タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

ゲゲゲの鬼太郎(6期)第93話「まぼろしの汽車」視聴

吸血鬼ピー「私のことCOVID‐19だと思ったやつ出てこい」

『ゲゲゲの鬼太郎』第93話「まぼろしの汽車」の先行カット到着! 第3期で天童ユメコを演じた、色川京子さんがゲスト出演の画像-8

©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

 

吸血鬼ピーとモンロー

爬虫類か魚類のような見た目に、しゃちほこを彷彿とさせるスタイル。二本の足があり、尾びれにあたる部分に手があるこの吸血鬼は、モンローと共に同族となる吸血鬼を増やそうと画策した妖怪。特別強い能力がある訳ではないが、鬼太郎を吊り鐘に閉じ込め蒸し焼きにしたり、蒸し焼きで肉団子状態になった鬼太郎を吸血鬼に変え仲間を襲わせる所から見て、頭脳プレイに長けた吸血鬼と言えるだろう。また、シルクハットや靴を着用し、身だしなみに気をつかう一面がある。

 

アニメでは2・3・4・5期に登場。ピーとモンローの関係は原作ではよくわからないが、2・5期では夫婦の関係だということが明言されている。2・3期は強キャラとしての面目が保たれている感じがするが、4期から怪しくなる。

何故なら4期のピーが吸血鬼繁殖の拠点として選んだ場所は老人だらけの限界集落であり、そもそも歯のない年寄りを吸血鬼にしても噛みつきが出来ないし機動力も低いのだから、遅かれ早かれ頓挫する事件だと思った。

5期では一応頭脳プレイを以て鬼太郎を陥れてはいるが、吸血鬼なのに血を吸わず、美貌を保つために生気を求めるというまさかの設定。生気を奪われた人間は人形と化し、ピーのコレクション兼下僕となったが、最終的に鬼太郎にあっけなく退治される(っていうか、自滅したんだよな…ww)。後に吸血鬼エリートの回で再登場するものの、トマトジュースを飲みながら「エリートはヤバイ」という情報を鬼太郎に与えて逃げていくという何とも言えない立ち位置で終わった。

 

まぼろしの汽車

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

今回の原作は「まぼろしの汽車」。目玉おやじが最強だと言われる理由に挙げられるエピソードとして有名だが、原作通りまぼろしの汽車が目玉おやじによって召喚される展開になるのは意外にも2期と今期だけ。3期のまぼろしの汽車は地獄の管理下にあり、閻魔大王の許可を得て使用出来るものとして改変されている。

そして4・5期になると、ピーの回でまぼろしの汽車は出てこなくなり、かろうじて鉄道要素が残される形となる(ただし、4期劇場版で西洋妖怪がまぼろしの汽車を奪う事件が起こる)。4期では老人たちを吸血鬼に変える場・吸血鬼になった老人たちを町へ送る道具として機関車が出て来るが、その分老人たちを吸血鬼になる前の過去に戻して人間に戻す方法がとれなくなったため、別の方法を使って吸血鬼を人間に戻した。これは是非本編を見て確かめていただきたい(ヒントは河豚)。

5期の鉄道要素は、鬼太郎たちを罠に嵌める場としてピーとモンローが用意したミステリートレイン。行先を乗客に伏せた旅行企画としてメジャーなのだが、この企画をお膳立てして鬼太郎たちを列車に乗せ、モンローが実行犯として生気を抜き、ピーは列車を運転する役割を果たした。

 

今期は原作通り目玉おやじが召喚出来る汽車となっているが、原作は召喚したら約一ヶ月は起き上がれないくらい体力を消耗するのに対して、今期は召喚すると命を落とすレベルなので、正に切り札中の切り札と呼べるシロモノだ。

 

「許されざる運命」か、「“まだ”許されざる運命」か?

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

今回の脚本は地獄の四将編以来約四か月ぶりの担当となる吉野弘幸氏によるもの。吸血鬼と化した世界で唯一猫娘が奮闘するプロットはウィル・スミス主演の映画アイ・アム・レジェンド(原作はリチャード・マシスン『地球最後の男』)を彷彿とさせ、そこにイムループの設定が加わり、同じ期間を何度も繰り返して悲劇を防ごうとする展開は西澤保彦『七回死んだ男』のようでもある。

アイ・アム・レジェンド 特別版(2枚組) [DVD]新装版 七回死んだ男 (講談社文庫)

偶然にも、今期における吸血鬼ピーの設定「東南アジアから日本に上陸した妖怪で、本体はさほど強くないが、下僕となる吸血鬼の繁殖力が異常に高く、確実な対策方法がない」というのが、今世間を騒がせるコロナウイルス「COVID‐19」のメタファーとなっているのが面白い(不謹慎かもしれないが)。こうもり猫回の献血ポスターといい、6期は狙って作られた風刺と偶然の産物の風刺が混ざっていて、メインの話よりもその符合に怖さを感じるわ。(^_^;)

 

物語の展開はほぼ原作通りだが、タイムループで時系列が行ったり来たりしていたので念のためおさらい。

(一・二周目の出来事は黒字でそれ以降の周は赤字。五周目以降、吸血鬼化した和尚や仲間に鬼太郎が襲われる周回があるが、便宜上カットし2月17日からの周を六周目としてカウントする)

 

《2月14日 夕刻》

猫娘、鬼太郎にチョコを渡し思いを告白する。

猫娘、鬼太郎と2ショット写真を撮りスマホの待ち受けにする。

・村の子供、ピーのシルクハットによって吸血鬼化したねずみ男を目撃する。

猫娘、ピーとモンローを退治する。(七周目)

《2月17日 昼》

猫娘、ツカサたちから吸血鬼化の原因を聞く。(六周目)

《2月21日 朝》

猫娘、まなとのお出かけの約束を反故にする。(五周目

子泣きじじい、ツカサという少年に出会い鬼太郎を呼ぶ。(五周目

《2月21日 午後》

猫娘、ツカサという少年に出会う。

・鬼太郎たち、吸血鬼解放区となった村へ赴く。

猫娘、鬼太郎に鐘楼の元へ行かないよう説得するも失敗。(四周目

・鬼太郎、ねずみ男・村人によって吊り鐘に閉じ込められ蒸し焼きにされる。

《2月22日 零時過ぎ》

・肉団子状態となった鬼太郎が仲間によって回収される。

・廃屋へ避難。砂かけ婆、恐山病院に往診を依頼する。

・モンロー、恐山病院の使いと称し、鬼太郎を奪う。

猫娘、モンローを追い払うが吸血鬼化したツカサに鬼太郎を奪われる。(三周目)

・鬼太郎、吸血鬼と化し仲間を襲う。

・ピーの下僕、吸血コウモリと化し、日本中の人間と妖怪が吸血鬼化する。

《2月29日 夜》

・世界中の人間と妖怪が吸血鬼化。残るは猫娘目玉おやじだけになる。

目玉おやじまぼろしの汽車を召喚する。

 

