タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

ゲゲゲの鬼太郎(6期)第88話「一反もめんの恋」視聴

6期、あるある~。

鬼太郎ファミリーで恋愛モノ、やりがち~。

 

古籠火

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鳥山石燕の『百器徒然袋』では「ころうか」として呼ばれており、「古戦場では鬼火が出るという話を聞くけど、まだ灯籠の火が怪をなす話は聞かない」(意訳)という一文が添えられている。

が、山田野理夫『東北怪談の旅』では、山形県で屋敷の古灯籠がボーっと光る怪があり、近くに住む古老が「ころうび」の仕業だと言ったそうである。

灯籠が怪をなす話は他にもあり、栃木県では化け灯籠として話が伝わっている。

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化け灯籠は5期の鵺の回で悪妖怪として登場したが、今回初登場した古籠火は住処の古灯籠が壊れた時こそ怒りで我を忘れて見境なく火炎攻撃をしたものの、水で濡らされ頭が冷えたのか、その後は大人しくなり、灯籠が元通りになると喜んで帰って行った。

根っからの悪妖怪ではなく、今回はとばっちりを受けた形での登場。大きなしこりを残すことなく収束したし、ホント今回は公式ツイッターでも言っていたように「今作で一番平和な回」だったな。

 

軽薄でも折れない心

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

今回は一反木綿のメイン回(これで鬼太郎ファミリーのメイン回は一通り済んだかな?)。原作では子泣きや砂かけ、ぬりかべと同様「妖怪大戦争」で初登場する妖怪だが、定番となった九州弁でのしゃべくりはアニメ3期から始まった設定で、それ以前は標準語で話している。

伝承で語られる一反木綿は、人の顔に巻き付いて窒息させようとするなかなかに恐ろしい妖怪だが、鬼太郎ファミリーとして登場する一反木綿は、遠隔地への移動や敵の追跡、空中での戦闘といった形で鬼太郎たちをサポート。また身体は切られても水を吸収すれば再生可能なため、鬼太郎ファミリーの中でも生命力と回復力に長けている。

攻撃方法は相手に巻き付いて締め上げたり窒息させたりするほか、身体を刃物のようにして切りつける「もめん切り」なる技を持っている。確か3話の妖怪城の回で一反木綿がかまいたちを一刀両断していたはずだが、あれが「もめん切り」なのだよ。

 

さて、6期一反木綿の最大の特徴は可愛い女の子を見ると口説くという軟派気質な性格。体も薄い(公式設定ではたった0.5ミリの薄さ)が心も薄いという設定で、悪く言えば軽薄と言えるだろう。重厚なぬりかべと真逆の存在ではあるものの、浮気性な感じはあまりしない。

というのも、今回ビビビハウスに参加した「まーちゃん」という女性が抱く恋愛の悩みに対する答えや、本気で恋した時のガチガチ具合などから、「相手にその気がない場合は空回りになったり、節操がなくなってしまう部分があるものの、相手が恋愛について考えていたり、ガチで好きになった場合はピュアに接する」という一反木綿の恋愛観のようなものが見えた気がするからだ。

最初は相手の嗜好も思考もわからない、いわば「取っ掛かりのない」状態から始まるので接し方も軽薄になってしまう部分があるが、相手がその気なら真摯に対応するのが一反木綿の流儀だろう。失恋しても新たな女性が見つかるとケロッと態度を変えられるのは「軽薄」ともとれるが、一回一回の恋に対して後悔がないようにしていると思えば、その立ち直りの早さは「ひとたびの出会いでも本気で接する」彼の流儀を裏付けている気がする。一回一回が本気だから後悔も少ないし引きずらない。

 

肉体だけでなく精神的にも回復力の早い一反木綿。上記の解釈はあくまで好意的に見たらの話なので、「6期一反木綿は軽薄だな~ww」という意見も勿論オールオッケーである。

 

今までの積み重ねが活きた回

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

今回の脚本は市川十億衛門氏。話としては恋愛モノで、特別強い敵が出た訳でもなく、深いテーマを扱った訳でもなく、風刺が効いた回でもない。恋愛部分にしても「傷つくことを恐れるな」程度のメッセージ性にもかかわらず、今回十分に面白く見ることが出来たのは、過去87回にわたって描かれてきた諸々の出来事がこの話の面白さに活かされているからである。

 

まずは序盤、一反木綿がアルカリユリコにプロポーズして玉砕する場面。

「薄っぺらい男が嫌い」と言っているから、88話以前の鬼太郎を見ていない人の立場だと「誠実な人が好きなのか」という感想になるけれど、58話の半魚人回で投資家の横井沢翼と電撃結婚し、後に横井沢がかまぼこ相場で失敗したことが原因(らしい)で婚約破棄した事実を知っている視聴者は「アルカリユリコ=金目当てで結婚する腹黒アイドル」だとわかっているため、先述した「薄っぺらい男が嫌い」発言も、

「いや薄っぺらい男でも金持ちの男は歓迎で、金のない妖怪はノーセンキューってことだろ?お前が言う『薄っぺらい』は財布の厚さが『薄っぺらい』じゃねーのか?」

と読み取れる。この時点で既に面白い。

 

そして、ねずみ男の人間と妖怪の共同生活を送る場「ビビビハウス」。女性を呼び寄せる謳い文句に「イケメン妖怪」が用いられたが、実際は豆腐小僧かわうそ・一反木綿の「子供と獣と布」トリオ。

イケメン妖怪と謳っておいてこの三体という、この落差だけでも面白いが、「そういや鬼太郎の世界でイケメン妖怪いたっけ?」とか「どのイケメン妖怪をビビビハウスに呼ぼうか?」という、視聴者同士の話題作りに貢献しているのが上手い。

ちなみに今期の鬼太郎で登場したイケメン妖怪枠は、

ヨースケくん(ただしストーカー気質)

目玉おやじ(ただし夢の世界限定でイケメン)

画皮(ただし魂を吸い取る。本体ブッサイク)

ヴォルフガング(ただし人間は妖怪奴隷化させる)

白山坊(ただし既婚者)

吸血鬼ラ・セーヌ(ただしショタ。血を吸われる危険性高し)

鬼童伊吹丸(ただし現在石動零の指導霊として全国放浪中。半身は地獄。ちはやという想い人あり)

 いずれのイケメンも交際するとなると相当の覚悟がいるので要注意(笑)。

 

数合わせ要員の豆腐小僧かわうそも、これまで登場した回のおかげでキャラとしての奥行きが出ている。

ちょこちょこ登場し続けている豆腐小僧はホントに人間が好きなんだな~って思わされるし、湯豆腐という形で一反木綿の頑張りを空回りさせる役回りをしているのも地味にナイス。

そしてかわうそは今回で女難体質であることが私の中で確定した。

一度目の女難は初登場した18話。貧困家庭の子供を装って猫娘から野菜を巻き上げた点に関しては自業自得なのだが、それがバレてしまったことに加えて猫娘が野菜を栽培してこっそり鬼太郎に送っていたことも間接的にバラしてしまい、猫娘に逆ギレされて追いかけられたのは完全に「もらい事故」だったな…ww。二度目の女難は55話の狒々回。釣りをしていたら岡倉ユミにテニスのコーチとして無理やりスカウトされた挙句、新しいコーチが見つかってクビにされるという、なかなかの振り回され具合。そして今回はモナー嗜好のあるまーちゃんからまさかのプロポーズ。盗撮レベルの「好き」はかなり厄介だし、一反木綿の後押しで恋がバーニングしているから、断ってどうにかなる感じではなさそうだ。

 

さて、皆さんは覚えているだろうか、ちょうど一年前の今頃放送された39話。この回で鬼太郎が目玉おやじから恋愛指導としてギャルゲーを徹夜でプレイさせられていた事実を…。39話はシミュレーションで止まったが、今回は実践練習みたいなもので、一時的にせよ人間の女性と共同で料理を作ったり釣りをして楽しんだ。が、当然ながら恋愛面ではこの一年で全く成長しておらず、恋愛面での変わらぬ朴念仁っぷりを見せつけた。猫娘的には悪い虫が寄らなくてありがたいような、でも私の気持ちはわかってもらえなくてありがたくないような…そんな複雑な気持ちが描写されていたのも面白かった。

