タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

愛が多すぎてまとまりに欠けたBSプレミアム「八つ墓村」(ネタバレあり)

今回の八つ墓村、2004年の稲垣版から実に15年ぶりのドラマ化だったのか。

さあ、視聴後の熱冷めやらぬうちに感想をば。

八つ墓村 (角川文庫)

(以下、ドラマ・原作のネタバレあり)

 

愛がテーマの吉岡版

インタビュー記事で既に紹介されていた通り、今回の八つ墓村「愛」がテーマとなっている。

この記事を目にした時、「そういや原作でも様々な愛が描かれていたな」と思い出した。

典子と辰弥の愛、春代の一方通行な愛、子を想う母鶴子の愛、殺人鬼の要蔵によって奪われた愛、犯人のある人に対する愛、亀井陽一の忍ぶ愛…といった具合に一つの作品に溢れる愛の数々。

それに加えて無差別連続殺人といったミステリー要素や八つ墓明神の祟りといったオカルト・ホラー要素、更に宝探し要素まであるのだから、「盛沢山なのに、よくもまぁ話が空中分解せずにまとまっているな」と感心するばかり。流石は横溝先生。

 

でも、小説ならともかくドラマでこれだけの要素を全てやるのはどだい無理な話で、事実これまでの映像作品は「愛」の部分、特に典子と辰弥の愛がカットされている。というか典子自体存在していないことになっている。(典子が登場したのは本作と豊川悦司の映画版のみ)

今回は愛がテーマなので、典子も出て来るし、今までの作品でずっとカットされてきた英泉のエピソードも挿入されている。これは原作における辰弥の「救い」となるので、実は結構重要な部分ではあるのだが今までの作品のほとんどでカットされている。

 

これは尺の都合仕方ない部分もあるし、殺人事件がメインなのだからそちらの描写にまで力を入れていられない事情があったと思う。それに典子と英泉のエピソードをカットしても話としては何ら破綻する訳ではない。何故なら辰弥にとって「殺人犯の子ではなかったこと」(心理的救済)「落ち武者の財宝を見つけたこと」(経済的救済)で十分救済になっているからだ。現に稲垣版では辰弥出生の秘密が明らかになったことで辰弥は母の愛を知り、母が遺した地図で財宝を得ている。

重要でありながらカットしても話は成立する。典子と英泉のエピソードは映像化作品ではそんな微妙かつ不憫な立場に立っているのだ。

 

「どうしようもない感」が強い辰弥

原作でも結構振り回されて大変な目に遭っている辰弥だが、今回は犯人に良い様に振り回された挙句、春代や典子に対してクズな態度をとってしまった。

もし原作を読んですぐにこのドラマを見ていたら「恩人に手をかけるとは、何たるクズだ!」とか「春代に何てこと言うのだコイツ!」みたいに憤懣の念が強かっただろう。

でもこれまでの映像化作品を見ていると「原作の辰弥がやったかもしれない」という if 的展開としてあり得るかも…と受け入れている自分がいる。

(改変については横溝クラスタは案外寛容だったりする)

 

確かに里村慎太郎に財産がわたって得をするのは身内である典子もそうなのだから疑ってしまうのも当然だし、原作みたいに好意を寄せたくなるようなものが劇中では見受けられなかったので、手をかけてしまったのも仕方がないといえば仕方がないのかも…。

原作では大きな傷を負わなかった辰弥が今回は片岡吉蔵によって強烈な一撃を喰らったのは、春代・典子に対してクズな行いをした故の“制裁”(脚本家からの)ではないだろうか?

 

愛が多すぎて…

今回のドラマを見て全体的に散漫な印象を受けた。これは今までの映像化作品で見受けられた祟りの発端となる落ち武者殺しや32人殺しの場面が簡素化されてしまい、原作の持ち味の一つであるおどろおどろしさが薄まったせいもあるだろうが、様々な愛を描き過ぎたことも原因ではないかと思う。

典子の一途な愛・春代の不憫な愛・英泉の忍ぶ愛・美也子の偽りの愛・母鶴子の愛と、劇中で出ただけでもざっとこんなにある。尺に限りのない小説ならまだしも、映像ともなると事件のことも描かなきゃいけないし、ミステリーだから謎解きもしなきゃいけないしで、結果的にどれもパッとしない感じだった気がする。まぁこれは原作を映像化する上で避けては通れない道だし仕方ないのかもしれないが、原作の典子と辰弥の愛の描写が良かっただけに、今回の押しかけ女房的なオチはあんまり受け入れられなかった。

 

…ところで、愛のために殺人を犯す人間なら裏切られる辛さとか理解できるにも関かかわらず、偽りの愛で辰弥を翻弄した美也子は今までの映像化作品の中で最も邪悪性が高い美也子ではないだろうか。だから真木よう子さんが起用されたのかしら(サイコパスみがある演技が合う人だからね)。

 

あと「愛がテーマ」と言っていたのにエンディングが小竹の自殺というのはいかがなものだろうか。八つ墓明神の祟りを前面に押し出していたのならともかく、愛がテーマの本作で「祟りはあるかもしれない」ことを仄めかすオチで物語を閉じるのはどうも合わない。

…いや、もしかしてあれは「死んだ小梅さんの元へ行きたい」という姉妹愛の表れだったのか…!?