当初は鬼太郎が吸血鬼化するのを阻止する目的で動いていたため、本来の運命(=全世界吸血鬼化)は変えられず何度も同じ結末を迎えるが、目玉おやじが途中で死んだり吸血鬼化しなかったことは不幸中の幸いだったな。もし目玉おやじがやられてしまったら、その時点でその周回が確定した事実となり、もうどうすることも出来なかった訳だからね。

 

吸血鬼化した世界でぬらりひょんバックベアードがどうなっていたか気になるが、妖怪復権を目的としていたぬらりひょんにとって「全世界吸血鬼化=妖怪復権の野望が潰えた」訳だから、絶望のうちに吸血鬼となったかもしれない(或いは地獄に亡命したかも…)し、バックベアードにしても完全復活前にこんな事態が勃発した上に、部下のヴォルフガングやフランケンにカミーラも多勢に無勢でやられていることだから、ひっそり異空間で隠居を決め込んでいた可能性が高い。カミーラは元々吸血鬼だから襲われた可能性は低いかもしれないが、状況を見てピーの下僕に寝返ることもあり得るだろうし、襲われたとしたら、ただの吸血鬼から「ピーの下僕としての吸血鬼」に上書きされたかもしれない。

 

ま、それはさておき。まぼろしの汽車召喚時点の目玉おやじが死んだとしても、過去の目玉おやじが生きていて、タイムループ者本人が死亡しなければ何回でもタイムループが可能というのは予想外だった。これまでのまぼろしの汽車はあくまでも片道切符であり何回も往復可能なものとして描かれてこなかっただけに、この改変は目から鱗だった。

そして何といっても、世界を救うため自らの恋を犠牲にした猫娘が切なくていとしくて、何だかしんみりしちゃったよ。

人によって見方は色々あるだろうが、世界が吸血鬼化する運命を自然の摂理と受け取らず「誤った運命」と定めるならば、猫娘が鬼太郎に告白して友人以上の関係から恋人以上の関係に発展する運命も「誤った運命」となり、世界平和の名の下では「許されざる運命」となってしまう。

 

そもそも原作の鬼太郎と猫娘の関係は友人止まりで恋人まで発展せず、後に鬼太郎は南の島で出会った元酋長の娘メリーと結婚する。だから、猫娘が鬼太郎の恋人になるのは水木先生が描かなかった運命であり、描かなかったからこそこうして現在も続いていると言えるのかもしれない。

今思い返すと「鬼太郎夜話」において猫娘の前身であり鬼太郎の初恋相手である寝子は作中で自殺し鬼太郎の恋は悲恋に終わっていたのだよね。だから原作ファンとして「やはり猫娘と鬼太郎が結ばれる運命は作中世界において許されていないのかもな」とちょっと思っていたりする。

 

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

とはいえ、アニメにおける鬼太郎の世界は今後の展開など考え方と演出で如何様にでも変えられる。原作の方は猫娘と鬼太郎が恋人になる運命は「許されざる運命」として完結している部分があるが、アニメは違う。

もし、このまま猫娘と鬼太郎が恋人になることなくアニメシリーズが終わってしまった場合、ゲゲゲの鬼太郎」において猫娘と鬼太郎が恋人になる展開は「許されざる運命」として確定してしまうが、今後猫娘と鬼太郎が恋人になる展開を描き、それが元でバッドエンドにならなければ、今回猫娘が鬼太郎に告白し恋人以上の関係になった運命は“まだ”許されざる運命」となるのだ

「許されざる運命」か「“まだ”許されざる運命」か。この物語における運命の是非は未来に託されている。今期で仮に猫娘と鬼太郎の関係が発展しなかったとしても、未来の猫娘と鬼太郎がどうなるかはわからない。それを描けるのはこの先アニメ業界を担う人々だけである。

 

…いや~何だか想像以上に壮大な話になったな。こりゃあ頑張って長生きしないといけないぞ。

 

蛇足

・今期モンローの声を担当したのは、何と3期のヒロイン天童ユメコを演じた色川京子さん!

『ゲゲゲの鬼太郎』第93話「まぼろしの汽車」の先行カット到着! 第3期で天童ユメコを演じた、色川京子さんがゲスト出演の画像-9

©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

今回の物語に色川さんを起用したのは意図してなのか、偶然都合が良かったからなのかはわからないが、モンロー=天童ユメコに奪われた鬼太郎を猫娘が奪い返すという、ちょっとした恋の鞘当ての構図にも見えるようになっているのが巧いな~と思った。

 

吸血鬼が鐘の音を嫌がる理由について。原作では何故嫌がるのか書かれていないが、唯一3期だけは目玉おやじによってその理由が説明されている。興味のある方は是非見て確かめてもらいたい。

 

 

次回は鬼太郎ファミリーの温泉回。何度でも言います。

「もう最終回まであと少しだけどちゃんと終わらせられるの!?」

“崩す”のではなく“探す”、「アリバイ崩し承ります」3話(ネタバレあり)

アリバイ崩し承ります (実業之日本社文庫)

 

予告をみたら、来週も風呂に入るみたいだね。特別浜辺さんのファンって訳ではないから「キャー!嬉しい!」とはならないが、やっぱりファンの人は嬉しいのだろうな。

 

(以下、原作・ドラマのネタバレあり)

 

「時計屋探偵と失われたアリバイ」

 今回は原作4話の「時計屋探偵と失われたアリバイ」。特定の容疑者のアリバイを崩す所から始まるのではなく、アリバイがなく重要容疑者と目された女性が真犯人に嵌められたと考え、そのアリバイを探す所を起点とした物語となっている。とはいえ、最終的には真犯人のアリバイを崩さなければならないので、今回もこれまでと変わらずアリバイ崩しが為される。

 

事件概要についてはほぼ原作通りで大きな改変もないため、今回は特に言うことがないが、一応どうやって真犯人が河谷純子のアリバイを消し、自分のアリバイを作り上げたかは解説しておこう。

注目すべきは純子の長すぎる睡眠時間。純子のアリバイを消すだけにしては長すぎる睡眠時間にもう一つ別の目的があるのではないかと時乃は疑い、彼女が見た夢の話から、犯人が純子を姉・敏子の替え玉に利用していたことを推理する。

純子のアリバイを消し、なおかつ純子を敏子の替え玉に利用することで、敏子が事件当日11時20分まで生きていたと思わせ、それ以降アリバイがある自分を容疑者圏外におくことを目的とした、一石二鳥の殺人トリックが本作の見所と言えるだろう。

殺害動機は一種の三角関係で、愛人として纏わりつく敏子を抹殺するため。妻殺しの計画とみせかけて愛人を殺すというのは最早定番の動機だが、序盤で察時が妻と揉めていた場面がその動機の伏線になっていたのは良かったと思う。

 

ところで…。ツイッターの実況を見ていると多数の人が今回のトリックについてある指摘をしていた。その指摘というのは、睡眠薬を飲まされていたとはいえ、自宅から運ばれメイキャップされた上に、マッサージまでされて目を覚まさないなんておかしいのでは?」というもの。

この指摘について、これまで様々なミステリ小説を読んできた私が一言述べるなら、

本格ミステリにおける睡眠薬は、一度飲んだらよっぽどのことがない限りは目覚められない万能薬なんだよっ!!」

わかってるよ、現実に用いられる睡眠薬不眠症のためのものだから、動かしたり身体を揉んだら意識が覚醒する可能性は高いし、そもそも動かしても目覚めないなんて麻酔薬でも打たない限りはまず無理だからね!