 

以上、最低でも10話分以上の過去回によって面白さが引き立っているのがこの88話の特色であり、長編シリーズとしての利点を活かした回として評価したい。

 

 

過去最高のゆるさだった今回の次に登場するのは手の目。予告で判明したが、次回はぬらりひょん絡みの回であり、女性総理が映っていたことから間違いなく政府絡みの案件だろう。もう既に危険な香りがプンプンする。

ゲゲゲの鬼太郎(6期)第87話「貧乏神と座敷童子」視聴

(遅くなったが)新年あけましておめでとうございます

良い一年を過ごすためにも、この話を通して「幸福」についてちょっと考えてみようではないか。

 

貧乏神

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もはや説明不要。名の通り貧乏をもたらす神で、窮鬼とも呼ばれる。東京の文京区には貧乏神を祀った祠があり、貧乏神を祀ったことで福に転じた話や、夢枕に現れた貧乏神の言う通りに焼き飯と焼き味噌を川に流して貧乏から逃れた人の話が残っている。

アニメでは2・3期に登場。2期では死神と組んで会社を倒産に追い込み貧乏人と自殺者を増やそうと計画した。3期では後述する原作「笠地蔵」に登場し、慎ましやかに暮らす老夫婦の家に住み着く妖怪として登場した。

 

座敷童子

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これも改めて説明する必要のない妖怪。しかし、座敷童子にもピンキリがあり、富をもたらす者もいれば、ただただ座敷を這いずり回るだけの気持ち悪い存在でしかない者もいる。

アニメでは1・3・4・5期に登場。1期では座敷童子の集団があり、冬になると人家に移って冬を越すという生活様式や、悪霊を追い払う能力など、オリジナルの設定がある。3期は原作通り、貧しく暮らす老夫婦にあたたかい正月をおくってもらおうと奔走。4期は「笠地蔵」ではなく「後神」の話に座敷童子を組み込んだ構成となっており、比較的アニメオリジナルな物語となった。5期になると原作のビジュアルから一転、萌えキャラ寄りのビジュアルになり、男女別の個体として登場。後に妖怪四十七士の岩手県代表となった。

 

「笠地蔵」

座敷童子が登場する原作「笠地蔵」は鬼太郎シリーズの中でも異色作の部類に入る。妖怪とのバトルがないのは勿論、物語が昔話の「笠地蔵」をベースにしたもので時代錯誤の感が甚だしいのも他作品と一線を画している。「笠地蔵」が掲載されたのは1968年であり、当然そんな時代に正月の餅を買うため笠を売りに歩く老人などいなかっただろう(いなかったとは言い切れないが…)。ただ、物語の最後に「鬼太郎たちは(中略)世の中から見すてられたさびしい老人たちにあたたかい正月をおくらせてやったのです」という一文があることから、根底には社会的弱者とその救済を描くことが目的にあり、そう考えると必ずしも「時代錯誤」だと言い切れないのではないか…と思っている。

 

原作を元にしたアニメは1・3・4・5期で放送されており、原作通り座敷童子が登場するのは1・3期。原作では座敷童子のいる雪国にたまたま鬼太郎がいたということになっているが、1期では鬼太郎が雪国にいる理由づけとして、鬼太郎が妖怪を倒しすぎたことが原因で悪霊に取り憑かれ病にかかり、その病を治すべく座敷童子のいる東北へ赴くオリジナルの展開がある。また、童謡「おおさむこさむ」の替え歌が出て来るのも1期の特徴で、それにより牧歌的なムードが漂っているのが良い(歌詞の一部は今じゃ放送出来ないが)。

 

3期は最も原作に近いといえるが、バトルシーンを入れるために老夫婦の貧しさの原因となる貧乏神が登場し、それを追い出すために鬼太郎たちが動く展開となる。視聴当初はこの改変について何とも思わなかったが、よくよく考えるとこの改変にはマズい所があって、鬼太郎たちの正義感が独善的かつ一方的なものになっているきらいがある。老夫婦に迷惑をかけてはいけないという大義名分の下、貧乏神を老夫婦の家からおびき出して即日退去を命じる鬼太郎たち。老夫婦との交渉もなく、「お前がいるだけで迷惑になる」と非難し、転居先を探してあげる協力もせず「悪い事をして金儲けをする奴の家に行けばいい」と無責任に追い払う。何とまぁ、酷い話である。こんな大多数による「いじめの構図」をヒーローものとしてテレビに流していたのだからね。3期だからともかく、多様性をテーマにした6期でこんな話を流した日には私ブチ切れるからね!!

 

さて、4期は座敷童子も貧乏神も出てこない代わりに、3匹の子狐一本だたらが登場。子狐と一本だたらの命がけの駆け引きがありながらも、どこかのほほんとした空気もある物語。老夫婦に正月の贈り物をするのは原作と同じだが、原作や1・3期が慈善的な救済の意図で行われたのに対し、4期は子狐を飢えと寒さから救ったことに対する恩返しという明確な目的がある。

 

5期になると原作要素はほとんど無くなる。お地蔵さまに「傘」をかけた、までは原作要素だと言えるが、あとは妖怪いそがしとの対決がメインであり、登場するのも老夫婦ではなく父親を亡くし母親は意識不明で入院中の兄妹になっている。5期の巧い所は「一時的な支援が弱者の窮状を根本的に解決する訳ではない」ということを鬼太郎の口からはっきりと語らせた点であり、(脚本にその意図があったかどうか不明だが)原作に対する批判的精神が窺える。それでも兄妹の暖かい心に触れた鬼太郎が恩返しとして兄妹の母親の意識が戻るよう働きかける展開に感動。危うく涙を流しそうになった。社会的弱者に向き合い、独善的正義に走らない配慮もある名作なので是非見てもらいたい。

 

座敷童子=幸福という名の怪物

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

6期は座敷童子が出ているものの、「笠地蔵」要素はほぼ皆無。申し訳程度にお地蔵さんは画面に映っているし、劇中で老夫婦が喫茶店にいる場面もあるが、これまでの物語における「救済」「恩返し」といったテーマではなく「幸福」を扱った物語になっている。

始業式の帰りに友人の綾の両親が経営する喫茶店に立ち寄ったまなは、そこに貧乏神を見つけ、綾もその存在を感知してしまう。貧乏神を追い出し、代わりに座敷童子が来たことで喫茶店の経営は好調。経営好調の種明かしとして綾は両親に座敷童子を紹介するが、それが切っ掛けで両親の「欲」がどんどん膨れ上がる…というのが今回のあらすじ。

両親が座敷童子を認知してからの展開は、過去に2期でアニメ化された水木先生の短編「幸福という名の怪物」を彷彿とさせる。「幸福という名の怪物」は鬼太郎が登場しない物語。ねずみ男から「幸福」と称する怪物の卵を受け取った豊島は、家で「幸福」を孵化させる。すると思いがけぬ幸運が次々と舞い込み、妻の花子も大喜び。もっと上の役職に就きたい、もっと大きな家に住みたい。夫婦の欲が大きくなるのに比例して「幸福」もどんどん大きくなったが、しまいには家の屋根を突き破り破裂。夫婦は明日から不運がくると嘆息した…というお話。

 

人間の欲には際限がないことをシンプルに風刺した物語であり、幸運が大きい分、不運もまた大きくなることを示唆している。ただ今回登場した綾の両親は座敷童子に「綾を幸せにしてほしい」という名目で経営の肥大化を願い、自分達の私腹を肥やしていたので「幸福という名の怪物」に登場した夫妻よりもタチが悪い。自分の娘を免罪符みたいにしていたのだからね。

