タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

彼岸を描く悪魔と此岸へ戻す警視、「ハムラアキラ~世界で最も不運な探偵~」4話

依頼人は死んだ (文春文庫)

前回がアンチ・ミステリならば、今回は冒頭で葉村が言ったようにホラーと呼ぶべきだろう。

これまでは原作未読でドラマ視聴を続けてきたが、今回からは原作既読で臨むことにした。来週から最終回までは『悪いうさぎ』がドラマ化されると聞いたので、それも購入。一気に読まずに少しずつ読んでいくつもり。

 

(以下、ドラマと原作のネタバレあり)

 

「濃紺の悪魔」「都合のいい地獄」

今回の原作は『依頼人は死んだ』所収「濃紺の悪魔」「都合のいい地獄」。原作の一番最初にくるのが「濃紺の悪魔」でその間に先週放送された「わたしの調査に手加減はない」を含む7編の事件がはさまり、最後に「都合のいい地獄」となる。一応連作短編集という形式のため、合間に挿入された事件が最後の「都合のいい地獄」に関係してくるのだが、具体的なことについてはおいおい話すとして、事件についてざっくりと。

 

前半の松島詩織の事件は原作の「濃紺の悪魔」、後半の葉村と“濃紺の悪魔”との駆け引きは「都合のいい地獄」が元になっている。

経営家として人気の松島が葉村たちに身辺警護を依頼するが、連続する嫌がらせ行為や奇禍、更に2週間という限定的な警護依頼に葉村は違和感を覚える。松島にその点を問い質すと、彼女は数週間前に“濃紺の悪魔”と死の契約を交わしており、それが原因で命を狙われているというのだ。

しかし、葉村は嫌がらせ行為をした人間を調べていくにつれ、これまでの奇禍は松島の自作自演ではないかと疑う。一連の事件は彼女の自作自演なのかそれとも…?

 

原作では最後に“濃紺の悪魔”の存在が仄めかされ、一旦事件は幕を閉じるが、後にとある犯罪者の自殺が起こり、そこで彼の存在が再浮上。彼は葉村に「その犯罪者がなぜ殺しをしたのか、その動機を教えるから指定の場所に来い」と言い、一方で葉村に近しい人物が数十分後に別場所で死ぬかもしれないと仄めかす。「殺人の真相」と「生命の危機」、葉村はその選択に悩むことになる。

ドラマではその犯罪者が葉村の姉の珠洲に置き換えられており、濃紺の悪魔はそれを取引材料に用いて葉村を翻弄した。

 

今回は野間口徹さん演じる濃紺の悪魔が捕らえどころのない、実在さえも疑ってしまうような幻想味溢れるキャラクターを演じていたため、原作未読だとこの話をどう捉えるべきか間違いなく迷ったが、原作を読んでいたおかげである程度この物語の輪郭を掴めた気がする。

 

「たいていの人間は無意味な死を遂げる。(中略)いつやってくるかわからない、その死の恐怖に怯えながら生きているのが人間だ。地獄だと、思わないか」

「(前略)ある人間の死が無意味なら、そいつの生だって無意味だ。自分の人生なのに都合も予定もたてられないんだぜ? だから俺は松島詩織を初めとして、いろんなやつらに、自分の死を選ばせてやった。(中略)この先、いつまでも地獄で無意味に生き続けるより、やつらの生は、自分自身でピリオドを打つことで、はっきりと意味あるものになったんだ」

 上で引用したのは、原作で葉村に対して語りかけた濃紺の悪魔の人生観とでも言うべき一言。

後に明かされる濃紺の悪魔の経歴を知れば、彼が人の不幸や不条理な死を見すぎた結果、こういう思想を抱くようになったのかな?とそれなりに理解することは出来る。だとしてもこれは極論・暴論の類だな~と思う。

確かにこの世が地獄であることは否定出来ないが、かといって全てが地獄という訳でもないし、そもそも死に意味付けをするのは生き残った者が死者の生き様(善行・悪行含めて)を正当化するための目的もあるから、本来死そのものに「自然の摂理」以上の意味などないのだ

しかし、濃紺の悪魔は「意味ある死」の妄執に捕らわれ、普段死を意識したことがない人間がぽつりと呟く「死にたい」という感情に付け入り、死の原因となる事象を誘発させてターゲットを彼岸に追いやろうとした。

彼岸という一線を描き出すことで日常に死をもたらす悪魔。ちょっと洒落た感じに言うとこんな具合だろうか。

 

少し話は変わって些末なことについて考える。一応人を死に追いやっているというのに、どうして彼は濃紺の“悪魔”であって“死神”ではないのだろうか?

これは原作を読んだからわかったことだが、濃紺の悪魔には直接死に至らしめるような暗示をかける能力はない。特定の場所に行かせるとか、自分のしたことを忘れさせたり、反対に思い込ませたりする能力があるに過ぎない。人間離れしているように見えるが、結局は催眠術師まがいの人間で、悪魔のように誘発は出来ても、死神ほど死を司れる訳ではないことが原作では説明づけられている。※

 

※誘発によって善にも悪にも傾く人間のモチーフにやじろべえが使われたが、これは原作には出てこないモチーフで個人的に興味深い演出だった。

(2020.02.15追記)

 

ちなみに、ドラマでは濃紺の悪魔がかつて裁判官だったという設定になっていたが、原作では葉村と同じ探偵だったというぼんやりとした経歴しか明かされていない。でもこれだけでも十分意味があって、それだけ探偵稼業が彼岸に片足を突っ込みやすい仕事だということを示しているのだ。

濃紺の悪魔は探偵稼業で出くわした体験によって病的な思想に取り憑かれ、彼岸へ行ってしまった。そして葉村も知らず知らずのうちに濃紺の悪魔によって彼岸に片足を突っ込み、必要以上に彼に関わってしまったことになる。

これはひとえに彼女の優しさというか誠実さが彼に隙を与えてしまった訳なのだが、どこまで事件に関わるか、その線引きを弁えておくのも探偵に必要な能力だな~と感じた。仕事として割り切るべき所は割り切ってしまえということだろう。

 

原作では葉村を此岸へ呼び戻したのは村木や探偵所の所長なのだが、ドラマでは所長は登場しないし村木も負傷しているため、その役目を岡田警視が担う。

物語をミステリとして着地させたり、「誤った真実」を軌道修正させ「真実」へと葉村を導いてきた岡田警視。今回松島詩織の一件を知った彼は、葉村に対して関わり過ぎると彼岸に連れて行かれる案件だということを「深淵を覗く時深淵もまたあなたを覗いている」「好奇心は猫を殺す」の言葉で忠告した。最後に拍手をしたのも、葉村が濃紺の悪魔の拍手によってかけられた暗示を解除し、此岸に戻す意味合いがあったと考えるべきだろう。

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余談になるが、「深淵を覗く時深淵もまたあなたを覗いている」という言葉は19世紀の哲学者ニーチェの言葉らしい。

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ニーチェと言えば、私が間宮さんにハマる切っ掛けになった作品ニーチェ先生を思い出して、私はそのつながりに一人喜んでいた。(*^▽^*)

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