正月休みの勢いにまかせて、『狩人の悪夢』を読了。その際に『本陣殺人事件』らしいものを感じたので自分なりに考えてみた。
(以下、『狩人の悪夢』『本陣殺人事件』のネタバレあり。また『狩人の悪夢』はHuluオリジナルドラマ版についても言及するので未試聴の方は要注意!)
「恥」という悪夢
『本陣殺人事件』(以下『本陣』)といえば、密室トリックもさることながら犯人の犯行動機の特殊さが取りざたされ、それにより賛否の意見が分かれることがしばしば。
犯人の潔癖性と旧家の跡取りとしての威厳、そして村という共同体が犯人を窮地に立たせているのが『本陣』の面白い所だ。人によっては「処女厨の犯行」と言い切っているが、個人的にはこの物語の根源には「恥」が関係していると思っている。
ルース・ベネディクト『菊と刀』でも言及されているが、日本人は「恥」をかくことを極度に嫌う。勿論、この論説には批判出来る部分もあるし、現代の日本人の中には恥を厭わない人もいるだろうから、「日本人=恥を嫌う」というのは一概には言えない。
ただ、「恥を嫌う」のは人間の感情として自然なことであり、「恥から逃れられない状況」に陥りたくないと足掻こうとするのも、これまた自然ではないだろうか。
「村」という共同体、そして「由緒ある名家の当主」、この2つこそ犯人が「恥」から逃れる退路を断つ要因として立ちはだかり、結果複雑怪奇な殺人事件として現出したのだ。
現代では家格や当主といった価値観は廃れ、村という共同体も昔ほど強固なものではないため、『本陣』の犯人のように追い詰められる状況は起こらず、「恥」を殺人動機に置くのも現代のミステリには似合わないと思っていたのだが、今回『狩人の悪夢』(以下『狩人』)で、やり様によっては現代でも「恥」を根源とした殺人事件は描けるものだと発見した。
『狩人』の犯行動機は、犯人が著したとされる大ヒット作『ナイトメア・ライジング』(以下『ナイライ』)が実は犯人のアシスタントの作品であり、それを知っていた女性にその事実を公表されることを防ぐため。つまり「口封じ」の殺人である。
「これのどこに恥が関係しているのだ?」と思うだろうが、よく考えてほしい。もし『ナイライ』がゴーストライターによるものだと公表された場合、犯人にとっては経済的な損失だけでなく、世間から白眼視されることになる。しかも『ナイライ』は既にハリウッド映画として公開が予定されており、この問題が明るみに出れば日本だけでなく世界からもバッシングされることになる。
犯人にとってこの問題が暴露されることはかなりの屈辱になることは間違いない。ましてや、作家として初めてヒットしたのがこの『ナイライ』であり、それ以前の純文学作品は鳴かず飛ばずだったのだから、その点もマスコミに暴き立てられ「ほうら、やはりコイツに才能は無かったのだ」と笑われることになるのだ。これは『本陣』における「恥」なんて比にならない大恥だ。
『狩人』の作中では、犯人は作家を引退するつもりでいた。ゴーストライターが遺した作品を公表し、自分が考えたサスペンス・ミステリを書いて作家を引退することで、犯人は「秘密」から解放されることを望んだ。
しかし運命はそれを許さない。
アメリカから帰国した女性がその事実を突き止め、一種の正義感から「秘密」の暴露をしようとした。生きていたら弁護してくれたであろう※ゴーストライターのアシスタントも2年前に他界しており、犯人の退路は断たれたも同然。殺すしか選択肢はなかったのだ。
殺してもなお続く不測の事態に犯人は狼狽し、結果「とっ散らかった」様相を呈した事件となったのが、この物語の面白い所。
※作中で言及されているが、アシスタントは過去に正当防衛で父親を殺害しており、自分の実名がネットに流出したことで心に傷を受けていた。そのため自分名義で作品を出すとマスコミから過去の事件が蒸し返される恐れがあり、それを嫌った彼はゴーストライターとして作品を世に出すことを良しとした可能性がある。
『本陣』では村内における恥だが、『狩人』では恥の規模が大きくなり世界的な恥となっているのが特徴。『本陣』では自らも死ぬことで「恥」という来るべき現実の悪夢から逃れようとした犯人だったが、『狩人』では逃れようともがくほど泥沼にはまっていくという感じ。そんな犯人が運命と論理の糸によって射止められ、追いつめられる様が何とも哀れで印象深い。
「切断された手首」と「偶然」の扱い
『本陣』と『狩人』を比較していて気になったのは「切断された手首」と「偶然」の扱い方の違いだ。