3期では慎ましやかな老夫婦の家に住み着いた貧乏神。その家を選んだ動機は「住みやすそうだったから」という単純なものだったが、6期では綾の両親が過去に起こした所業から「富が集中すると悪徳に走る」性質があることを見抜き、その性質を抑制するため居座ったという動機があった。腐っても神、社会貢献に一応務めていたのだからエライし、貧乏神をそういう立ち位置にした脚本の井上氏を評価したい。

 

幸福に最も必要なのは「富」でも「貧しさ」でもなく…

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

今回の物語、一見すると「身の丈に合わない富を得るよりは、貧しくても人として正しく生きるべきだよね」って話だと思ってしまうかもしれないが、個人的にはそんな底の浅い教訓話としてこの物語を受け止めるのはちょっと違うと感じている。そういう話にするのだったら「綾の両親が過去に悪どい方法で金儲けをしていた」という設定などいらないからだ。

金銭的に豊かだからといって全ての金持ちが傲慢で欲の深い人間だとは限らないし、反対に貧しいからといって全ての貧乏人が慎ましやかで清い心の持ち主なんてことはあり得ない。金持ちでも慈善事業や社会貢献に務める人もいれば、貧しさゆえに犯罪に走る人もいる。「清貧」という言葉など願望みたいなもので、それを実行するのが不可能だということは既に水木先生をはじめとする先人たちが証明している。

 

※ちなみに、水木先生は90年代にベストセラーになった『清貧の思想』に怒りを示したそうだ。

 よっぽどこの本に書かれた思想に腹が据えかねたのか、後に水木先生は「我が方丈記(『妖怪博士の朝食 1』所収)という作品を発表、『清貧の思想』に触発されて清貧生活に挑むも、清貧は贅沢なものだと悟る男の話を描いた。

妖怪博士の朝食 (1) (小学館文庫)

(2020.01.06追記)

 

これまで水木先生は幸福をテーマにした話を幾つも描いてきた。その中で「文明社会が必ずしも人を幸福にするとは限らない」とし、文明社会へのアンチテーゼを盛り込んだ物語を発表してきたことは今更言うまでもないだろう。今回の話に登場する「金」も文明社会を象徴するモノであり、そういう観点から見ると今回の物語も8月に放送された縄文人の回と同様、文明社会へのアンチテーゼと見ることが出来る。

しかし、誤解がないよう言っておくが今回の物語において「金を以て得る幸福が悪」であり「金がなくとも得られる幸福が最善」だという考えは一切示されていない

Twitterの「#ゲゲゲの鬼太郎」のTLにおいて、「今回は胸糞悪かった。貧困層の辛さもわからず偽善に走っている」という感想を見かけて「いやいや…違うよ。そういう事を言ってるんじゃないんだよ!」と声を大にして言いたかった(流石にお節介になるので反論のリプライは送らなかったが)。

 

では今回の物語において「幸福」をどう捉えるべきかと考えると、まず間違いなく言えるのは、富や貧しさはあくまで幸福であるための「手段」であり、幸福そのものに直結していないということだ。綾の両親の場合、富の集中が妨げられ常に貧乏の状態に保たれたことで親として・人として恥のない行いが出来た。しかしこれは綾の両親には当てはまっても他の家に当てはまる訳ではない。貧しさから心理的な余裕を失くし、子供を虐待したり育児を放棄する親が存在することを思えば、今の世の中お金があるに越したことはないのだ。綾や綾の両親が真っ当な生活を送れていたのは貧乏神の「貧しさの供給」が絶妙な匙加減で行われていた証拠であり、それによって綾の一家が大きな災いを回避出来ていたことを思えば、無病息災ならぬ一病息災であの家は成り立っていたのかもしれない。

 

富や貧しさが幸福に直結するのでなければ、幸福に直結するのは何か?

私は夢と希望が幸福に最も必要なものではないかと思っている。

「何をそんな綺麗ごとを…」と呆れられるかもしれないが、大抵の人は「○○になりたい」「○○な暮らしがしたい」という夢・希望があり、それを実現させるために富を求める。中には「私は富がなくても○○の夢・希望は実現出来るから貧しくても大丈夫」という人もいる。

要は自分が抱く夢・希望に見合った富や貧しさを選択するのが最良という訳であり、その夢・希望が実現するかどうかはともかく、それに向かって毎日を過ごしていられるのならば、それは十分幸福と言って良いのではないだろうか?

 

そういう価値観を示した作品が水木先生の短編にはある。その名は錬金術。作中では錬金術によって金を得ようと日夜格闘する一家が登場する。傍目から見れば貧しいことこの上ないし、無駄で意味のない毎日を送っているように見える。しかし彼らの生活は満ち足りて幸福感でいっぱいだ。それは何故か?

作中に登場するねずみ男似の錬金術師曰く錬金術は金を得ることではなく、そのことによって金では得られない希望を得ることにあるんだ。人生はそれでいいんだ…」

絶対的な幸福がないように、絶対的に価値のあるモノが存在しないことを説いた哲学的名作だ。

 

「夢・希望」は中庸的存在

さて、「夢と希望が幸福に最も必要」と述べたが、それをずっと抱き続けるからと言って人間が一生ハッピーに過ごせるかと言うとそうでもないし、そんな思いをずっと抱いていられる程、世の中は一定に保たれていない。常に環境は目まぐるしく変わり、それに応じて夢・希望の程度も変えないといけない状況に追い込まれる場合がある。

また夢・希望はそれに向かっている間とそれが実現している間はこの上もなく幸せだが、それに向かうことが出来なくなったり実現しないことがわかると絶望に陥る。またそれが実現して富を得られることもあれば、実現せず貧しいまま一生を終えることもある。

夢・希望は幸福に必要なものだが、それ自体は幸福を保証してくれない。転がり方によっては本人にとってプラスにもマイナスにもなる。これは何も夢・希望だけの話ではなく、座敷童子も貧乏神も捉え方次第では幸福をもたらすプラスの存在、或いは不幸をもたらすマイナスの存在になる。もっと言えば、劇中に登場したお地蔵様も二面あるうちの一面に過ぎず、もう一面の顔はあの地獄の閻魔大王なのだ。

つまり、全ての物事は常にプラスとマイナスの両方の側面を持ち合わせており、夢や希望も転がり方によっては幸福につながる要因となったり絶望の底に叩き落す要因となる可能性をはらんでいるのだ。夢・希望は幸福を絶対的に保証はしないが、だからと言ってその感情を抱くことを怠ってはならない。少なくとも悪徳に走らず法を犯すことなく人間として真っ当に幸福を得たいのであれば、夢・希望に向き合い続けるべきだと私は思う。

 

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

6期の物語で1年目から登場していた綾。あくまでモブに徹するキャラクターだと思っていたが、今回の騒動で両親が過去に犯した罪業を知り、(両親が逮捕されたかどうかは不明だが)「犯罪者の娘」というなかなかにハードな宿命を背負っていたことが判明。普通なら両親との間に大きな溝が生まれそうなものだが、騒動前と変わらず喫茶店に立ち続けているということは、彼女が両親を含めて本当の幸福に向かって進もうとしている姿勢を示しており、彼女自身がこの一家の「夢・希望」の象徴として輝いているように映った。当初のようにパティシエールの夢を目指すのか、それとも貧しくとも両親が喜んでくれるお菓子を作り続ける生き方を選択するのか。どう転ぶかわからない未来だが、親が犯した悪徳が彼女に発露しないことを祈ろう。

 

蛇足

・今回劇中で登場したお菓子「ギモーヴ」。マシュマロっぽいなと思ったけどマシュマロとは違う所もあるようなので、知りたい方は以下の記事を参照してね。

omiyagate.jp

 

・今回まなが身に着けていたマフラーは昨年登場したチンさんがプレゼントしたものだが、お気づきになっただろうか?私はTLで見てから気づいたが…。

 

・「全ての物事にプラス・マイナスの面があり、一方だけを求めることは無理」ということを示した逸話が涅槃経にある。当然今回の話と関係しているので以下に掲載する。

wp1.fuchu.jp

 

・EDが新しくなったが、西洋妖怪とぬらりひょんが出て来るのはまだしも、女性総理と機動隊(らしき人々)が出て来たのは意外。国家レベルで人間と妖怪との対立が激化してきそうな予感がするが果たして…。

 

 

来週は一反木綿のメイン回。人間と妖怪とのシェアハウス生活で、かわうそ豆腐小僧が妖怪側として登場することはわかったが、女性の方は人間の女性なのかそれとも人間を装った妖怪なのか…。ねずみ男が絡むので勿論裏はあるだろうがとにかく現時点では謎に包まれた状態。個人的には大胆予想であの女妖怪が出るかな?とは思っているが過去に一回もアニメでは登場していないので違うだろうな…。

『狩人の悪夢』における『本陣殺人事件』らしさ(ネタバレあり)

狩人の悪夢 (角川文庫)

正月休みの勢いにまかせて、『狩人の悪夢』を読了。その際に『本陣殺人事件』らしいものを感じたので自分なりに考えてみた。

 

(以下、『狩人の悪夢』『本陣殺人事件』のネタバレあり。また『狩人の悪夢』はHuluオリジナルドラマ版についても言及するので未試聴の方は要注意!)

