」が設けられているので、読者も謎解きが出来るようになっている。(これを読んで本格ミステリにハマるかどうかはともかく)みんなが知っている物語をミステリに仕立て、本格ミステリの間口を広げたという点で今年のベストをこれにした。

 

来年の読書目標

まず今年あまり読めなかった海外ミステリの消化。特に『白い僧院の殺人』『Xの悲劇』の新訳版と『世界推理短編傑作集』の新版の積読を早めに消化しておければ…と思っている。

あとは同じく積読状態の横溝正史ミステリ短篇コレクション』の消化。途中でほったらかしてまだ第一巻も消化出来ていないので…。

そして来年こそはクリスマス時期に『クリスマスに少女は還る』を読むぞ。

五百子に手毬唄検索機能が搭載された、加藤シゲアキ版「悪魔の手毬唄」(ネタバレあり)

金田一耕助ファイル12 悪魔の手毬唄 (角川文庫)

前作「犬神家の一族」から一年、正直前作の出来がイマイチだったので「今回もイマイチだったら感想を書くのやめようかな~」と思っていたが、なかなか良かったので書くことにした。

 

(以下、ドラマと原作のネタバレあり)

 

加藤シゲアキ金田一(通称「シゲ金」)について

前作はシゲ金初登場ということもあってか、金田一那須ホテルの内情を推理させる描写があったり、周りが矢鱈と金田一を「名探偵」扱いしていたので、コレジャナイ感が凄かったのだけど、今回は最初の検視の下りで、探偵としての役割は務められる(少なくとも「迷」探偵ではない)ことを明示させる程度にとどまっていたから、前作における違和感はあまりなかった。

だからといって原作やこれまでの金田一に近づいたかと言うとそうでもなく、終始感情が均一に保たれているというか、真相を知ってもショックを受けて気分が落ち込んだりすることがないので、私はこのシゲ金、人の心が足りないのではと疑っている

 

輪をかけてクズになる関係者たち

原作は犯人の動機が複合的だからか、各登場人物の内面描写とかキャラ設定もかなり凝ったものになっているが、2時間ドラマでそれを全て描くのは無理。そのためキャラ設定が変えられるのは当然だし、金田一シリーズ映像化の白眉とも言って良い市川崑監督の「悪魔の手毬唄」にしても原作よりも単純化されたワルが出て来る。

で、今回はというと輪をかけてクズ度がマシマシになっている。原作で人格者としての一面もあった仁礼嘉平は差別感情激しく権威を笠にきるようなキャラになっていたし、多々羅放庵もクズ度合いが酷いことになっていた。原作の放庵はあんなにクズじゃないからね!!

敦子・咲枝・春江の三人も原作だとキャラがはっきり分かれているのだけれど、尺の都合か、今回は犬神三姉妹の様な立ち位置になった。当初由良敦子を斉藤由貴さんが演じると聞いた時は「原作で『八幡さん』と呼ばれている気位の高いおばさんを斉藤さんが演じるのは合わない」と思っていたが、犬神三姉妹的キャラ設定だと考えると納得の起用だ。

国生さゆりさんが演じた別所春江にしても原作だと「人殺しの娘と呼ばれた子をスターに成長させた立派な親」という印象があったのに対し、今回のドラマでは「子の成長で高飛車に拍車がかかったダメ親」という味付けになっている。

 

そんなクズキャラ度マシマシのなか、思わず笑ってしまったのは由良五百子刀自の下り。

まさか単語を聞くと歌が再生される最近のスマホアプリみたいな展開が来るとは思わなかったからね…ww。

 

物語構成改変の妙

今回一番関心したのが構成の改変。ドラマでは事件の展開や情報の出し方が原作と違っており、これによって2時間ドラマとしてまとめながら原作要素を拾えているのが地味に凄い。

 

【原作】

「20年前の未解決事件と村の内情」→「金田一、鬼首村へ向かう」→「金田一、おりんと出会う」→「おりんが死亡していたことが発覚」→「放庵の失踪」→「泰子殺し」

 

【ドラマ】

金田一、鬼首村へ向かう」→「金田一、おりんと出会う」→「泰子殺し」→「放庵の失踪」→「おりんが死亡していたことが発覚」

(この流れの要所要所で「20年前の未解決事件と村の内情」の説明がなされる)

 