第一、医者でもないマッサージ師が20時間以上眠らせるためにどれだけ睡眠薬を盛ったら良いのか、なんて知らないもんね普通!

…でもね、本格ミステリにはパズル的な所があって、「結果として〇〇が起こったから犯人は××をしたのだ」という論理が可能なのだ。だから実際に睡眠薬を飲ませて替え玉に利用出来なかったとしても、その点を挙げて揚げ足をとるのはハッキリ言って無粋というものである。結果としてあの状況が生まれた以上、あの世界の睡眠薬は強力なもので、犯人にも(どういう経緯で得たかは不明だが)服用量によって睡眠時間を操れる知識があったと認めるしかないのだ。

 

これは本作だけではなく、他作品でもあること。具体的な作品名は伏せるが、某社会派ミステリとして有名な作品で、世間では凄いと言われている〇〇も、本格ミステリ読者の私からすればツッコミ所は色々あるのだよ。

※その社会派ミステリというのは(一応伏せ字)松本清張の『点と線』(伏せ字ここまで)。

 

真犯人・芝田を逮捕する決め手になったのは、マッサージベッドの下の指紋。原作を読んだ当初は「証拠隠滅の時間は十分あったのに、指紋を残すなんて間抜けな犯人だ」と思っていたが、もしかしたらバレないと思ってちょっと天狗になっていた部分はあるかもしれない。

 

「アリバイ崩し」ミステリの紹介(アリバイ探し)

今回はアリバイ崩しならぬ「アリバイ探し」から始まる特殊なケース。「アリバイ探し」を描いた作品は国内ではなかなか見当たらないが、先週紹介した鮎川先生は「アリバイ探し」をメインにした話もちゃーんと書いていたのだ。

※思いついた分であと一つ挙げるならば(一部伏せ字)天藤真の「雲の中の証人」(伏せ字ここまで)。

(2020.03.01追記)

 

五つの時計―鮎川哲也短編傑作集〈1〉 (創元推理文庫)

鮎川哲也「急行出雲」(『五つの時計―鮎川哲也短編傑作集〈1〉』所収)

物語は大阪で恐喝を行っていた三田稔の経歴から始まる。五月某日、三田は何者かに自宅アパートで撲殺され、現場にあった煙草の吸殻から果樹園主の唐沢良雄に容疑がかかる。しかし唐沢は、事件前日の夜に東京発の「急行“出雲”」に乗っており、殺された時刻に事件現場に赴くことは不可能だとアリバイを主張する。

ja.wikipedia.org

警察は唐沢の主張を元に、彼が乗っていた11号車の同じボックス席の人物を調べるが、誰一人として、唐沢が座っていたのを見ていないと証言。唐沢のアリバイは成立しないことが判明する。

鬼貫警部も彼のアリバイが嘘だと思っていたが、ある証言を切っ掛けに唐沢が真犯人に嵌められたと確信し、彼の「アリバイ探し」をする。

真犯人に嵌められたのならば、どうやって唐沢はアリバイを“消された”のだろうか?

 

間違った客車に唐沢を乗せたとしたら、どうやって唐沢を誤らせたのかがわからないし、ボックス席の乗客全員が偽証をしているというのも現実離れしている。本作が発表された頃は国鉄によって運営されていたが、現代では到底使えないトリックを用いているのが面白い。勿論、今を生きる読者諸君も本文をちゃんと読んで、列車のある点について疑問を持てば謎を解くことは十分可能だ。

 

ちなみに、海外作品でアリバイ探しを扱ったものを挙げるなら、ウィリアム・アイリッシュの『幻の女』フレドリック・ブラウンの「踊るサンドイッチ」(『復讐の女神』所収)くらいだろうか。私は「踊るサンドイッチ」は未読なのでそちらが面白いかどうかは知らないが、『幻の女』は過去に日本でもドラマ化された有名作なので一読の価値はあるよ。

幻の女〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)復讐の女神 (創元推理文庫 (146-14))

彼岸を描く悪魔と此岸へ戻す警視、「ハムラアキラ~世界で最も不運な探偵~」4話

依頼人は死んだ (文春文庫)

前回がアンチ・ミステリならば、今回は冒頭で葉村が言ったようにホラーと呼ぶべきだろう。

これまでは原作未読でドラマ視聴を続けてきたが、今回からは原作既読で臨むことにした。来週から最終回までは『悪いうさぎ』がドラマ化されると聞いたので、それも購入。一気に読まずに少しずつ読んでいくつもり。

 

(以下、ドラマと原作のネタバレあり)

 

「濃紺の悪魔」「都合のいい地獄」

今回の原作は『依頼人は死んだ』所収「濃紺の悪魔」「都合のいい地獄」。原作の一番最初にくるのが「濃紺の悪魔」でその間に先週放送された「わたしの調査に手加減はない」を含む7編の事件がはさまり、最後に「都合のいい地獄」となる。一応連作短編集という形式のため、合間に挿入された事件が最後の「都合のいい地獄」に関係してくるのだが、具体的なことについてはおいおい話すとして、事件についてざっくりと。

 

前半の松島詩織の事件は原作の「濃紺の悪魔」、後半の葉村と“濃紺の悪魔”との駆け引きは「都合のいい地獄」が元になっている。

経営家として人気の松島が葉村たちに身辺警護を依頼するが、連続する嫌がらせ行為や奇禍、更に2週間という限定的な警護依頼に葉村は違和感を覚える。松島にその点を問い質すと、彼女は数週間前に“濃紺の悪魔”と死の契約を交わしており、それが原因で命を狙われているというのだ。

しかし、葉村は嫌がらせ行為をした人間を調べていくにつれ、これまでの奇禍は松島の自作自演ではないかと疑う。一連の事件は彼女の自作自演なのかそれとも…?

 

原作では最後に“濃紺の悪魔”の存在が仄めかされ、一旦事件は幕を閉じるが、後にとある犯罪者の自殺が起こり、そこで彼の存在が再浮上。彼は葉村に「その犯罪者がなぜ殺しをしたのか、その動機を教えるから指定の場所に来い」と言い、一方で葉村に近しい人物が数十分後に別場所で死ぬかもしれないと仄めかす。「殺人の真相」と「生命の危機」、葉村はその選択に悩むことになる。

ドラマではその犯罪者が葉村の姉の珠洲に置き換えられており、濃紺の悪魔はそれを取引材料に用いて葉村を翻弄した。

 

今回は野間口徹さん演じる濃紺の悪魔が捕らえどころのない、実在さえも疑ってしまうような幻想味溢れるキャラクターを演じていたため、原作未読だとこの話をどう捉えるべきか間違いなく迷ったが、原作を読んでいたおかげである程度この物語の輪郭を掴めた気がする。

 