本陣殺人事件 (角川文庫)

 

「恥」という悪夢

『本陣殺人事件』(以下『本陣』)といえば、密室トリックもさることながら犯人の犯行動機の特殊さが取りざたされ、それにより賛否の意見が分かれることがしばしば。

togetter.com

犯人の潔癖性と旧家の跡取りとしての威厳、そして村という共同体が犯人を窮地に立たせているのが『本陣』の面白い所だ。人によっては「処女厨の犯行」と言い切っているが、個人的にはこの物語の根源には「恥」が関係していると思っている。

ルース・ベネディクト菊と刀』でも言及されているが、日本人は「恥」をかくことを極度に嫌う。勿論、この論説には批判出来る部分もあるし、現代の日本人の中には恥を厭わない人もいるだろうから、「日本人=恥を嫌う」というのは一概には言えない。

ただ、「恥を嫌う」のは人間の感情として自然なことであり、「恥から逃れられない状況」に陥りたくないと足掻こうとするのも、これまた自然ではないだろうか。

「村」という共同体、そして「由緒ある名家の当主」、この2つこそ犯人が「恥」から逃れる退路を断つ要因として立ちはだかり、結果複雑怪奇な殺人事件として現出したのだ。

 

現代では家格や当主といった価値観は廃れ、村という共同体も昔ほど強固なものではないため、『本陣』の犯人のように追い詰められる状況は起こらず、「恥」を殺人動機に置くのも現代のミステリには似合わないと思っていたのだが、今回『狩人の悪夢』(以下『狩人』)で、やり様によっては現代でも「恥」を根源とした殺人事件は描けるものだと発見した。

 

『狩人』の犯行動機は、犯人が著したとされる大ヒット作『ナイトメア・ライジング』(以下『ナイライ』)が実は犯人のアシスタントの作品であり、それを知っていた女性にその事実を公表されることを防ぐため。つまり「口封じ」の殺人である。

「これのどこに恥が関係しているのだ?」と思うだろうが、よく考えてほしい。もし『ナイライ』がゴーストライターによるものだと公表された場合、犯人にとっては経済的な損失だけでなく、世間から白眼視されることになる。しかも『ナイライ』は既にハリウッド映画として公開が予定されており、この問題が明るみに出れば日本だけでなく世界からもバッシングされることになる。

犯人にとってこの問題が暴露されることはかなりの屈辱になることは間違いない。ましてや、作家として初めてヒットしたのがこの『ナイライ』であり、それ以前の純文学作品は鳴かず飛ばずだったのだから、その点もマスコミに暴き立てられ「ほうら、やはりコイツに才能は無かったのだ」と笑われることになるのだ。これは『本陣』における「恥」なんて比にならない大恥だ

 

『狩人』の作中では、犯人は作家を引退するつもりでいた。ゴーストライターが遺した作品を公表し、自分が考えたサスペンス・ミステリを書いて作家を引退することで、犯人は「秘密」から解放されることを望んだ。

しかし運命はそれを許さない。

アメリカから帰国した女性がその事実を突き止め、一種の正義感から「秘密」の暴露をしようとした。生きていたら弁護してくれたであろうゴーストライターのアシスタントも2年前に他界しており、犯人の退路は断たれたも同然。殺すしか選択肢はなかったのだ。

殺してもなお続く不測の事態に犯人は狼狽し、結果「とっ散らかった」様相を呈した事件となったのが、この物語の面白い所。

※作中で言及されているが、アシスタントは過去に正当防衛で父親を殺害しており、自分の実名がネットに流出したことで心に傷を受けていた。そのため自分名義で作品を出すとマスコミから過去の事件が蒸し返される恐れがあり、それを嫌った彼はゴーストライターとして作品を世に出すことを良しとした可能性がある。

 

『本陣』では村内における恥だが、『狩人』では恥の規模が大きくなり世界的な恥となっているのが特徴。『本陣』では自らも死ぬことで「恥」という来るべき現実の悪夢から逃れようとした犯人だったが、『狩人』では逃れようともがくほど泥沼にはまっていくという感じ。そんな犯人が運命と論理の糸によって射止められ、追いつめられる様が何とも哀れで印象深い。

 

「切断された手首」と「偶然」の扱い

『本陣』と『狩人』を比較していて気になったのは「切断された手首」「偶然」の扱い方の違いだ。

『本陣』における「切断された手首」というのは、三本指の男の右手首のこと。犯人はこれをスタンプのように利用して殺害現場に三本指の血の手形を残し、犯人は三本指の男だと捜査陣に印象付けた。

一方『狩人』では二つの手首が出て来る。一つは証拠隠滅として、そしてもう一つは殺害現場の偽装として。特に殺害現場の偽装として切断された手首は、血の手形をスタンプするために切断した、と捜査陣に思わせるためであり、切断の目的が『本陣』と真逆になっているのが面白い。

 

そして「偶然」。『本陣』では「雪」という偶然によって密室殺人の謎が生まれる。『狩人』では「落雷による倒木」が起こり、これが犯人特定の材料となる。共通するものがあるとしたら、どちらの犯人も偶然によって困ったことになったということだろうか。

 

Huluオリジナルドラマ版について

原作を読んだらドラマの方も気になったので、Huluに加入して見てみた。

連ドラの方で作風がどんなものか把握していたので期待はしてなかったが、まぁまぁという感じ。駄作とまではいかないけれど、味付けが気に入らぬ。

序盤の大学の講演として出て来た「推理クイズ」ははっきり言って蛇足だったし、そんなの入れるなら他に描写すべきことがあっただろ、というのが真っ先に感じた不満。

 

本筋の事件についてはほぼ原作通り。ただ、原作ではアリスが来る前日に凶行があったのに対し、ドラマではアリスが来た当日に起こった事件となっているため、「倒木の連絡時刻」が変わっている。

謎解きのプロセスも原作に沿っているが、ちょっと勿体ないと思ったのは「弓に血が付いていなかったこと」がカットされていた点。この情報によって現場の血の手形が真犯人の偽装工作である証拠になるのだから、それを無視したのはいただけない。

あと第二の被害者(大泉)の左手首切断の理由について。劇中の台詞をそのまま引用すると、

「大泉の左手に左手首が無ければ、犯人は廃屋で大泉を殺し、左手首だけを徒歩で沖田の現場まで持って行ったと解釈されるのではないか」

と述べ、「猟奇殺人に見せかけ捜査を撹乱」する目的もあっただろうと推理している。揚げ足をとるような指摘になるが、上記の台詞を一回聞いただけでは切断目的がピンと来ない。せめて「スタンプ」というワードがあれば、「偽装工作のため手首をスタンプとして利用するために切断したと思わせる」目的が頭に入りやすいと思った。まぁネット配信のドラマなので、見直しが出来る分そこは大した瑕疵ではないのだが。

 

そして事件の決着の仕方として火村が机をバンバン叩き、「あんたの見ている悪夢はな…現実だ!」と言い放つ場面。

何だいコレ?お前は「半沢直樹」の小木曽か!!