単に順番を変えたと言われればそれまでだし、原作の「放庵の失踪」におけるサンショウウオ百目蝋燭いなりずしといった手がかりがカットされたことで、放庵が犯人のスケープゴートとして利用されただけの存在になってしまったというマイナスポイントもある。

しかし、この情報の出し方が変わることによって、推理の過程が変わっているのが見逃せない。おりんの死亡発覚が後の方になったことで「おりんと放庵の共謀説」が浮上したり、金田一の前に現れたおりんに該当する人物は誰なのかといった疑問が出ている。

 

また今回のドラマは手毬唄が何番まであるのかわからない状態になっているのも注目ポイント。原作では「三羽の雀」という前置きがあるため、狙われる娘は三人であり、そこから金田一は次に狙われるのは錠前屋だと推測するが、今回は歌の続きがどこまであるのかはっきりしておらず、そのため別所千恵子(大空ゆかり)が立原から疑われ、その結果里子が殺されることになった。この辺り、原作と展開が違うにもかかわらず話としては自然な流れになっていて実によく出来た改変ではないだろうか。

 

手毬唄、四番目の功罪

手毬唄が何番まであるかわからないようにしたことで生まれた、原作にはない歌の四番目

 

女たれがよい 桶屋の娘

器量よしじゃが やきもち娘

橋の上から川面を眺め

色街帰りの旦那を待った 待った

妬みが強いとて 返された 返された

 

オリジナルの四番目が出来たことで「悪魔の手毬唄」というタイトルに相応しい因縁じみた結末になってはいるものの、原作でも言及された手毬唄の法則から逸脱してしまったことは無視出来ない問題。

手毬唄は「三・五・七の何々尽くし」と相場が決まっており、原作の場合だと三人の娘を歌った娘尽くしの「娘うた」と、お庄屋さんを歌った「お庄屋うた」の二種類があることが判明する。一方ドラマでは「お庄屋うた」がカットされ四人の娘になったことで法則から外れることになり、結果何とも居心地の悪いことになってしまった。

どうせ四番目をやるのだったら、お庄屋うたも合わせて五人の村人尽くしという形にした方がまとまりがあったと思うのだけどな~。一番目にお庄屋、二から四番目に三人の娘、五番目に犯人という事件の流れとも合致してより因縁じみた手毬唄になるのに。

 

古谷一行起用で生まれた「粋な演出」

正直視聴前は古谷さんを磯川警部に起用したのは「新旧金田一のコラボ」“だけ”だと思っていたのよ。横溝正史シリーズを見ていた古谷金田一のファンとして、当然嬉しかった。けど、それだけではなかった。

前述したが、加藤シゲアキさんが演じる金田一は人に寄り添う心とか、真相がわかった時のショックがあまりない、比較的淡々としたキャラクターの金田一だ。それに対し、古谷さんがかつて演じていた金田一は情に訴えかける性格が強い金田一だった。古谷さんが金田一耕助として初登場した「犬神家の一族」では、松子夫人に対して「どうしてあなた方家族は人が持つ暖かさから背くのか」といった旨の発言をしている。

そんな情に厚い金田一を演じた古谷さんが磯川警部としてリカに寄り添い、逃亡・自殺を見逃す終盤の展開は、古谷さんだったからこその説得力があると思う。今回のシゲ金が犯人にあまり同情的ではない分、古谷さんが出す「温情」というか「赦し」が心に沁みわたるのだ。

 

さいごに

今回は原作未読の方が原作を読む良い切っ掛けになるドラマ化になっていたことは勿論、ドラマ単体としても気が利いていて続編に期待したいと思える内容になっていた。

来年も古谷さんを起用できるなら「獄門島」が見たいと思うのだが、シゲ金と生瀬さんのコンビを続けるつもりならば「女王蜂」が妥当なのかもしれない。

でも正直シゲ金の魅力を引き出すのならば、田舎の事件よりも都市部の犯罪の方がしっくり来るのでは?と思っており、そういう観点から私は「三つ首塔」「白と黒」の二作を強く推していきたい。

 

あと古谷金田一をあまり知らない方は最低限横溝正史シリーズの「犬神家の一族」と「悪魔の手毬唄」は見て欲しいな、と思う。特に「悪魔の手毬唄」はドラマの中で最も原作に忠実だから見てね。

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思わず明智にグッときた、映画「屍人荘の殺人」(ネタバレなし感想)