「たいていの人間は無意味な死を遂げる。(中略)いつやってくるかわからない、その死の恐怖に怯えながら生きているのが人間だ。地獄だと、思わないか」

「(前略)ある人間の死が無意味なら、そいつの生だって無意味だ。自分の人生なのに都合も予定もたてられないんだぜ? だから俺は松島詩織を初めとして、いろんなやつらに、自分の死を選ばせてやった。(中略)この先、いつまでも地獄で無意味に生き続けるより、やつらの生は、自分自身でピリオドを打つことで、はっきりと意味あるものになったんだ」

 上で引用したのは、原作で葉村に対して語りかけた濃紺の悪魔の人生観とでも言うべき一言。

後に明かされる濃紺の悪魔の経歴を知れば、彼が人の不幸や不条理な死を見すぎた結果、こういう思想を抱くようになったのかな?とそれなりに理解することは出来る。だとしてもこれは極論・暴論の類だな~と思う。

確かにこの世が地獄であることは否定出来ないが、かといって全てが地獄という訳でもないし、そもそも死に意味付けをするのは生き残った者が死者の生き様(善行・悪行含めて)を正当化するための目的もあるから、本来死そのものに「自然の摂理」以上の意味などないのだ

しかし、濃紺の悪魔は「意味ある死」の妄執に捕らわれ、普段死を意識したことがない人間がぽつりと呟く「死にたい」という感情に付け入り、死の原因となる事象を誘発させてターゲットを彼岸に追いやろうとした。

彼岸という一線を描き出すことで日常に死をもたらす悪魔。ちょっと洒落た感じに言うとこんな具合だろうか。

 

少し話は変わって些末なことについて考える。一応人を死に追いやっているというのに、どうして彼は濃紺の“悪魔”であって“死神”ではないのだろうか?

これは原作を読んだからわかったことだが、濃紺の悪魔には直接死に至らしめるような暗示をかける能力はない。特定の場所に行かせるとか、自分のしたことを忘れさせたり、反対に思い込ませたりする能力があるに過ぎない。人間離れしているように見えるが、結局は催眠術師まがいの人間で、悪魔のように誘発は出来ても、死神ほど死を司れる訳ではないことが原作では説明づけられている。※

 

※誘発によって善にも悪にも傾く人間のモチーフにやじろべえが使われたが、これは原作には出てこないモチーフで個人的に興味深い演出だった。

(2020.02.15追記)

 

ちなみに、ドラマでは濃紺の悪魔がかつて裁判官だったという設定になっていたが、原作では葉村と同じ探偵だったというぼんやりとした経歴しか明かされていない。でもこれだけでも十分意味があって、それだけ探偵稼業が彼岸に片足を突っ込みやすい仕事だということを示しているのだ。

濃紺の悪魔は探偵稼業で出くわした体験によって病的な思想に取り憑かれ、彼岸へ行ってしまった。そして葉村も知らず知らずのうちに濃紺の悪魔によって彼岸に片足を突っ込み、必要以上に彼に関わってしまったことになる。

これはひとえに彼女の優しさというか誠実さが彼に隙を与えてしまった訳なのだが、どこまで事件に関わるか、その線引きを弁えておくのも探偵に必要な能力だな~と感じた。仕事として割り切るべき所は割り切ってしまえということだろう。

 

原作では葉村を此岸へ呼び戻したのは村木や探偵所の所長なのだが、ドラマでは所長は登場しないし村木も負傷しているため、その役目を岡田警視が担う。

物語をミステリとして着地させたり、「誤った真実」を軌道修正させ「真実」へと葉村を導いてきた岡田警視。今回松島詩織の一件を知った彼は、葉村に対して関わり過ぎると彼岸に連れて行かれる案件だということを「深淵を覗く時深淵もまたあなたを覗いている」「好奇心は猫を殺す」の言葉で忠告した。最後に拍手をしたのも、葉村が濃紺の悪魔の拍手によってかけられた暗示を解除し、此岸に戻す意味合いがあったと考えるべきだろう。

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©NHK

余談になるが、「深淵を覗く時深淵もまたあなたを覗いている」という言葉は19世紀の哲学者ニーチェの言葉らしい。

dic.nicovideo.jp

ニーチェと言えば、私が間宮さんにハマる切っ掛けになった作品ニーチェ先生を思い出して、私はそのつながりに一人喜んでいた。(*^▽^*)

ニーチェ先生 DVD-BOX

「#好きな邦画とりあえず9本」挙げてみた

いざ考えるとパッと出てこないもので、10分くらい考えた結果がこちら。出来るだけ出演者の重複は避け、ジャンルも偏りすぎないようにしたら以上の9本になった。(映画通ではないので、かなりエンタメ寄り)

 

大誘拐

大誘拐 RAINBOW KIDS [DVD]

嶋田久作さんって強面の印象があったのだけど、そんな印象を瓦解させてくれたのがこの作品。この作品に出演している人のほとんどが鬼籍に入っている点も含めて郷愁を感じさせる。上品な老婦人を演じられる女優さんは今でもいるけれど基本的にスラっとしていて、「田舎に住んでいるちんまりとした老婦人」感が出せる人はもういないんじゃないかな。この間、富司純子さんでリメイクされたけど、原作を読んだ時は市原悦子さんでリメイクして欲しいと思っていた。今となっては叶わぬ夢だが。

 

悪魔の手毬唄

悪魔の手毬唄[東宝DVD名作セレクション]

石坂金田一の中から一作選べと言われたら、デビュー作の「犬神家の一族」よりも「悪魔の手毬唄」を選ぶ。気を引き締めないで観たら、絶対泣く。もうそれ位に感動するんだよこれは。あと、常田富士男さん演じる辰蔵が死体を発見した時のリアクションには毎回笑ってしまう。っていうか何気に「悪魔の手毬唄」映像化作品に出てくる辰蔵の中で一番好きなのが常田さん演じる辰蔵なんだよな。

 

全員死刑

全員死刑【DVD】

間宮さん出演作、「ライチ☆光クラブ」や「殺さない彼と死なない彼女」も候補に入っていたが、やはり初主演作を推そうと思った。確か旧・京都みなみ会館で観たんだよな~。今まで映画は両親と一緒に観てきたが、この「全員死刑」で初めて一人で映画を観る体験をしたのは良い想い出。割とえげつないことやっているけどタカノリは真っ当だと思うんだ。生まれてくる家を間違えただけなんだアイツは。やったことは許されないけど、思わず同情してしまう所もある、ただ胸糞悪いだけの映画じゃない。あと間宮さんのファンとしては「喘ぐ」場面で反応してしまう♡。

 

ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌

ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌 スタンダード・エディション [DVD]

「邦キチ!映子さん」でも紹介された一作。作風としては正に日本のB級映画らしいキャスティングで、原作ファンとして「これは許せない」派もいると思うのだけど、私はやっぱりこの映画が好き。(そもそも鬼太郎を原作通り実写化させるのは、仮に子役を使ったとしても100%無理だと思っているから!!)第一作目の方は「天狐」と「妖怪大裁判」をがっちゃんこさせた脚本で、割と子供向けなテイストだったが、こちらはシリアス路線でモブ妖怪もホラー寄りのデザインになっている。佐野史郎さん演じる蛇骨婆の怪演っぷりも素晴らしいし、ガシャドクロが動く場面が観られるだけでも儲けものだと思っている。