連ドラを見ていた時にも感じたが、ドラマの火村はサディスティックな断罪者という面がある。ある意味探偵のカッコよさを演出するつもりなのだろうが、私はこういうのが嫌いだ。

犯罪者にも色々あって、快楽目的で人を殺す者もいれば本作のようにのっぴきならぬ事情で人を殺す者もいる。でも大半はのっぴきならぬ事情の方が多いのではないだろうか。それなのに、ドラマの火村は「この犯罪は美しくない」と、芸術作品を評価するかの如くのたまい、解決場面においては容疑者の神経を逆撫でするような態度で話を進める(連ドラの「朱色の研究」は酷かったぞ…)。

その態度は犯罪者を狩る優越感からか、或いは「人を殺したい」と思った心の闇が犯人を追い詰めるサディスティックさに影響を与えているのか、解釈はどうにでもなるし、探偵も人間なのでそういうエゴイスティックな部分を演出するのは悪いことではないと思う。が、そんな探偵像の演出によって犯人の心情や事件の内情が蔑ろにされてはならない。

にもかかわらず、ドラマではそういった機微がカットされたり簡略化されてしまっているので、それが不満となってしまうのだ。

 

今回の場合、犯人が作家を引退しようとしていたことや、亡くなったアシスタントが自分名義で作品を発表出来なかった事情がカットされているため、犯人が現実という悪夢から逃れられない事態に陥っていた深刻さや、弁護してくれる人のいない運命の恐ろしさは感じられず、「衝動的に人を殺し、あとは現実逃避するかの如く偽装工作を重ねた犯人」という、何とも薄い犯人造形になってしまった

地上波放送でない分、尺の制約はそれほど厳しい訳でもないのだから、正直そういったバックボーンを入れようと思えば入れられたはずなのにね。

 

続編を楽しんだ人には悪いが、犯人の物語より探偵側の物語を優先するという、悪い所が継承された映像化、というのが率直な意見である。

不器用だけどあたたかくて胸がいっぱいになる映画「殺さない彼と死なない彼女」(ネタバレなし感想)

殺さない彼と死なない彼女 (KITORA)

間宮さんが出演すると聞いて読んだ原作なのに、公開から一ヶ月以上経ってから観ることになったのはファンとして不徳の致すところ。上映時間が自分の都合に合わなかったため、半ば映画館で観るのをあきらめていたけど、「観たい」という思い断ち切れず、京都の出町座で観て来たよ。

 

もう既に各メディアとか他の方のブログとかでこの映画の感想が出ているし、私もその感想を見ているから純粋な私の意見にならないかもしれないけど、自分なりの言葉でこの物語の良さを伝えていきたい。

(一応ネタバレはないが、物語の性質みたいなことは書くので注意)

 

「泣ける」は結果であり、本質ではない

念のために先に言っておくが、「泣ける映画」としてこの作品を観に行こうとすると肩透かしを食らう可能性がある

確かにこの物語には「泣ける要素」はあるが、それは結果みたいなものであり個人差がある。私の場合は先に原作を読んでいたから泣くことはなかった。けど胸がいっぱいになり身体が熱くなってくる感覚に陥った。冷え性の私を熱くさせるのだから大したものである。

まぁそれはともかく、この物語を語るキーワードとなるのは「パートナー」「生きづらさ」「コミュニケーション」の3つだと思う。恋愛要素もあるし、登場人物が学生であることを考えれば青春モノでもあるが、この物語を「恋愛」「青春」というジャンルに入れてしまうのはちょっと、というか大分違うし、そういう触れ込みをしてしまうのはこの作品に触れる人を減らすことになる。これは非常に勿体ないので、ここでは恋愛・青春要素で話は進めない。

 

これは「おとぎ話」である

映画を観る前、宇多丸さんがラジオで言った映画評の書き起こし記事を見た。

その際、ラジオリスナーからこの映画の否定的な意見として「わざとらしいセリフ回しや思わせぶりな長回しが鼻につく」「登場人物たちにリアリティがなく、全く映画の中に入っていけなかった」などが出たそうである。

www.tbsradio.jp

原作を読んだ時はそう思わなかったが、言われてみるとこの作品って結構寓話的ではないだろうか。時代は現代で登場人物も学生だけど、時代設定や役職をいじったら普通にグリム童話辺りの物語として再構成出来そうな感じ。

例えば劇中で登場する「きゃぴ子・地味子」のコンビなんか、

「むかしむかし、あるところに国民全てから愛されることを願う美しいお姫様と彼女に仕えるみすぼらしい公爵夫人がおりました…」

なーんて具合に再構成出来そうだし。

実際はおとぎ話程明確な起承転結があるわけではないからそんなにうまくはいかないだろうけど、多分にキャラ設定が戯画的であるからおとぎ話のような「地に足が着いていない」感は否めない。(それにあんな美女や美青年が現実に学校にいるわけないもん…!)

 

まぁね、確かに「常に死にたがりの女の子」とか「同じ人にずっと一方的に告白している子」なんて周りにいない。劇中で起こった「ある事件」もそうそう私たちの身にふりかかることではない。「好き」も「死にたい」も感情の一部ではあるけれども、感情の大半を埋めている訳ではないし、大抵は日常の雑事によって心の片隅に押しやられてしまう。だからこの作品にリアリティがないという意見は大いに当たっている。

…でもだからといって、この作品を自分達とは関係のない「おとぎ話」として観るのは私が許さない。

 

「うまく生きられない」人々の不器用な優しさ

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この話に登場するのは、第一印象からまず間違いなく「めんどくさい人」或いは「人間関係を築くうえで避けたい人」だと思われるような人々ばかり。しかしこれは一面であり彼(彼女)たちの全てではない。これは原作や映画を見た人ならわかるが、彼(彼女)らはこの現実に生きづらさを感じていたり、うまく生きる選択が出来ない、或いはその選択をしなくなった事情を抱えているのだ。

生きづらい、という感情は誰もが持っているであろう。そして大抵は妥協したり折り合いをつけ、周りと同調して何とか対処する。基本的に大人になると否が応でもそうしないとやっていけない状況になるけど、学生の頃はこういう「生きづらさ」で悩む人が多かったのではないだろうか。(私は今でも生きづらくて結構悩んでいるのだけどね…)

そういった不器用な生き方をする人同士のコミュニケーションこそ、この物語の本質であり魅力なのだ。

 

勿論不器用なので、その言葉は「死ね」「殺す」といった乱暴なものになったり、「好き」という余りにも直接的で重みのない言葉になってしまったりする。それでも彼(彼女)たちは傷付けないよう彼(彼女)なりの言動でもって接している。乱暴だったり直接的ではあるが、「生理的な拒絶からくる『死ね』」「他者との比較による『好き』」ではないのだ。

不器用な者同士のコミュニケーションというと、傷の舐め合いみたいなイメージがあるが、この作品にはそういうものはない。かといって互いに高めあっていくようなものもない。あるのは「ここに一緒にいても何を言っても良いという安心感みたいなものであり、そこに本作のあたたかさと胸をいっぱいにさせる感動があるのではないだろうか?

(本作が自然光で撮影されたのも、物語におけるあたたかさをビジュアル面でも表現したかったからなのだろうか…?)