屍人荘の殺人 (創元推理文庫)

観て来ましたよ~、屍人荘。

 

 

 

 

 

一応公開初日の感想なので、出来るだけネタバレせずに感想を述べたら上のツイートのようになった。

それにしても小説で読むのと映像で観るのとでは「アレ」が原因でクローズドサークルになる展開の印象が全然違うわ。読んでいたときは割と「へ~、大変だな」と他人事みたいに思っていたけど、映画で観ると「よ、よく生き残れたな…。こんな状況で生き残れる自信、私にはないな…」と思った程。それだけでも今回ちゃんと映画館に行って観て良かったと確信した。

 

メインキャラについては監督が木村ひさし氏と聞いていたので「変にコミカルなキャラ設定に改変するのでは?」という懸念もあったけど、これに関しては杞憂に終わった。剣崎比留子の雲竜型のポーズはTRICK山田奈緒子の決め台詞である「お前のやったことは全てお見通しだ!」みたいなモンで、特別原作のキャラ設定を邪魔していた訳ではないし、映像化作品において探偵に決めポーズや決め台詞を入れるのは定番だからね。

 

山田も剣崎も「逃れられない宿命を背負った探偵」だから個人的に今回監督と脚本が「TRICK」経験者だったというのは(偶然なのか必然なのかわからないけど)良縁としか言いようがない。劇中で登場したナポリタンTRICKシリーズ初の映画となったトリック劇場版に出て来たアイテムだし、高木凛を演じたふせえりさんは「トリック劇場版」でチョイ役として登場していた。そういう繋がりが見えたのもTRICKファンとして嬉しかった。

 

原作は葉村や被害者といったキャラクターの過去の掘り下げがあり、それが葉村の心の葛藤に影響する場面があったが、映画ではその辺りがカットされていたのは仕方ないだろう。謎解きミステリ映画として優先すべき描写は沢山あったし、内面描写は原作小説の特権としておけば良い。

 

映画、原作を先に読むべきか、読まずに観るべきか

「原作を先に読んでから観た方が良いのか?」というのはミステリに限らない問題だけれど本作に関して言えば、情報処理能力に自信がある人なら映画を先に観ても大丈夫だ、というのが個人的な意見。

「アレ」が登場してくる場面は圧倒的に映像の方がインパクトがあるし、その衝撃を味わいたいのなら映画を先に観ても良いが、謎解き部分については初見で完全に理解し感心出来るかと考えると、正直私は自信がない。現に映画の上映が終了した際に近くの人(原作未読)が本作の感想を言っていたのを耳にしたのだが、やはり謎解き部分がストンと理解出来なかった模様。

まぁ原作と違って簡略化している部分もあるから「別解」を潰しきれていないのは確かだし、小説みたいに読み返せないから仕方ないのだけど、それは物語のテンポを悪くしないためでもあるし、そこまでやると尺が伸びるからね。わからなかったら原作を読んでもう一回観たら良いのだ。

 

反対に「既に原作を読んでいるけど、映画を観るべきかな?改悪になっているのでは…」と悩んでいるのなら、私は「観ろ」と断言する。確かに謎解きは簡略化されているし、キャラの過去設定はカットされ、被害者は単純な悪役になってはいるものの、それは大きな瑕疵ではない。「謎解きの簡略化」「単純な悪役」というのは市川崑監督の「悪魔の手毬唄における改変でもあったくらいだし、他に比重をおいて描くべき所があったからそうなっただけの話だと思う。そんなことより評価したいことがあるのだ。

 

Twitterの感想をちらちら見ていると、原作未読の人は何故「アレ」が出て来たのかわからないって感じだったから「アレ」に関してはミステリの謎を形成するガジェットくらいに捉えるべきだと言っておく。そして詳しいことは原作で確かめてとしか言えぬ。

(2019.12.16追記)

 

最高だよ、明智…!!