 

TRICK劇場版」

トリック -劇場版- 超完全版 [DVD]

私の「ミステリ映画」の人生初体験はこれなんじゃないかなあ。厳密に言うと小学生の時テレビで観た「犬神家の一族」(リメイク版)だけど、その当時はミステリ映画として観てなかったからノーカン。後年どんどんギャグの割合が増していくなかで、まだシリアスみがあって、山田里見が金の亡者になる途上の頃の話。そういえば、当時映画館で売っていたグッズって何があったのだろうね?泣き鬼・笑い鬼のキーホルダーとかもしあったら欲しかった。

 

妖怪大戦争」(2005年版)

妖怪大戦争【特典DVD付3枚組】 [Blu-ray]

大映版「妖怪大戦争」や水木先生によってコミカライズされたものと異なり、一部を除いて大多数の妖怪が戦争していないというまさかのシナリオ。多分これを観たほとんどの方は「戦争してないのに『妖怪大戦争』ってタイトル詐欺じゃねーか!」って思いで低評価をつけるのだろうが、私は「あ、私たちは人間のアタマで考えすぎているのかも」と、何だか価値観を改めさせられた気分だった。妖怪にまで協調性や敵討ちの精神を求めるのはお門違いだったのだ。まぁそんな難しいことを考えなくても水木先生が出演しているだけで十分お宝な作品なのです。

 

姑獲鳥の夏

姑獲鳥の夏 [DVD]

この次の「魍魎の匣」は何だコレって感じになってしまったが、始まりとなるこの作品はかなり原作準拠で面白かったんだよな。いしだあゆみさん演じる久遠寺菊乃の叫び声が耳に残る。まさか闇営業で懊悩するとはこの当時思わなかった宮迫さんが木場の旦那として出演。っていうか、よくよくキャストを見るとレギュラー陣のほとんどが原作のビジュアルと離れているな。あ、田中麗奈さんの中禅寺敦子は近かったよ。

 

平成狸合戦ぽんぽこ

平成狸合戦ぽんぽこ [DVD]

私が生まれて初めて観た映画は「千と千尋の神隠し」で、当然推すべきはそっちだけど、敢えてこっちを。タイトルに平成と付いているからこの映画もまた「大誘拐」と同様、郷愁を感じる映画になったな~と、しみじみ思うのだ。ゲゲゲの鬼太郎に出て来る狸軍団と違って世知辛さとか生死といった人生の流れを感じさせるのも良い。妖怪パレードはもう言うことなしです。

 

テルマエ・ロマエ

テルマエ・ロマエ 通常盤 [DVD]

一瞬「ハンサム☆スーツ」にしようか迷ったけど、テレビで放送されたらリアタイ視聴するのはどっち?って聞かれたらテルマエ・ロマエ。主演の阿部寛さんも良いけど、いか八朗さんがいい味出してる。映画通じゃないから偉そうに言ったらダメだけど、老人を魅力的に描く作品は名作が多い気がする。話は反れるが、顔の濃さといい、ギャグ・シリアス両方いけることといい、間宮さんって「ポスト・阿部寛」の素養を十分満たしているような気がするんだよね。今後どこかで共演とかしてくれたら良いのにな。

ゲゲゲの鬼太郎(6期)第92話「構成作家は天邪鬼」視聴

ドッキリ企画の中で好きなのは「百人隊」、逆に嫌いなのは「大物芸人に激怒される」系のドッキリ。いくらジョークでも怒られたくないし怒られるのを見るのも嫌いなのだよ…。

 

天邪鬼

ja.wikipedia.org

妖怪の中で最も人間心理に根ざした妖怪といえば、やはり天邪鬼だろう。そのルーツは『古事記』『日本書紀』における天稚彦や天探女にあると言われているが、天稚彦や天探女は特別ひねくれ者だったという記録はない。むしろ、スサノオから生み出された天逆毎という女神の方が天邪鬼の性格に近い。

ja.wikipedia.org

仏法を妨げる悪鬼になったり、昔話「瓜子姫」に登場したり、ひねくれ者の代名詞として活躍するなど多方面で認知された天邪鬼は、アニメでは1~5期に皆勤で登場。1・3期は原作「天邪鬼」に則った物語となっているが、4期と今期はほぼオリジナルの物語。そして2・5期では原作「妖怪大裁判」の検事側妖怪として登場した。

ちなみに、原作で天邪鬼は「さとりの怪」とも言われ、相手の心を読み取る能力があるとされているが、4期と今期は相手の心を読み取る能力はカットされている。

 

ひねくれの本(もと)

これまで天邪鬼がメインとして登場したのは1・3・4期。そして各期では様々な事情で心がひねくれてしまった人間が登場する。それを比較してみるのも天邪鬼回の面白さだと思うので振り返ってみる。

まず1期は原作通り、戦争で息子と妻を喪った老人が出て来る。息子は特攻隊として散華、妻は空襲で死亡。一人生き残ってしまった老人は、世の中を妬ましく思い、人の幸福を憎み、誰かが不幸になったり死ぬことを喜びとして生きていた。そしてその悪感情を天邪鬼に読まれてしまい、結果天邪鬼の封印を解いてしまうことになる。

3期も同じく老人が登場するが、ひねくれの原因は孤独にあると言える。戦争を乗り越え、日本の復興に尽力したにもかかわらず、今の若者はそんな老人の苦労も知らずに遊び惚けていやがる…。若者に疎んじられる老人の孤独感が天邪鬼に付け入る隙を与えたのだ。

4期は資産家の若き令嬢・大河内百合香が登場。これまで登場した老人とは真逆の身分でありながら彼女もひねくれた人間であり、その原因として挙げられるのが資産家という身分。元々わがままに育てられたこともあるのだが、彼女の周りには資産目当てで集まる人間しかいなかったようで、そのため彼女は人間を斜に構えて見るようになったのだ。後に彼女は天邪鬼に誘拐され、鬼太郎たち(特にねずみ男)との出会いによって大きく成長することになる。

またこの展開によって、4期の天邪鬼回は鬼太郎アニメの名作群に数えられることになった

 

以上、各期の人間の「ひねくれの本」をおさらいしたが、今期主人公として登場したテレビディレクターの奥田は、何と珍しいことにひねくれていない!

