タリホーです。

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ゲゲゲの鬼太郎(6期)第9話「河童の働き方改革」〈再放送〉視聴

やってほしかったな~。

 

河童

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日本を代表する妖怪の一体である河童、河童の三平シリーズでメインになった一方、ゲゲゲの鬼太郎の原作では意外なことにメインとして登場した話はない。アニメでは3期から河童をメインにした回が生産されるが、いずれの回もアニメオリジナルだったり、元々登場しない原作話に挿入される形となっている。

劇中で河童が相手から抜き取る尻子玉は、肛門の近くにあると信じられた想像上の内臓を指す。3期の磯女の回では、悪徳なリゾート開発を目論んだ人間を懲らしめるため鬼太郎に呼ばれた河童たちが彼らの尻子玉を抜いている。その際尻子玉を抜かれた人間たちは顔を真っ青にして尻を押さえて悶え苦しみながら逃げて行った(後に返された)。今期の場合は尻子玉を抜かれると腑抜けになるという設定になっている。

 

いそがし

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元々は絵巻に名前と姿が描かれているだけで、どういうことをする妖怪なのかは不明だが、水木先生の妖怪図鑑では人に取り憑く妖怪で、これに憑かれると落ち着きがなくなり、忙しくしていると安心感が得られるが、何もしないと罪悪感に駆られてしまうと記されている。

水木先生は、この妖怪が江戸時代に描かれたものであることから、人々は江戸時代の頃にこの「いそがし」を認知しはじめたのではないかと考えていた。つまり、忙しいという感覚が異常なことに人々が気づいたのは、戦乱が過ぎ去り治平が整った江戸時代からではないか、ということになる。

原作の鬼太郎シリーズには登場しない(『妖怪博士の朝食2』所収の「貧乏神」には登場している)が、アニメでは5期から登場。ちなみに、5期のいそがしの声を担当したのは、今期で一反木綿役をしている山口勝平さん。

 

そもそも「働き方改革」って何だ?

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

今回は1年目でギャグ回を主に担当した横谷昌宏氏の代表作とでも言うべき回だが、そもそも巷間で言われている働き方改革って何だろうか。

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少子高齢化に伴う労働者人口の低下によって生産力が低下するのを防ぐため、働き手を増やし、出生率を上げ、労働生産性を向上させる。これが「働き方改革」の目的で、2019年4月から働き方改革関連法」が順次施行されているようだ。

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働く人々が個々の事情に応じた多様で柔軟な働き方が「選択」出来るようにするための改革、という名目だが、要は経済発展と生産力アップが求められるということ。勿論、長時間労働の解消、正規・非正規雇用格差是正、高齢者の就労促進といった改善をすすめ、人間らしい「働き方」を推進する姿勢は立派だが、生産性の向上と人間らしい「働き方」の両立は今のところ実現するのは難しいんじゃないかな~というのが個人的な意見。

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生産性の向上とは、物理的にサービスの量を増加させる(製造業の場合作る量を増やす)訳であり、労働者人口が少ない現在において長時間労働を解消したところで、生産しなければいけない量は決まっているし、最終的に労働者にそのしわ寄せがくる。かといって労働者の数を増やしたとしても、これまでと同じレベルの利益では労働者への分配も少なくなるし、会社の利益自体が下がってしまう恐れがある。

つまり、すぐ実行したからと言って効果が出るほど「働き方改革」は甘くないのだ。今の状況で労働環境を改善すると、確かに精神的には楽になるかもしれないが、利益や生産性は低下するだろう。出生率を上げるにしても子育て・教育には金がかかるし、高齢者の雇用にしても出来ることが限られてくる。

 

しかも、現代は性の多様化が進んでいる。ゲイ・レズビアンカップルだけに限らず「子供を産まない」生き方をする人々も尊重しなければならない今、出生率を上げ生産性を向上させることはより難しくなっていると言えるだろう。