本作のもう一人の探偵、明智恭介。出番としては葉村・剣崎コンビがメインで出番は圧倒的に少ないから、「常時中村倫也さんの尊顔を拝したい」という方にはオススメ出来ないかもしれないが、意外にも原作を読んだ時より明智のキャラが印象に残ったのだよな。

個人的に原作初読時の明智剣崎の対比として登場する名(「迷」の要素もある)探偵という印象しかなかった。つまり「自分から首を突っ込み場をかき乱し、空気が読めない言動をする」というドラマでもよくある定番の探偵キャラという印象である。

明智が「名」と「迷」の両方の面を持つ探偵という点で、今回中村さんがこの役を演じたのは良かったし見事にハマっていた。ただ、実を言うと映画を観ている途中、原作の「ある出来事」(文庫版102~107頁)がカットされて別のオリジナルエピソードが挿入されていた所で、「あれ?明智はこのまま迷探偵として終わるのか?」という危惧があった。その「ある出来事」こそ、明智が名探偵でもある証拠となっており、その出来事がなければ、それこそ明智は良いトコなしの変人迷探偵として終わってしまうからだ。

 

しかし、このオリジナルエピソードによって明智名探偵としての格が保持されているのが脚本の巧い所なのだ。

そのオリジナルエピソードを抜き取ってしまうと、明智のとった行動はほぼ原作通りなのだが、このエピソードが追加されたことで明智の探偵としてのキャラに深みが出たと思っている。

詳しくはネタバレになるので言えないが、明智がとった行為は人として当然の行為なのだが、その行為がもたらす効果について彼なりに色々と考えていたのではないか?と終盤の展開で気づかされた。そう思った途端、序盤のあるシーンを思い出してグッときたのである。そのシーンは何てことないシーンだが、その時彼が直面した苦悩を思うと「よく頑張ったぞ…!」と称えたくなる。

 

いや正直こんな所で明智に思い入れが出来てしまうとは予想外だった。

ありがとう、蒔田光治氏。

 

さいごに

原作小説と映画、それぞれのプラス・マイナスポイントを挙げておこう。

 

・原作小説

プラス:本格ミステリ初心者にもとっつき易い、リーダビリティーのある物語。「アレ」をガジェットとして徹底的に巧く利用している(クローズドサークル、凶器等)。

マイナス:犯人の意外性が薄め。犯人の境遇と犯行のやり口との釣り合いがとれていない感じがする。ある「独白」が(ミステリとして)少々あざとく不自然。

 

・映画

プラス:押さえておくべき原作要素を押さえた映像化。原作におけるグロさを演出で観易くしている。「TRICK」の衣鉢を継ぐテーマ性と、小ネタとテンポの良さ。出番の少ない明智の印象を深めた最良の改変。原作小説のマイナスポイントを改変。

マイナス:登場人物のキャラ設定、謎解きが簡略化・カットされている。原作未読勢には1回の観劇で理解しがたい感がある。謎解きの簡略化により「別解潰し」が為されていないため、推理の徹底性に弱い所がある。

 

原作小説も映画もそれぞれマイナスポイントはあるが、どちらも一方のマイナスをもう一方が補っているという感じがした。それゆえに原作を読んだだけの方は映画に、映画を観ただけの方は原作に触れて欲しい。両者を目にすることで「屍人荘の殺人」をより深く楽しむことが出来るのだから。

 

あとPerfumeの「再生」、タイトル・歌詞・振付全てが作品と関係しているし、単純に曲としてもすばらだ。当分耳から離れない。

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愛が多すぎてまとまりに欠けたBSプレミアム「八つ墓村」(ネタバレあり)

今回の八つ墓村、2004年の稲垣版から実に15年ぶりのドラマ化だったのか。

さあ、視聴後の熱冷めやらぬうちに感想をば。

八つ墓村 (角川文庫)

(以下、ドラマ・原作のネタバレあり)

 

愛がテーマの吉岡版

インタビュー記事で既に紹介されていた通り、今回の八つ墓村「愛」がテーマとなっている。

この記事を目にした時、「そういや原作でも様々な愛が描かれていたな」と思い出した。

典子と辰弥の愛、春代の一方通行な愛、子を想う母鶴子の愛、殺人鬼の要蔵によって奪われた愛、犯人のある人に対する愛、亀井陽一の忍ぶ愛…といった具合に一つの作品に溢れる愛の数々。

それに加えて無差別連続殺人といったミステリー要素や八つ墓明神の祟りといったオカルト・ホラー要素、更に宝探し要素まであるのだから、「盛沢山なのに、よくもまぁ話が空中分解せずにまとまっているな」と感心するばかり。流石は横溝先生。

 

でも、小説ならともかくドラマでこれだけの要素を全てやるのはどだい無理な話で、事実これまでの映像作品は「愛」の部分、特に典子と辰弥の愛がカットされている。というか典子自体存在していないことになっている。(典子が登場したのは本作と豊川悦司の映画版のみ)