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

今までは「妖怪としての天邪鬼」「人間のひねくれた感情としての天邪鬼」の二つが描かれていたのだが、今回奥田は「妖怪としての天邪鬼」と「大衆が抱く悪感情としての天邪鬼(=他人の不幸を喜ぶ大衆心理)」に振り回されることになる。

 

天邪鬼を封じる方法

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

今回の脚本は予告があったように伊達さんが担当。DVD4巻のブックレットに収録されたインタビューでは、シリーズディレクターの小川孝治氏が過去の作品が面白すぎて手を付けたくない作品として4期天邪鬼回を挙げたくらいだから、伊達氏も今回の脚本がいかにハードルの高い案件だったか承知していたはず。だからこそ、今回のプロットは得意分野であるテレビ業界を舞台にしたのかもしれない。

 

今期の物語自体は正直言うとそこまで「面白い!」と感激するようなものではなかった。仕事で結果を残せない奥田がねずみ男と天邪鬼に言われるまま過激なドッキリ番をプロデュース。高視聴率を叩き出し、これまで無関心だった息子も喜んで見ているが、より過激さを増す番組内容にヒヤヒヤ。そんな時、息子が起こした「事件」を切っ掛けに奥田は本来の自分を取り戻し、最後は自分の作るべき番組を見出し躍進する…という感じの物語。

終盤目玉おやじに重要なメッセージを語らせる辺りも今まで担当した脚本に近い所があるし、(序盤にぬらりひょんを出した割には)物語としての落としどころも普通だったかな~という感じで、脚本・作画に勢いのあった4期と比べるとどうしても凡作止まりに映った。

 

とはいえ、天邪鬼という「人間の心に根ざした妖怪」が出てきたこともあってか、色々と示唆に富む部分はあり、このまま凡作として本作の評価を終えるのは伊達氏にも悪いと思うので、ここからは「天邪鬼の封印」という面から読み解いていきたい。

 

これまで天邪鬼回は「妖怪としての天邪鬼」と「人間のひねくれた感情としての天邪鬼」を描いてきたことは先程も言ったが、原作・アニメ共に「妖怪としての天邪鬼」は大石魔除けの毘沙門天によって封印され、各登場人物が抱える「人間のひねくれた感情としての天邪鬼」は各々が抱える事情に即した解決策を以てその心中にいる天邪鬼を封印している。

1期は戦争が原因で「本来あるはずだった幸福」を奪われたことが老人のひねくれに起因しているが、事件決着後老人は「現在の幸福を奪うことは、戦争で命を犠牲にした人が築き上げた幸福を奪い無駄死にさせることになる」と自ら悟り、心の天邪鬼を封印した。

3期は孤独が最大の原因だったので、事件後老人は老人同士のつながりを以て「若者に負けない心」を培い心の天邪鬼を封印した。

4期は、天邪鬼とねずみ男の生き様を見て「必死に生きる」ことの大切さを知り、百合香は心の天邪鬼を封印した。他人の邪な感情がチラついてひねくれたのならば、いっそ自分中心に、周りの思惑など見えなくなるくらい必死に生きろ、ということなのだろう。

 

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

さて6期はどうだろうか。今期の「妖怪としての天邪鬼」は封印ではなく鬼太郎の指鉄砲によって退治されているし、主人公の奥田の心の中にも天邪鬼は潜んでいなかった。だから大石も魔除けの毘沙門天も出てこないし、奥田も別に心の天邪鬼を封印していない。

しかし、これまでの天邪鬼回同様、今回の物語にも心の天邪鬼を封印するのに必要なものが二つ描かれている

まず一つ目は良心に基づく価値観の尊重」。人の幸福を妬み不幸を喜ぶ大衆心理は決して絵空事ではなく、週刊誌のスキャンダルやワイドショーで如実に見られる。そこに天邪鬼が潜んでいるのなら、反対に「人の幸福を以て他人を幸せにする番組」こそが本来尊重されるべきものであり、奥田も今回の事件を以てその大切さに改めて気づいたはずだ。そしてそのような番組を作るためには己の良心に基づく価値観を大切に持たなければならない。周りに振り回されるような脆弱なものではない、確固とした価値観を。

 

ちょっと話は反れるが、この価値観の下りで妙な既視感を覚えた。何だろうと思っていたら5期の93話「おばけビルの妖怪紳士!」も己の価値観の尊重を描いた話だったなと思い出した。

lineup.toei-anim.co.jp

あの話も息子のいる親を中心に描いているから、ある意味今回の物語とリンクしている部分がある。また見返してみるのも良いかもしれない。

 

さて、天邪鬼の封印に必要なものとして「良心に基づく価値観の尊重」を挙げたが、これだけでは心の天邪鬼を封印することは出来ない。現に奥田は本来持っていた価値観で成果を出せず、邪な大衆心理に振り回されてしまっている。魔除けの毘沙門天のような、もっと重要なファクターが必要なのだ。

そんな魔除けの毘沙門天に匹敵するファクターとして、私は三者の視点を自覚すること」、これを心の天邪鬼を封印する二つ目のものとして提示する。

これまでの天邪鬼回もそうだが、心の中に天邪鬼がいる人間というのは得てして主観的に物事を見すぎる傾向が強い。4期の百合香が特にそうで、彼女は金目当てで寄ってくる者の視点が欠けており、「寄られる立場」でしか物事を見ていなかった。そこに「金目当てで寄る立場」のねずみ男のリアルな意見が入ったことで、彼女の心の中の天邪鬼が封印されたのだ。

 

今回の場合奥田に欠けていたのは「息子の視点」である。息子は父親がプロデュースする番組を見て、「テレビで親がこういうことをしているのだから、まねしても許される」と思い、同級生に同じ仕打ちをしてしまう。テレビマンとしての自分を優先させ、父親として見ている息子の視点に気づかなかったが故に息子の過ちを促すことになった。

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

今回の物語では「息子の視点」となっているが、別に子供だけではなく親兄弟・会社の同僚・上司・部下等々、様々な人の視点を意識し考えるだけでも心の天邪鬼を抑制することは大いに出来る。

よく動画サイトとか掲示板とかで攻撃的な意見を見かけるのだけれど、もう少し他者に見られていることを考えたらこんなキツいこと言えないのではと思う。妬み嫉みは人間の自然な感情だから完全否定することはしないけれど、「良心に基づく価値観の尊重」と「第三者の視点を自覚すること」は人として備えておくべきスキルだよな、と思う次第である。

 

さいごに(蛇足と雑感)

・天邪鬼の封印を解いたぬらりひょんと朱の盆。今回に限っては登場する必要がなかった気がするが、登場しなかったら封印は解かれない訳であり、そうなると今回の事件は起きなかったから、やっぱり必要なのか。

『ゲゲゲの鬼太郎』第92話「構成作家は天邪鬼」より先行カット到着! 人の幸せを壊す様を撮って、放送しろと脅されて……の画像-7

©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

妖怪と人間の対立を激化させるためとはいえ、ほったらかしにしたという事は、特別メインの計画でもなかっただろうし、趣味と実益を兼ねて天邪鬼の封印を解いたと考えるべきだろう。

 

・あれだけ素人に向けて過激なドッキリを行っているにもかかわらず、視聴者からの苦情が届いている描写が無かったのは、視聴者=大衆が他人の不幸を求めていることを示すためなのだろうが、個人的には過激すぎて“やらせ”だと思って見ている人もいる可能性も捨てがたい。

一般人の自宅を崩壊させる行為をテレビで流すなんてあり得ないし、視聴者も「どうせあの家はセットで、家族はエキストラ雇ってんだろ?」って感じであの番組をドッキリ風エンターテインメントとして楽しんでいたのかも。人によっては「8時だョ!全員集合」の時のように、懐かしさを覚えて見ていた人もいたりして(屋台崩し系のコントとかあったしね)。

 