こうなってくると、「働き方改革」は個人レベルでどうこう出来る問題ではないし、物質的な利益を上げながら精神的な充足を満たせる社会を作るなど、今の日本では到底不可能なのではないか、と絶望的な結論になってしまう。

 

「働く」行為はあくまで手段

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

話を鬼太郎に戻そう。今回河童はきゅうり三本という給料につられて人間の会社で働くことになったが、劇中で次郎丸が言ったように、きゅうりはあくまでも嗜好品でそれが河童の全てではない。ということは、きゅうりを獲得するための労働も河童の全てではなく一部であるべきなのだ。それにも関わらず、河童たちの大部分を占めていた「のんびりとした時間」はその一部のために犠牲となり、本末転倒の結果となってしまった。

本作ではそんな河童の姿が「手段が人生の全て」になってしまった現代社を風刺していると言えるだろう。

 

社会レベルで金銭は経済活動発展の要みたいな存在だが、個人レベルでは欲求を満たし安寧を得るための道具でしかない。そして金銭という道具を得るための活動が「労働」となる。人によっては「労働」で物理的・精神的欲求を満たす人もいるだろうが、あくまで「労働」は金を得るための手段であり、これの逆、「働くために金を得る」状況は絶対起こらない。

 

にも関わらず、金を得る手段のために人は人生の多くを費やす。人生は労働の大半に費やされ、金は生活を賄うために用いられ、余暇はほんのちょっと。人生の一部だった仕事が大部分を占めることに対して、天職に就けた人は「好きな仕事に生涯を捧げられて幸せだ」と思うかもしれないが、仕事に喜びとか幸せを見いだせない人には不幸なことこのうえない。そしてその不幸を拭い去るために私たちは「社会貢献」といった労働の美徳を持ち出して精神の均衡を保っているのでは…というのが個人的な意見だ。

 

本来労働は金銭という対価を得る手段でそれ以上でもそれ以下でもないのだが、(一度先進国になったこともあってか)必要以上に労働に付加価値をつけ、成長する姿勢や意識の高さを求める。怠けることは悪徳とされ、アクセクしていないといけない空気を生み出してしまった。

これは別に私個人の勝手な意見ではない。「怠けることは悪徳」云々は『妖怪博士の朝食2』所収の「一生街」という短編で語られているのだ。

妖怪博士の朝食 (2) (小学館文庫)

水木先生の名言で「怠け者になりなさい」という言葉があるが、これは単に怠けろという意味だけではなく「“怠ける努力”をせよ」という意味も含まれているのではないかというのが個人的な意見だ。水木先生が晩年好きなことが出来たのは若い頃の激務があってこそであり、それが怠けられる基礎を作った。

そして怠けるというのは精神的余裕があってこその怠け。水木先生は『水木サンの幸福論 』において、若い時は怠けてはならないが、中年を過ぎたら愉快に怠けるクセをつけるべきだと提唱している。「四十にして惑わず」と孔子が言ったように、中年を過ぎれば大体世の中の道理や勝手はわかるようになるから、自然と精神的ゆとりが生まれやすい(「抜け道」みたいなモノがわかってくるというべきか?)ということだろうが、それが出来ている四十代は私の身近にはいなかったな。

 

まぁいずれにせよ、労働に人生全てを費やすのは勿体ないというのが水木作品を読んできた私の総意である。また、生産性を上げることにこだわらず生活水準をちょっと下げれば心理的余裕は生まれるかもしれないが、人間は欲が深いのでそれが出来ない。今回の物語の終盤、郷原社長が家族を自給自足生活に連れ出し失敗している所から見ても明らかだ。それに、幸福はどんなに論を重ねても主観的なもので、絶対的な幸福はあり得ないのだから。

 

働き方改革」によって日本人全員が幸福になるとは思えないが、金を得る目的だけで働いても良いという風潮がもっと広まってほしいというのが私の望みだ。酒席の付き合いとか、人間的成長とか、社会貢献とか、そういう「オマケ」を労働の本義にして欲しくないものである。