今回は愛がテーマなので、典子も出て来るし、今までの作品でずっとカットされてきた英泉のエピソードも挿入されている。これは原作における辰弥の「救い」となるので、実は結構重要な部分ではあるのだが今までの作品のほとんどでカットされている。

 

これは尺の都合仕方ない部分もあるし、殺人事件がメインなのだからそちらの描写にまで力を入れていられない事情があったと思う。それに典子と英泉のエピソードをカットしても話としては何ら破綻する訳ではない。何故なら辰弥にとって「殺人犯の子ではなかったこと」(心理的救済)「落ち武者の財宝を見つけたこと」(経済的救済)で十分救済になっているからだ。現に稲垣版では辰弥出生の秘密が明らかになったことで辰弥は母の愛を知り、母が遺した地図で財宝を得ている。

重要でありながらカットしても話は成立する。典子と英泉のエピソードは映像化作品ではそんな微妙かつ不憫な立場に立っているのだ。

 

「どうしようもない感」が強い辰弥

原作でも結構振り回されて大変な目に遭っている辰弥だが、今回は犯人に良い様に振り回された挙句、春代や典子に対してクズな態度をとってしまった。

もし原作を読んですぐにこのドラマを見ていたら「恩人に手をかけるとは、何たるクズだ!」とか「春代に何てこと言うのだコイツ!」みたいに憤懣の念が強かっただろう。

でもこれまでの映像化作品を見ていると「原作の辰弥がやったかもしれない」という if 的展開としてあり得るかも…と受け入れている自分がいる。

(改変については横溝クラスタは案外寛容だったりする)

 

確かに里村慎太郎に財産がわたって得をするのは身内である典子もそうなのだから疑ってしまうのも当然だし、原作みたいに好意を寄せたくなるようなものが劇中では見受けられなかったので、手をかけてしまったのも仕方がないといえば仕方がないのかも…。

原作では大きな傷を負わなかった辰弥が今回は片岡吉蔵によって強烈な一撃を喰らったのは、春代・典子に対してクズな行いをした故の“制裁”(脚本家からの)ではないだろうか?

 

愛が多すぎて…

今回のドラマを見て全体的に散漫な印象を受けた。これは今までの映像化作品で見受けられた祟りの発端となる落ち武者殺しや32人殺しの場面が簡素化されてしまい、原作の持ち味の一つであるおどろおどろしさが薄まったせいもあるだろうが、様々な愛を描き過ぎたことも原因ではないかと思う。

典子の一途な愛・春代の不憫な愛・英泉の忍ぶ愛・美也子の偽りの愛・母鶴子の愛と、劇中で出ただけでもざっとこんなにある。尺に限りのない小説ならまだしも、映像ともなると事件のことも描かなきゃいけないし、ミステリーだから謎解きもしなきゃいけないしで、結果的にどれもパッとしない感じだった気がする。まぁこれは原作を映像化する上で避けては通れない道だし仕方ないのかもしれないが、原作の典子と辰弥の愛の描写が良かっただけに、今回の押しかけ女房的なオチはあんまり受け入れられなかった。

 

…ところで、愛のために殺人を犯す人間なら裏切られる辛さとか理解できるにも関かかわらず、偽りの愛で辰弥を翻弄した美也子は今までの映像化作品の中で最も邪悪性が高い美也子ではないだろうか。だから真木よう子さんが起用されたのかしら(サイコパスみがある演技が合う人だからね)。

 

あと「愛がテーマ」と言っていたのにエンディングが小竹の自殺というのはいかがなものだろうか。八つ墓明神の祟りを前面に押し出していたのならともかく、愛がテーマの本作で「祟りはあるかもしれない」ことを仄めかすオチで物語を閉じるのはどうも合わない。

…いや、もしかしてあれは「死んだ小梅さんの元へ行きたい」という姉妹愛の表れだったのか…!?

『ジェリーフィッシュは凍らない』雑感(ネタバレあり)

ジェリーフィッシュは凍らない (創元推理文庫)

本日、『ジェリーフィッシュは凍らない』を読み終わった。

 

そして誰もいなくなった』『十角館の殺人』『殺しの双曲線』といった、

 ①外部からの出入りが不可能な状況下(クローズド・サークル)

 ②①の状況下にいる登場人物全員が死亡

 ③犯人となる人物が(一見すると)いない

の条件を満たしたミステリで、第26回鮎川哲也賞受賞作。

 

(以下、ネタバレのため要注意!)