・「良心に基づく価値観の尊重」と「第三者の視点を自覚すること」について、実は前々から思う所があった。

(敢えてグループ名は伏せておくが)ネットを中心に活動するとあるグループを偶々知って、当初は割とチャラくて軽薄ささえ感じる所があると思って見ていたが、彼らがライブドームで「ファンでない人々からの誹謗中傷」を受けていたことを吐露する動画があり、声を詰まらせながら「それでもファンを幸せにするよう考えて活動したい」と言っているのを見た時は、「あ~、危ない危ない。私も気を付けないと」と思ったと同時に彼らを応援しようという気になった。

人によってはそういう弱さをファンに見せるのはプロの仕事としていかがなものかと難色を示すのかもしれないけれど、そういう感情は出してもらわないとなかなかわからないもので、彼らがその弱さを吐露してくれたのは良かった。自分の価値観を尊重する以上、相手の価値観を無闇に否定してはならないし、言われる立場も考えなければならないという自戒にもなったので、彼らの前途に幸があることを祈っている。

 

 

次回はまぼろしの汽車。ということは、吸血鬼ピーも出る!(モンローは出るのかわからないが)

吸血鬼絡みだからバックベアードの復活が関係している事件かどうかも気になる所。残り5回の予定だから、ここで入れないと流石に余裕ないだろうし…。

崩して浮かぶもう一つの物語、「アリバイ崩し承ります」2話(ネタバレあり)

アリバイ崩し承ります (実業之日本社文庫)

ドラマの前に放送していた「翔んで埼玉」の影響で、成田凌さんをドラマの間ずっと埼玉県人と呼んでいたことをお詫びいたします。

 

(以下、原作・ドラマのネタバレあり)

 

「時計屋探偵とストーカーのアリバイ」

ドラマ2話は原作1話の「時計屋探偵とストーカーのアリバイ」に相当する。個人的に現在公開されている9編の中で最もよく出来た話だと思っているのがこの作品で、アリバイトリックだけでなく、それを崩すことで浮かび上がる「真実の物語」にもじ~んとさせられる。そしてトリックが物語と有機的に結びついているのが良いのだよな。

 

事件概要やアリバイについては改めて述べないが、原作と違うのは被害者杏子の弟安嵐は原作だと妹の安奈。また被害者が食べたケーキはモンブランフロマージュブランだったが、原作ではモカフロマージュブラン。そして、原作では背後から刺されて死亡していたが、ドラマでは正面から刺されて死亡したことになっている。特に刺された方向の違いについては映像化ならではのヒントになっていたので後程言及する。

そして、菊谷が述べたアリバイ時刻。原作では夜6~9時の間に居酒屋で友人と飲んでいたことになっており、7時頃に8分間中座した。一方ドラマでは夜6~12時まで居酒屋にいたことになっており(長ぇ!)、7時半に5分間中座した、という形になっている。

 

さて、前回はアリバイ崩しにおいて「別解潰し」が不徹底だったことが不満として残ったのだが、今回は特別それが不満になることはなかった。

というのも、前回は別解を潰していくことでアリバイの強固さが強調され、物語の謎を深めることになったのに対して、今回の場合は別解潰しをしなくても「被害者のSNS投稿」「被害者の胃や十二指腸の消化物」「大学の研究生の証言」によって殺害時刻の裏付けが為されているため、そもそも別解潰しをする余地がそれほど無いのだ

今回も原作に比べると別解潰しは徹底していなかったが、トリックの性質上重要ではなかったから、私は瑕疵だとは思わなかった。

 

以上をふまえて、今回の事件について詳しく解説。ここからガッツリネタバレするので、原作・ドラマをまだ見てない方は要注意

 

今回アリバイトリックを崩す端緒となったのは、研究生が土産として持ってきた塩饅頭を被害者が拒否したこと。この後喫茶店でケーキを食べるにもかかわらず「甘いものは控えておく」という理由で拒否したこの些細な矛盾から、時乃はアリバイトリックを暴く。

ところで、原作では「塩饅頭の拒否」も含めて刑事の〈僕〉が時乃に全ての情報を提供してから謎解きが始まるのに対して、ドラマでは察時が時乃に話した段階では「塩饅頭の拒否」という重要な情報は入ってきておらず、そのため私は「時乃はどこを取っ掛かりにしてアリバイを崩そうとするのか?」が気になっていた。

単に調べられる所から調べようと思って大学の研究室にアタックをかけたのかもしれないが、時乃が取っ掛かりにしたものとして考えられるのは「弁当とケーキ」ではなかったかと思っている。

弁当に入っていた「ハンバーグ・卵焼きブロッコリー・プチトマト・白米」とケーキのモンブラン・黄桃・緑色の葉・ラズベリーフロマージュブラン」。この二者の色の相似に時乃が気づいたから、それが単なる偶然ではないと思って事件当日被害者と時間を共にするのが最も長かった大学の研究生にアタックをかけたのだろう…というのが私なりの推測だ。

 

「塩饅頭の拒否」から導き出される「食物をズラすアリバイトリック」も秀逸ながら、それと同時に被害者同意の下で行われた殺人」という真相が明かされるのが本作の凄い所で、これによって菊谷の悪質な動機による犯行だと思われていたものが実は愛する者のために殺さざるを得なかったという悲しい動機によるものだったことが判明。元妻の遺志を継いで悪役に徹しなければならなかった菊谷を思うと何とも言えぬ気持ちになる。ミステリは「見かけ通りではない」ことを明かす物語だが、今回は特にその反転の鮮やかさと物悲しさが印象に残った。

 

実を言うと「被害者同意の下で行われた殺人」という真相につながるヒントは序盤から視聴者に提示されており、それが先程言及した「刺された方向」になる。

いくら元夫だからと言って、ストーカーに対して自宅で無防備にも正面から胸を刺されるなど普通はあり得ないし、抵抗して腕に傷が残るはずなのに実際にはそんな傷も争った形跡もなかったのだから、これはつまり被害者自身が刺殺されることを望んでいた事実を示していたことになる。この改変は映像化としてナイスだったと思う。

 

蛇足

・今回のアリバイトリック、「研究生に弁当の中を見られたらおしまいだったのでは?」という意見もあるかもしれないが、そこから失敗する恐れはなかったと思う。何故なら、(教授の立場である被害者と研究生の関係から考えて)被害者と研究生が隣り合わせで食事をするのは心理的に考えてまず起こらない状況だろうし、仮に見られても大丈夫なように弁当のおかずとよく似た色合いのケーキを用意している。なおかつ、研究生は被害者が「弁当を食べている」という先入観があるため、中を目視してもそれがケーキだと思わなかっただろう。

一応この点に関しては原作でも言及されているが、引っ掛かった人もいただろうからここに書く。

 

・察時のアリバイ崩しに疑念を抱く渡海。「バレた時の展開」「渡海がアリバイ崩しを依頼する可能性」があるかどうか注目していきたい。あと時乃の風呂場での食事シーンは今後も恒例行事のようにしていくのだろうか、そこも注目。

 

「アリバイ崩し」ミステリの紹介(食物が鍵となるアリバイ崩し)