『本陣』における「切断された手首」というのは、三本指の男の右手首のこと。犯人はこれをスタンプのように利用して殺害現場に三本指の血の手形を残し、犯人は三本指の男だと捜査陣に印象付けた。
一方『狩人』では二つの手首が出て来る。一つは証拠隠滅として、そしてもう一つは殺害現場の偽装として。特に殺害現場の偽装として切断された手首は、血の手形をスタンプするために切断した、と捜査陣に思わせるためであり、切断の目的が『本陣』と真逆になっているのが面白い。
そして「偶然」。『本陣』では「雪」という偶然によって密室殺人の謎が生まれる。『狩人』では「落雷による倒木」が起こり、これが犯人特定の材料となる。共通するものがあるとしたら、どちらの犯人も偶然によって困ったことになったということだろうか。
Huluオリジナルドラマ版について
原作を読んだらドラマの方も気になったので、Huluに加入して見てみた。
連ドラの方で作風がどんなものか把握していたので期待はしてなかったが、まぁまぁという感じ。駄作とまではいかないけれど、味付けが気に入らぬ。
序盤の大学の講演として出て来た「推理クイズ」ははっきり言って蛇足だったし、そんなの入れるなら他に描写すべきことがあっただろ、というのが真っ先に感じた不満。
本筋の事件についてはほぼ原作通り。ただ、原作ではアリスが来る前日に凶行があったのに対し、ドラマではアリスが来た当日に起こった事件となっているため、「倒木の連絡時刻」が変わっている。
謎解きのプロセスも原作に沿っているが、ちょっと勿体ないと思ったのは「弓に血が付いていなかったこと」がカットされていた点。この情報によって現場の血の手形が真犯人の偽装工作である証拠になるのだから、それを無視したのはいただけない。
あと第二の被害者(大泉)の左手首切断の理由について。劇中の台詞をそのまま引用すると、
「大泉の左手に左手首が無ければ、犯人は廃屋で大泉を殺し、左手首だけを徒歩で沖田の現場まで持って行ったと解釈されるのではないか」
と述べ、「猟奇殺人に見せかけ捜査を撹乱」する目的もあっただろうと推理している。揚げ足をとるような指摘になるが、上記の台詞を一回聞いただけでは切断目的がピンと来ない。せめて「スタンプ」というワードがあれば、「偽装工作のため手首をスタンプとして利用するために切断したと思わせる」目的が頭に入りやすいと思った。まぁネット配信のドラマなので、見直しが出来る分そこは大した瑕疵ではないのだが。
そして事件の決着の仕方として火村が机をバンバン叩き、「あんたの見ている悪夢はな…現実だ!」と言い放つ場面。
何だいコレ?お前は「半沢直樹」の小木曽か!!
連ドラを見ていた時にも感じたが、ドラマの火村はサディスティックな断罪者という面がある。ある意味探偵のカッコよさを演出するつもりなのだろうが、私はこういうのが嫌いだ。
犯罪者にも色々あって、快楽目的で人を殺す者もいれば本作のようにのっぴきならぬ事情で人を殺す者もいる。でも大半はのっぴきならぬ事情の方が多いのではないだろうか。それなのに、ドラマの火村は「この犯罪は美しくない」と、芸術作品を評価するかの如くのたまい、解決場面においては容疑者の神経を逆撫でするような態度で話を進める(連ドラの「朱色の研究」は酷かったぞ…)。
その態度は犯罪者を狩る優越感からか、或いは「人を殺したい」と思った心の闇が犯人を追い詰めるサディスティックさに影響を与えているのか、解釈はどうにでもなるし、探偵も人間なのでそういうエゴイスティックな部分を演出するのは悪いことではないと思う。が、そんな探偵像の演出によって犯人の心情や事件の内情が蔑ろにされてはならない。
にもかかわらず、ドラマではそういった機微がカットされたり簡略化されてしまっているので、それが不満となってしまうのだ。
今回の場合、犯人が作家を引退しようとしていたことや、亡くなったアシスタントが自分名義で作品を発表出来なかった事情がカットされているため、犯人が現実という悪夢から逃れられない事態に陥っていた深刻さや、弁護してくれる人のいない運命の恐ろしさは感じられず、「衝動的に人を殺し、あとは現実逃避するかの如く偽装工作を重ねた犯人」という、何とも薄い犯人造形になってしまった。
地上波放送でない分、尺の制約はそれほど厳しい訳でもないのだから、正直そういったバックボーンを入れようと思えば入れられたはずなのにね。
続編を楽しんだ人には悪いが、犯人の物語より探偵側の物語を優先するという、悪い所が継承された映像化、というのが率直な意見である。