 

物語の表層だけを見ると粗雑な言葉の行き交いやメンヘラ的キャラ設定とかが目立って特定の若い人向けの物語みたいな感じだと思うかもしれないが、これはそんな特定層に向けた話ではないと思うし、物語の主軸は至って健全である。

特に終盤で出て来る「未来の話をしよう」という言葉。この言葉が発せられた時は「変えられない過去」の呪縛に苦しむ者たちが、「変えられる未来」に希望を見出した瞬間だと思ったし、そう思える人がそばにいるなんて実に素晴らしいではないか。

しかも健全でありながら押しつけがましくない「未来の話をしよう」という言葉が「死ね」「殺すぞ」といった乱暴な言葉の荒波の先にあるのが、もう、何というか尊い

 

映画の構成、その他諸々

原作は「きゃぴ子・地味子」「八千代・君が代(映画では撫子)」「小坂・鹿野」のエピソードそれぞれが単独の物語として成立しているが、映画では一つの物語として原作の3つのエピソードにつながりがあるよう改変されている。とはいえこれはオマケみたいなもので、それによって物語性がグッと上がったみたいなことはないのでそれだけは言っておく。

 

さて、ここからは私情多めの感想でお送りする。

 

・間宮さん出演シーン、冒頭の一幕で「うわ…何そんな…シャツのボタンそんなにあけて…色っぺぇよ…!」といった邪念混じりの視点で映画を観ていました…ww。あ、勿論途中からちゃんと軌道修正しましたよ。

 

・それにしても他の映画・ドラマで散々人を殺してきた間宮さんが「殺さない彼」小坂を演じるというのは、キャストを起用した方がそういうメタ的な面白さを狙っていたのか、それとも普通にこの役ならこの人しかいない、という感じで選んだのか。

 

・3つのエピソードのうち、原作を読んだ時以上に感動がきたのは意外にも「八千代・撫子」のエピソード。原作通りの台詞まわしにもかかわらず、箭内さん演じる撫子を見ていると昭和の女優さんみたいな感じで個人的に刺さるものがあった(昭和の映画における女性の「~かしら」「~ですわ」という妙な語尾の丁寧さが好きなのだ)。

あとこの物語の中で何気に一番難しい役どころがゆうたろうさん演じる八千代ではないだろうか。何故なら「受け入れてもダメ、かといって拒絶するのもダメ」な立ち位置だし、原作の漫画以上に距離・空気感が明確に映像として表現されるわけなのだから。そういう観点から見るとニュートラルな空気を醸し出した彼の演技は大正解であり、それが終盤の感動につながったと思っている。

 

・私自身高校時代友達ゼロで3年間を過ごしたという暗黒の時期があったので、こういった物語はブスブス刺さるのだよ。そして劇中でかけがえのないパートナーと出会えた彼(彼女)たちを見て「何だか酷く羨ましくなつてしまつた」のである。(『魍魎の匣』っぽく言ってみました)

 

・そういや、物語の主要な登場人物の中で唯一「その思考に至るバックボーン」が曖昧なのが鹿野なんだよな。家庭事情が描かれないから「死にたい」という気持ちが家庭的な問題からくるのか、他の何かが原因なのかわからなかった。でもそれで良いと思う。というのもここで「死にたい理由」が付いてしまうと観る人によっては「え、そんなことで死にたいと思ってるの?」と幻滅してしまう可能性があり、物語にブレが生じてしまう。そうならないために敢えて「死にたくなる背景」を描かなかったのではないだろうか。

 

・各エピソードにおけるパートナーは「傍から見てもわかる変人」と「(一応)常識の範疇にいる人」という組み合わせになっている。この組み合わせ、何かで読んだ気がすると思っていたが、そうだ、この組み合わせはあたしンち」の石田と須藤のコンビじゃないか。確か石田が初登場した時ってかなりの変人キャラとして描かれていたような気がする(食べる前にニオイを嗅ぐクセとか、ハンカチじゃなくカーテンで手を拭く所とか)。「あたしンち」はこの映画ほどメンヘラ要素は強くないけど、異質な者に対する寄り添い方にあたたかみがあって好きなんだな。普通に話としても面白いし。

あたしンち(4)

(石田が初登場する話は原作の単行本4巻に所収)

 

さいごに

宇多丸さんの映画評でも言及されているが、やはりこの話の根幹にはコミュニケーションの難しさが内在している。同じ言葉でも人によって受け止め方は違うし、良かれと思って言った言葉で人を傷つけることもあれば、何気なく発した一言で誰かを救うこともある。絶対にうまくいくコミュニケーションなど存在しないが、それでも私たちは言葉を紡ぎ表現しなければならない。難しくうまくいかないからこそ、優しくありたいという姿勢SNS隆盛の今、言葉尻をとらえ揚げ足をとり、批判・非難が安易にされる時代だからこそ尊ばれるべき姿勢を描いたこの作品を私は忘れない。

2019年読了書籍ベスト10

今年も残すところあと一週間。去年は出来なかったけど、今年は読んだ本のベスト10を紹介してみようと思う。

今年読んだ書籍(マンガ・歴史書・事典を除く)全48冊(少な…)から選んだベスト10はこちら。

 

1位:青柳碧人『むかしむかしあるところに、死体がありました。』

2位:今村昌弘『魔眼の匣の殺人』

3位:法月綸太郎法月綸太郎の冒険』

4位:青崎有吾『ノッキンオン・ロックドドア 』

5位:阿津川辰海『紅蓮館の殺人』

6位:小林泰三『アリス殺し』

7位:アンソニーホロヴィッツカササギ殺人事件〈上/下〉』

8位:似鳥鶏『レジまでの推理 本屋さんの名探偵』

9位:中西智明『消失!』

10位:三津田信三『黒面の狐』

 

以下、選評(或いは雑感)。

 

10位:三津田信三『黒面の狐』

黒面の狐 (文春文庫)

6月読了。今年読んだ三津田氏の作品からはこちらをチョイス。怪談と民俗学的な色合いが強い刀城言耶シリーズの作風とは若干趣が異なる新シリーズ。閉鎖的な炭鉱社会を舞台とした注連縄連続殺人事件は、社会情勢ネタも相まって歴史ミステリ寄りの風格がある。作中で使用された密室殺人のトリックは海外の某密室ミステリを彷彿させるものがあったため面白く読めた。が、謎解きの部分でちょっと引っ掛かる所があったのでベスト5まではいかなかった。

 

9位:中西智明『消失!』

消失! (講談社文庫)

3月読了。以前当ブログでも紹介したが、これは発想の勝利とでも言うべき傑作。死体の消失とミッシング・リンクという二つのテーマを扱った作品であり、今年読んだ中で最も奇想天外・予想外な真相。トリックは申し分ないが、反対に物語的な面白さ(登場人物や物語の奥深さ)は薄いため9位にした。

 

8位:似鳥鶏『レジまでの推理 本屋さんの名探偵』

レジまでの推理~本屋さんの名探偵~ (光文社文庫)

9月読了。似鳥氏の作品はこれが初めて。脚注やあとがきがふざけている印象が強いものの、トリックや謎解きは堅実かつ面白みがあって良かった。書店を舞台にしており、電子書籍でなく紙の本を、そしてネット注文ではなく書店をこれからも応援したくなる一冊。本作を読了後、今まで気にしなかった開店直後の書店の品出しの様子を見てしまうようになった気がする。

 

7位:アンソニーホロヴィッツカササギ殺人事件〈上/下〉』

カササギ殺人事件〈上〉 (創元推理文庫)

カササギ殺人事件〈下〉 (創元推理文庫)

2月読了。今年は特に海外ミステリがあまり読めなかったが、本作はアガサ・クリスティをリスペクトした作品であり、ミステリランキングのトップをとったと聞いたので、「じゃあクリスティ好きとして読まない訳にはいかないだろう」と思い着手した。読了してから日が経っているものの、読書中はずっと心の中で「あるある」を連発していたことは覚えている。「事故か殺人か不明な死」とか「探偵に依頼する女性の下り」とか例を挙げればきりがない。作中作と現実世界の二つのフーダニットをやり遂げたのも凄いし、「見かけ通りではない真相」というのもクリスティ的で好感が持てた。

 

6位:小林泰三『アリス殺し』

アリス殺し (創元推理文庫)

5月読了。単行本を買って積読にしていたらまさかの文庫版が発売され、結局文庫版の方を読んでしまったという、自分の中で過去前例のない行為をとってしまったという点でも記憶に残る一冊。ディズニーのアニメと映画「アリス・イン・ワンダーランド」の知識しかないけど、十分面白かったよ。割とグロい展開もあるけど、不思議の国独特の「話の進まない会話」「うまく噛み合わない会話」がうまい具合にまろやかにしてくれている。あと他の方の感想サイトでも見かけた「異色のダイイングメッセージ」は本当に秀逸だった。