 

 

いつも読み終わった後、参考に「黄金の羊毛亭」にUPされている感想記事をチェックしている。

ミステリ&SF感想vol.227

本作の場合、「航行試験計画書」のアンフェアさ・犯人のわかりやすさ・ハウダニットに対する批評がなされている。具体的な内容については上記のサイトのネタバレ感想を読んでいただきたい。

 

著者が犯人の意外性を放棄していることは話の構成からしてみてもわかるが、ミステリ好きの私は、「バラバラにされた被害者がエドワードではなくサイモンだった」と明かされる前に、「唯一身体がバラバラにされた被害者」という時点で「怪しい」と思った。

本書の場合はバラバラにした所に作為が感じられたのもあるけれど、「容疑者の中で唯一絶対的に他殺とわかるような殺され方をしている=犯人の可能性が高い」というのは、『そして誰もいなくなった』系統のミステリにおけるメタ的推理あるあるの一つだと思う。

 

あと『そして誰もいなくなった』系統のミステリを読んでいると自然と法則というかパターンのようなものが見えてくる。

例えば「序盤で死亡した人物は犯人でない」。序盤で死んだフリをしながら殺していくのはまず無理だしリスクが高いからね。

あと「毒殺された人物は犯人でない」。これも毒殺されたフリをするのはまず無理。撲殺・刺殺と違って、(まず間違いなく)他者に身体を触られて生存確認されてしまうから。勿論共犯となる人がいて嘘の死亡確認をしてくれれば話は別だろうけど、それでも死体として運搬される時に第三者に触られることを考えるとリスクが高い。

 

さて、これまでの『そして誰もいなくなった』系統のミステリにおける課題点は以下のポイントになるだろう。

①クローズド・サークル内部犯の場合、犯人だと悟られずにどうやってターゲットを殺していくか

②クローズド・サークル内部犯で自殺する場合、どうやって他殺されたように見せかけるか

③クローズド・サークル内部犯で自殺しない場合、どうやって死亡したと他の人間に思わせるか

④クローズド・サークル外部犯の場合、そもそもどうやって内部に侵入するか

⑤クローズド・サークル外部犯の場合、内部の被害者に気づかれずにどうやって殺していくか

⑥クローズド・サークル内外を問わず自殺しない場合、クローズド・サークルからいかに脱出するか

※これは犯人がクローズド・サークル内部にいることを外部の人間が知っていて、その人物に対して死んだように思わせたい、または内部の被害者に自分が死んだように見せかけたい場合に限る。

 

本書の場合は⑥がメイントリックとしてよく出来ていた。特に中盤で否定された「二つのジェリーフィッシュ」説が、乗員の《亡命組》による国外逃亡計画という点で鮮やかにクリアされているのが巧かった。

今後も『そして誰もいなくなった』系統のミステリに挑戦して書く者がいると思うが、上記のポイントを押さえた堅実な作品が出るのか、もしくは私の意表を突くような新たな作品が出て来るのか。こればかりは神のみぞ知る。

BBCドラマ版「無実はさいなむ」結末改変について考えてみる(ネタバレあり)

先週6日、NHKBSプレミアムにてBBCドラマ版「無実はさいなむ」が完結。

原作未読だったため「原作を読んでから視聴しよう」と思い、本日原作を読了。

無実はさいなむ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

間を空けることなくドラマを録画視聴した訳だが、原作と全く結末が異なっていることに少なからず驚いた。

と同時に、何故この結末にしたのか?という部分も気になった。と言うのも、今回改変した結末はある部分で意外性に欠けるきらいがあるからだ。

 

 

(以下、原作とドラマのネタバレを含むため要注意!!)

 

 

何故改変されたのだろう?