前回に引き続き、今回もオススメの「アリバイ崩し」ミステリを紹介。今回は食物がアリバイ崩しのキーアイテムとなったが、これまでの作品でそんな話があったかな~と振り返っていたら、ありましたよ。

 

五つの時計―鮎川哲也短編傑作集〈1〉 (創元推理文庫)

鮎川哲也「五つの時計」(『五つの時計―鮎川哲也短編傑作集〈1〉』所収)

アリバイ崩しの傑作を読むなら、まず鮎川先生の鬼貫警部シリーズをオススメする。鬼貫警部シリーズも『アリバイ崩し承ります』同様、謎解き特化型の本格ミステリで、鬼貫警部のキャラに凝った所はないが、読むと彼の魅力がわかるんだよな。刑事だけどキツくなく、気さくな感じが特に良い。

そんな鬼貫警部ものの短編で今回は「五つの時計」を紹介。ある男が絞殺され、同じ職場の男に殺人容疑がかかるが、その男の許嫁は別の男が犯人だと言う。しかしその別の男(椙田)にはアリバイがあり、そのアリバイは五つの時計によって裏付けられていた…という物語。

ここで障壁となる五つの時計は「椙田の自宅の時計」「証人の腕時計」「ラジオの時計」「洋品店の時計」「蕎麦屋の時計」。一つ二つならまだしも、この五つをどうやって偽装し、アリバイを構築したのかが見所となる。実は五つのうち四つは真相を聞くと「な~んだ」と思ってしまうようなトリックなのだが、問題は五つ目の「蕎麦屋の時計」。詳しく言うとネタバレになるので婉曲に言うと、これは蕎麦でないと意味がないトリック。寿司やピザじゃ~ダメなのだ。

著者自身はあまり自信作だと思ってなかったらしいが、個人的には鬼貫警部もののアリバイ崩しの中でベスト3に入る位好き。トリックは勿論、鬼貫が偽装工作を疑う部分も注目して読んでもらいたい。

“アンチ・ミステリ”的な真実、「ハムラアキラ~世界で最も不運な探偵~」3話

前回、前々回と「ミステリとしての探偵物語」の色が強かったハムラアキラ。しかし、今回はかなり毛色の違う物語。

 

(以下、ドラマのネタバレあり)

 

「わたしの調査に手加減はない」

今回の原作は『依頼人は死んだ』所収の「わたしの調査に手加減はない」。今回も原作未読なので、ドラマの感想を。

葉村の元に、依頼人の慧美が訪れる。彼女は7年前に自殺した親友の香織が夢枕に立つことが原因でうなされており、葉村に彼女の死の真相を暴いて欲しいと言うのだ。早速彼女は香織の大学時代の友人を調査していくが、香織が不妊で悩んでいたことや、慧美が香織にただならぬ感情を抱いていたことがゼミ仲間の環によって明らかになっていく。そして葉村は警察から回してもらった調書を見てある仮説を導き出す。

 

物語の導入部分はアガサ・クリスティ『スリーピング・マーダー』を想起させる、「眠っていた殺人」を起こして真実を暴く形式のミステリなんだな~と思っていたが、ことはそう単純ではなかった。

女性同士の嫉妬や不妊に対する悩み、そして当てつけとして送られた年賀状…。葉村はそこから「慧美が送った年賀状が引き金になった自殺」と判断した。しかし、香織の死が自分のせいではないことを第三者に証明してもらいたかった慧美は激昂する。また、常連客のアケミや岡田警視は、葉村や警察の見立てに対して余りにも即物的過ぎるのではと疑念を抱く。

「私が間違っていたのでは…」。葉村が再調査すると、ゼミ仲間の環の隠された真実が浮かび上がる。

 

環を演じた松本まりかさんはここ最近出演したドラマの影響もあって、ただゼミ仲間の人間関係を教えてくれる“だけ”の役割ではないと思っていた方も多かっただろうが、まさか同性愛者だったとは思うまい(私もそこまでは読み取れなかった)。

香織が朗読した金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」二人きりで撮ったプリクラの思い出…。香織自身には大きな意味のなかった事が環にとっては大きな意味があり、環はそこから本来存在しないはずの「愛」を見出してしまったことが悲劇につながったと言えるだろう。

 

香織にとって「私と小鳥と鈴と」を朗読したのは同性愛者である喫茶店店主に配慮したからあの作品を選んだのだろうし、プリクラの一件も単に他の仲間を待ってまで撮る必要がなかったという「気まぐれ」程度の思いつきだったはず。

しかし、環はあの朗読から「香織は同性愛者も理解してくれるような広い心の持ち主」だと思い、プリクラの一件で「自分に特別な感情を抱いているから二人で撮ろうとしたのでは?」と思ったのかもしれない。

 

学生時代、国語のテストで登場人物の言動からその人物が何を考えているのか答える問題があった。国語で習う文学に止まらず、世の全ての創作物は深読みすることで意味を見出し本質や面白さを求めようとする。それによって相手を理解したり思いやる精神が育まれるのだが、現実ではそれが悪い方向に働く場合が多いのだよな。

今回の場合、環は香織の言動を深読みしてしまった結果「香織は同性愛にも理解ある人で自分のことも愛してくれるだろう」という期待を抱いていたに違いないが、香織は環の好意が同性愛から来る邪な好意だと誤った深読みをし彼女を拒絶。それが死につながってしまったという訳だ。

 

香織も環もどちらも即物的に考えず誤った深読みをしたが故に悲劇を生んでしまった。一方葉村は香織の死の真相を即物的に読み取ってしまい、危うく真実を見逃してしまうかもしれなかった。「即物的な考え」と「深読み」、対極的な思考が印象に残る物語である。

 

アンチ・ミステリ

さて、探偵小説では探偵が調査した手がかりを元に「真相」が語られ、結果も大体その通りなのだが、反対に「探偵の推理で導き出される真相が、必ずしも真実を語っているとは限らない」という形式の物語もある。ミステリマニアはこういった形式の小説を俗にアンチ・ミステリと呼ぶ。

アンチ・ミステリー - Wikipedia

ざっくり言うと、「神でもない人間が限られた情報だけで全てを知った気になるな」という訳であり、全知全能のような振舞いをする探偵に対する反感や疑念によって生み出されたジャンルと言えるだろう。

こういった「探偵の推理の不完全さ」は謎解きをメインとする推理小説にも付きまとう問題であり、こういった問題のことを後期クイーン的問題と呼ぶ。ミステリマニアには馴染みある問題なのだが、ミステリをよく知らない方のために一応ウィキペディアの記事を貼っておく。

後期クイーン的問題 - Wikipedia

 

今回の物語も、(喫茶店店主の証言という「取っ掛かり」はあるものの)真相は推理では到達し得ない所にあったから、アンチ・ミステリのジャンルに入れて良いのかもしれない。

「わたしの調査に手加減はない」とはいえ、物事には自ずから限界というものがある。今回間宮さん演じる岡田警視は探偵の葉村が導き出した「誤った真実」を軌道修正させ「真実」へと導く役目だったが、前回述べた「ミステリとして着地させる役割」と相まって、彼の存在がより人ならざるものに近づいているような気がするのは気のせいだろうか…。