 

5位:阿津川辰海『紅蓮館の殺人』

紅蓮館の殺人 (講談社タイガ)

12月読了。探偵小説研究会編著『本格ミステリ・ベスト10』2020年版で国内第三位になった作品。発売前から面白そうだと思っていたが、読んだのはランキングが出てから。確かにこれは名作と呼べるクオリティで、館に仕掛けられた吊り天井による殺人から、終盤における怒涛の「暴き立て」探偵対元探偵という構図、探偵という業を背負った者の宿命など、色々盛った美味しい(けど後味は良くない)ミステリになっている。トップ3までいかなかったのは、本作に登場する探偵役・葛城と助手・田所のキャラ設定が影響している。元探偵との対決構図がありながら、結局は未熟さと己のエゴに潰されている所があるのがちょっと個人的に好きじゃなかったので。

 

4位:青崎有吾『ノッキンオン・ロックドドア 』

ノッキンオン・ロックドドア (徳間文庫)

5月読了。「分業制探偵」というありそうでなかった設定と、気の利いたロジック・トリックがあり、読みやすさも申し分なし。キャラ重視もトリック重視も満足させる短編集になっている。以前当ブログでも言及したが、今一番私がドラマ化を望んでいるミステリ小説。金のかかるセットやトリックを使わないから絶対イケると思うのだけどね。作品を応援する意味も込めて続編は文庫ではなく単行本を買って読もうかしら。

 

3位:法月綸太郎法月綸太郎の冒険』

法月綸太郎の冒険 (講談社文庫)

9月読了。本作所収の「死刑囚パズル」がヤバいと噂に聞いていたが読めずに悶々としていた折りの復刊、非常に感謝。読んでみたら「何故これが今まで絶版状態だったのか」と疑問に思えるほど。前半部は重い事件、後半部は書籍絡みの軽めの事件と短編集としてのバランスも良かった。来年以降は『新冒険』『功績』も復刊してもらいたいものだ。

 

2位:今村昌弘『魔眼の匣の殺人』

魔眼の匣の殺人

4月読了、12月再読。『屍人荘の殺人』の続編ということで色々ハードルはあがっていたが、前作と遜色のない作品となっている。前作は暗黙のうちに被害者が誰になるのかわかる節があったが、本作では「絶対に外れない予言」によって、誰もが被害者になるかもしれないという緊張感が漂っていたのがポイント。事件自体はかなり地味なのだが、「予言」という特殊設定ならではの謎解きロジックと伏線が素晴らしく、その点は前作を凌いだのではないかと思っている。

 

1位:青柳碧人『むかしむかしあるところに、死体がありました。』

むかしむかしあるところに、死体がありました。

5月読了。本作を1位にしたのは心の奥底で「寓話の世界で本格ミステリをやる小説」を私が望んでいたからに違いない。勿論、おとぎ話だからトリックも何でもあり…な~んてことにはなっておらず、しっかり伏線を張り、存在しない道具・モノには「法則」が設けられているので、読者も謎解きが出来るようになっている。(これを読んで本格ミステリにハマるかどうかはともかく)みんなが知っている物語をミステリに仕立て、本格ミステリの間口を広げたという点で今年のベストをこれにした。

 

来年の読書目標

まず今年あまり読めなかった海外ミステリの消化。特に『白い僧院の殺人』『Xの悲劇』の新訳版と『世界推理短編傑作集』の新版の積読を早めに消化しておければ…と思っている。

あとは同じく積読状態の横溝正史ミステリ短篇コレクション』の消化。途中でほったらかしてまだ第一巻も消化出来ていないので…。

そして来年こそはクリスマス時期に『クリスマスに少女は還る』を読むぞ。

ゲゲゲの鬼太郎(6期)第86話「鮮血のクリスマス」視聴

「抜魂のクリスマス」じゃないかと思ったけど、抜いていたの生気だしな…。

 

夜叉

予告で鬼太郎ファンなら察しがついていたと思うが、今回人間に憑依してサンタクロースの振りをしながら子供の生気を奪っていたのは夜叉。

原作ではギターの音色で相手を夢遊病者のような状態にしてから魂を抜き取る妖怪だったが、今回ギター要素をカットしたのは今年5月に放送された吸血鬼エリートとネタが被ることを防ぐためでもあったのだろう。そのため、子供をおびき出す道具がギターからサンタクロースの扮装になったというのは良いアレンジだと思う一方、今までの夜叉と比べるとギターを使わない分、妖怪としての能力はさほどでもないなと感じた。

 

アニメでは1・3・4・5期だけではなく墓場鬼太郎にも登場。墓場鬼太郎では血を吸う妖怪となっており、獲物となる人間をおびき寄せるため格安の下宿屋を経営していたが、そこを訪れたルーマニア吸血鬼ドラキュラ四世と獲物を巡って対決するというまさかの展開になる。(サブタイトルの「鮮血」はもしかすると墓場の影響があるのかも)

1期は原作通りだが、3期と5期は人間の心の隙を狙う狡猾な性格が追加されている。3期ではスランプに陥ったギタリストに、5期では同じくスランプに陥ったバイオリニストに取り憑いた。ただ狡猾とはいっても3期よりも5期の方が替え玉を使ったり、人間を盾にして鬼太郎に攻撃させないようにしたりと手口がいやらしい。

で、個人的に一番オススメなのが4期の夜叉回。最初から最後まで夜叉が不気味で怖い目玉おやじの茶碗ぶろとか最後のオチは割とほっこりしているけど、基本的にホラーだよ。人間態の夜叉のビジュアルと不気味なギターの調べだけでなく、魂を抜かれ白目で倒れる子供の残像が映る演出にギョッとなり、夜叉の断末魔の叫びに「うわぁ…」となる。決して「悪い妖怪を撃退!スッキリ!」とはならない、ど~んよりとした後味の悪さが残る。でもそれが良い。

 

ちなみに、原作では魂を抜く髪の毛タイプの夜叉だけでなく、頭が大きく牙のある獣のような顔をした吸血タイプの夜叉(「血戦小笠原」に登場)や、妖怪の天敵であるヒ一族を駆使して日本妖怪の全滅を目論んだ女夜叉(「妖怪危機一髪」に登場)が出て来る。今後アニメで出て来るかもしれないのでここでは割愛。

 

「フリーホラーゲーム」的な夜叉回

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©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション

今期の夜叉回を一言で表現するなら「フリーホラーゲーム」と言った感じ。去年のカミーラのハロウィン回は「クロックタワー」とか「バイオハザード」系のゲームを彷彿とさせたのだけど、今回はまな“だけ”が逃走者となったことで、戦う手段を持たない逃走者が知恵を絞って追跡者から逃れるという、フリーホラーゲームにありがちな物語になっている。ホラーの対象となる追跡者がサンタクロースというのも「いかにも」って感じだし、生気目当てで子供を狙うという動機も、追跡者そのものに物語としての奥行きや深みがなくフリーホラーゲームっぽい。

(でも最近のフリーホラーゲームは結構物語性もあるし、追跡者の背景に焦点をあてたものもあったりと充実性は高いんだよな…)

 

散々「フリーホラーゲームっぽい」と言ったが、実を言うと今回の話はPS版ゲーム「ゲゲゲの鬼太郎に収録されていても違和感ないなと思っている。

www.jp.playstation.com

実況プレイ動画でトラウマゲームとして紹介されているが、鬼太郎ではなく非力な人間を操作して情報収集をしたり、追ってくる妖怪から逃げたり、妖怪に操られた人間を部屋に閉じ込めたりと、今回の話と似たようなギミックがあるのでより既視感があった。

 

流石に今回の話をそのままゲーム化すると全然怖くないけど、まなが逃げていた住宅街を夕暮れ時にするだけでもグッと怖くなりそう。夕暮れを背景にして追っかけて来るサンタクロース、良いじゃないか。

 

 