原作と違う部分は多々あるが、今回は犯人とその動機の違いこそが最大の改変。

原作ではジャックに唆されたカーステンがレイチェルを殺害。殺害の動機を持つジャックは嫌疑から免れるためにアリバイを作ったものの、証人となるカルガリー博士の事故が原因で証明出来ずに逮捕されてしまった…というのが真相。

 

一方のドラマではレイチェルの夫であるレオが犯人。秘書グウェンダとの浮気が妻にバレた挙句殺害。実際に用いた置物ではなくデカンタが凶器と認定され、そこに付いていた指紋からジャックが逮捕される。しかし、勾留中のジャックは自分がレオとカーステンの子供であることを裁判で暴露するとレオを脅す。そのためレオは警察関係者でありジャックに怨恨の情があったグールドをけしかけてジャックを殺害した…というのが真相。

 

原作・ドラマに共通するのは事件にカーステンが関係している位であとは全くの別物なのだが、この改変理由を考えるには原作の解決の筋道をちょっと振り返る必要がある。

 

原作ではカルガリーが事件の謎を解く役を務めるのだが、彼が真相に至ったポイントは以下の通り。

①ジャックのアリバイ証言があまりにもはっきりしていたこと。

②ジャックが殺意を抱くのはわかるが、それを実行するのはあり得ないということ。(マクマスターの証言)

③容疑者の中でカーステンだけがジャックを「よこしまな人」と断定的に責めたこと。

④ジャックの先妻がサマー・ポイントを訪問したこと。

⑤フィリップの死体が発見された時、カーステンが持ってきたカップが空だったこと。

⑥ティナを刺せるチャンスがカーステンにあったこと。

 

①②はジャックが殺人教唆をしたことを示す手がかり、③④⑥はカーステンが犯人である間接的な手がかり、⑤はカーステンが犯人である直接的な手がかりとなる。

ドラマでは原作同様フィリップが死亡するものの、⑤のような手がかりはないし、⑥のようにティナが刺されることもない。では何故この描写がカットされたのか?

これは後述する「難点」が関係するが、それを抜きにしても、映像だと余りにも直接的過ぎる手がかりになってしまうからだろう。文章だからこそ大きな違和感にならないが、映像でお茶の入ってないカップは不自然過ぎるし、ティナの刺された瞬間を仄めかしつつも映像でそれを視聴者に気取られないよう映すのもまた難しい。

 

そして原作の巻末解説で濱中利信氏が指摘している「難点」の一つが、改変に影響を与えたのではないか?と私は推測している。

(前略)事件そのものにも疑問があります。これほど狡猾で邪悪な犯人が、自分のアリバイを証明してくれる証人が現れない状況下で六ヵ月も待つものでしょうか?真相を暴露して、自分の罪状を少しでも軽くするように動くのが、この犯人の性格からして妥当なのではないでしょうか?

 つまり、病気になった時点で少なくとも罪状を軽くするためにカーステンが実行犯だと吐露した方が益があるというのに、それをせず獄中死したのが不自然であり難点だというのが濱中氏の指摘である。この難点にドラマ制作陣、特に脚本は気づいていたのではないだろうか?

勿論、原作と違う結末を用意することで、原作既読者・未読者の両方を楽しませる目的があったのかもしれないが、この「難点」を起点としてあのような大胆ともいえる改変が為されたようにも思える。

「アリバイ証人が出るまで何か月も待って死ぬのは不自然。ならば病死ではなく獄中で殺された、という形に変えるのはどうだろうか?獄中で殺すとなると犯人は警察関係者になるが、それだとけしかける相手がいるな…。ならばリオが役柄として妥当だろうな。原作の秘書との結婚を動機に利用すればレイチェル殺害もイケるな」

…という具合に脚本の頭の中で改変のプロセスが出来上がったのではないだろうか?

 

この改変の巧い所は、上記の難点を解決しつつも原作にあった殺人教唆の要素をしっかりと取り入れている所。そして何より邪悪性という部分も活かされている。ドラマではリオの邪悪性が遺伝した結果、ジャックがあのような性格になった(少なくとも彼自身はそう思っている)訳であるが、だからと言ってそれで自身のこれまでの行状を父親のせいにするのもどうかと思うし、リオもまたその点で親としての責任を放棄していた部分にも問題がある。両者の邪悪性がぶつかった結果、共に不幸な運命を辿ったという点で、原作の平和的決着とは真逆の何とも嫌な余韻が残る。

 

この前に放送された「検察側の証人」といい、ここの所BBC版のクリスティ原作ドラマはイヤミス路線まっしぐらだが、個人的にはもうちょっと鬱屈さの無い、ある程度風通しの良さを感じさせる雰囲気にしてほしい所ではあるが…。でもまぁ、テレ朝の蛮行に比べたらだいぶマシなのでこれはこれで、ね。