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狂人の論理と古典ミステリの定番、「ミステリと言う勿れ」3話視聴

ミステリと言う勿れ(2) (フラワーコミックスα)

演出のコレジャナイ感に歯がゆさを感じた前回だったが、今回は比較的穏やかに見られた気がする。

 

(以下、原作とドラマのネタバレあり)

 

3話(バスジャック編・解決)

今回は前回のバスジャック編の続き。バスジャックの真の黒幕と連続生き埋め殺人犯の正体が明らかとなる回だったが、後半部の犬堂たちが香川の漂流郵便局を訪れる展開は原作の2巻では描かれていない。生憎原作は5巻までしか読めていないので詳しくはわからないが、ドラマの後半部の下りは6巻以降に描かれた展開だと思われるし、犬堂愛珠が生前ハガキに記した「ジュート」という存在がドラマの縦軸的な役割を果たしていくと思われる。ここは原作で読んでいなかったから普通に気になる所ではあるし、愛珠が暴君的な振る舞いをしていた心理的背景(病弱な境遇を身内に責任転嫁し、等価交換以上の家族的責任を果たさない)もちらっと示されたので興味深くもあった。

 

さて、今回のバスジャック編はミステリ的な視点で見ると古典ミステリ、それも海外の有名古典ミステリの諸要素が含まれた回というのが原作を読んだ時の私の評価で、ではどういった所が古典ミステリ的なのかをちょっと述べたい。

まず探偵にとって因縁の相手が登場するという点。シャーロック・ホームズにとってのモリアーティ教授やアイリーン・アドラー、エルキュール・ポワロにとってのヴェラ・ロサコフ伯爵夫人などがそれに該当するが、こういった探偵役の頭脳に比肩する強烈なインパクトを残すキャラクターというのはミステリ小説の定番で、物語を盛り上げてくれるという点で山場で登場したりする。この「ミステリと言う勿れ」では犬堂ガロ(当初は熊田と名乗った男性)が探偵役=久能整の因縁の相手として登場するが、立ち位置としてはモリアーティ教授みたいな宿敵ではなくアドラー嬢やロサコフ伯爵夫人みたいな探偵役の頭脳に比肩する人物=もう一人の天才(ただし犯罪者側)として描かれている感じがする。

どちらも天才ではあるが、その境遇や思想の違いにより完全に交わることは出来ない。絶妙な距離感とそれに伴う緊迫感を生み出す上で、探偵にとっての因縁の相手はミステリでは定番の存在と言えるのだ。

 

そして事件の内容については海外の古典ミステリでみられる盲点原理(見えない人)を利用しているのが注目すべき点で、ある意味使い古されたトリックの一つではあるのだが、今回の物語ではそれに狂人の論理を掛け合わせているのがユニークで面白い。子供の時から根付いた理屈に従って事故を隠蔽した人間が、いつしかそれが切っ掛けで快楽殺人鬼へと化していく様が本編で描かれたが、このような社会の常識を逸脱したルールに則って行われる犯罪を推理していくのもミステリの面白さの一つと言えるだろう。

あ、狂人の論理とは言ったが今回の犯人の「隠してしまえばなかったこと・片付けたことになる」という理屈はシュレディンガーの猫という量子力学の問題にもつながる気がするので一概に狂人と言って良いのかちょっと迷う部分もある。詳しくは各自ググってもらいたいが、観測されるまでは猫が生きている可能性も死んでいる可能性もどちらも同じくらいにある、という理屈が通るならば、生死の状況を確認・観測できない状況にするというのも、自分が殺人犯でないと理屈付けるために意図的にシュレディンガーの猫を作り出したのではないか…とそんなことを思ったのだ。

 

今回の事件を「シュレディンガーの猫」という観点で見ると、事件後ガロが整に送った煙草森の手首は「観測された死」であり、煙草森の行いとは真逆のギフトを送るという趣向に彼なりの洒落っ気(にしてはグロい?)が感じられると思わないだろうか?

 

という訳で、今回の感想は以上となる。不満を挙げるなら犯人の伏線が煙草森の失言と片付けの下りだけだった点だろうか。個人的にはトロッコ問題の下りもあった方が良かったのだが、前回あまりにも他の乗客のお悩み相談部分に力を入れ過ぎたせいでそこが疎かになったかな。まぁこのお悩み相談コーナー的展開もバスジャック編以降は控えめになるので次週以降はより良くなると思いたい。