さて、年内の放送はこれが最後。次回は来年1月5日スタート。登場するのは貧乏神座敷童子。3期でも貧乏神と座敷童子が出て来た回はあったが、今回は老夫婦ではなくまなの友人が主軸になるみたいなので、原作のように「心温まる物語」って感じにはならないんだろうな~ww。

五百子に手毬唄検索機能が搭載された、加藤シゲアキ版「悪魔の手毬唄」(ネタバレあり)

金田一耕助ファイル12 悪魔の手毬唄 (角川文庫)

前作「犬神家の一族」から一年、正直前作の出来がイマイチだったので「今回もイマイチだったら感想を書くのやめようかな~」と思っていたが、なかなか良かったので書くことにした。

 

(以下、ドラマと原作のネタバレあり)

 

加藤シゲアキ金田一(通称「シゲ金」)について

前作はシゲ金初登場ということもあってか、金田一那須ホテルの内情を推理させる描写があったり、周りが矢鱈と金田一を「名探偵」扱いしていたので、コレジャナイ感が凄かったのだけど、今回は最初の検視の下りで、探偵としての役割は務められる(少なくとも「迷」探偵ではない)ことを明示させる程度にとどまっていたから、前作における違和感はあまりなかった。

だからといって原作やこれまでの金田一に近づいたかと言うとそうでもなく、終始感情が均一に保たれているというか、真相を知ってもショックを受けて気分が落ち込んだりすることがないので、私はこのシゲ金、人の心が足りないのではと疑っている

 

輪をかけてクズになる関係者たち

原作は犯人の動機が複合的だからか、各登場人物の内面描写とかキャラ設定もかなり凝ったものになっているが、2時間ドラマでそれを全て描くのは無理。そのためキャラ設定が変えられるのは当然だし、金田一シリーズ映像化の白眉とも言って良い市川崑監督の「悪魔の手毬唄」にしても原作よりも単純化されたワルが出て来る。

で、今回はというと輪をかけてクズ度がマシマシになっている。原作で人格者としての一面もあった仁礼嘉平は差別感情激しく権威を笠にきるようなキャラになっていたし、多々羅放庵もクズ度合いが酷いことになっていた。原作の放庵はあんなにクズじゃないからね!!

敦子・咲枝・春江の三人も原作だとキャラがはっきり分かれているのだけれど、尺の都合か、今回は犬神三姉妹の様な立ち位置になった。当初由良敦子を斉藤由貴さんが演じると聞いた時は「原作で『八幡さん』と呼ばれている気位の高いおばさんを斉藤さんが演じるのは合わない」と思っていたが、犬神三姉妹的キャラ設定だと考えると納得の起用だ。

国生さゆりさんが演じた別所春江にしても原作だと「人殺しの娘と呼ばれた子をスターに成長させた立派な親」という印象があったのに対し、今回のドラマでは「子の成長で高飛車に拍車がかかったダメ親」という味付けになっている。

 

そんなクズキャラ度マシマシのなか、思わず笑ってしまったのは由良五百子刀自の下り。

まさか単語を聞くと歌が再生される最近のスマホアプリみたいな展開が来るとは思わなかったからね…ww。

 

物語構成改変の妙

今回一番関心したのが構成の改変。ドラマでは事件の展開や情報の出し方が原作と違っており、これによって2時間ドラマとしてまとめながら原作要素を拾えているのが地味に凄い。

 

【原作】

「20年前の未解決事件と村の内情」→「金田一、鬼首村へ向かう」→「金田一、おりんと出会う」→「おりんが死亡していたことが発覚」→「放庵の失踪」→「泰子殺し」

 

【ドラマ】

金田一、鬼首村へ向かう」→「金田一、おりんと出会う」→「泰子殺し」→「放庵の失踪」→「おりんが死亡していたことが発覚」

(この流れの要所要所で「20年前の未解決事件と村の内情」の説明がなされる)

 

単に順番を変えたと言われればそれまでだし、原作の「放庵の失踪」におけるサンショウウオ百目蝋燭いなりずしといった手がかりがカットされたことで、放庵が犯人のスケープゴートとして利用されただけの存在になってしまったというマイナスポイントもある。

しかし、この情報の出し方が変わることによって、推理の過程が変わっているのが見逃せない。おりんの死亡発覚が後の方になったことで「おりんと放庵の共謀説」が浮上したり、金田一の前に現れたおりんに該当する人物は誰なのかといった疑問が出ている。

 

また今回のドラマは手毬唄が何番まであるのかわからない状態になっているのも注目ポイント。原作では「三羽の雀」という前置きがあるため、狙われる娘は三人であり、そこから金田一は次に狙われるのは錠前屋だと推測するが、今回は歌の続きがどこまであるのかはっきりしておらず、そのため別所千恵子(大空ゆかり)が立原から疑われ、その結果里子が殺されることになった。この辺り、原作と展開が違うにもかかわらず話としては自然な流れになっていて実によく出来た改変ではないだろうか。

 

手毬唄、四番目の功罪

手毬唄が何番まであるかわからないようにしたことで生まれた、原作にはない歌の四番目

 

女たれがよい 桶屋の娘

器量よしじゃが やきもち娘

橋の上から川面を眺め

色街帰りの旦那を待った 待った

妬みが強いとて 返された 返された

 

オリジナルの四番目が出来たことで「悪魔の手毬唄」というタイトルに相応しい因縁じみた結末になってはいるものの、原作でも言及された手毬唄の法則から逸脱してしまったことは無視出来ない問題。

手毬唄は「三・五・七の何々尽くし」と相場が決まっており、原作の場合だと三人の娘を歌った娘尽くしの「娘うた」と、お庄屋さんを歌った「お庄屋うた」の二種類があることが判明する。一方ドラマでは「お庄屋うた」がカットされ四人の娘になったことで法則から外れることになり、結果何とも居心地の悪いことになってしまった。

どうせ四番目をやるのだったら、お庄屋うたも合わせて五人の村人尽くしという形にした方がまとまりがあったと思うのだけどな~。一番目にお庄屋、二から四番目に三人の娘、五番目に犯人という事件の流れとも合致してより因縁じみた手毬唄になるのに。

 

古谷一行起用で生まれた「粋な演出」

正直視聴前は古谷さんを磯川警部に起用したのは「新旧金田一のコラボ」“だけ”だと思っていたのよ。横溝正史シリーズを見ていた古谷金田一のファンとして、当然嬉しかった。けど、それだけではなかった。

前述したが、加藤シゲアキさんが演じる金田一は人に寄り添う心とか、真相がわかった時のショックがあまりない、比較的淡々としたキャラクターの金田一だ。それに対し、古谷さんがかつて演じていた金田一は情に訴えかける性格が強い金田一だった。古谷さんが金田一耕助として初登場した「犬神家の一族」では、松子夫人に対して「どうしてあなた方家族は人が持つ暖かさから背くのか」といった旨の発言をしている。

そんな情に厚い金田一を演じた古谷さんが磯川警部としてリカに寄り添い、逃亡・自殺を見逃す終盤の展開は、古谷さんだったからこその説得力があると思う。今回のシゲ金が犯人にあまり同情的ではない分、古谷さんが出す「温情」というか「赦し」が心に沁みわたるのだ。

 

さいごに

今回は原作未読の方が原作を読む良い切っ掛けになるドラマ化になっていたことは勿論、ドラマ単体としても気が利いていて続編に期待したいと思える内容になっていた。

来年も古谷さんを起用できるなら「獄門島」が見たいと思うのだが、シゲ金と生瀬さんのコンビを続けるつもりならば「女王蜂」が妥当なのかもしれない。

でも正直シゲ金の魅力を引き出すのならば、田舎の事件よりも都市部の犯罪の方がしっくり来るのでは?と思っており、そういう観点から私は「三つ首塔」「白と黒」の二作を強く推していきたい。

 

あと古谷金田一をあまり知らない方は最低限横溝正史シリーズの「犬神家の一族」と「悪魔の手毬唄」は見て欲しいな、と思う。特に「悪魔の手毬唄」はドラマの中で最も原作に忠実だから見てね。

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