タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

不器用だけどあたたかくて胸がいっぱいになる映画「殺さない彼と死なない彼女」(ネタバレなし感想)

殺さない彼と死なない彼女 (KITORA)

間宮さんが出演すると聞いて読んだ原作なのに、公開から一ヶ月以上経ってから観ることになったのはファンとして不徳の致すところ。上映時間が自分の都合に合わなかったため、半ば映画館で観るのをあきらめていたけど、「観たい」という思い断ち切れず、京都の出町座で観て来たよ。

 

もう既に各メディアとか他の方のブログとかでこの映画の感想が出ているし、私もその感想を見ているから純粋な私の意見にならないかもしれないけど、自分なりの言葉でこの物語の良さを伝えていきたい。

(一応ネタバレはないが、物語の性質みたいなことは書くので注意)

 

「泣ける」は結果であり、本質ではない

念のために先に言っておくが、「泣ける映画」としてこの作品を観に行こうとすると肩透かしを食らう可能性がある

確かにこの物語には「泣ける要素」はあるが、それは結果みたいなものであり個人差がある。私の場合は先に原作を読んでいたから泣くことはなかった。けど胸がいっぱいになり身体が熱くなってくる感覚に陥った。冷え性の私を熱くさせるのだから大したものである。

まぁそれはともかく、この物語を語るキーワードとなるのは「パートナー」「生きづらさ」「コミュニケーション」の3つだと思う。恋愛要素もあるし、登場人物が学生であることを考えれば青春モノでもあるが、この物語を「恋愛」「青春」というジャンルに入れてしまうのはちょっと、というか大分違うし、そういう触れ込みをしてしまうのはこの作品に触れる人を減らすことになる。これは非常に勿体ないので、ここでは恋愛・青春要素で話は進めない。

 

これは「おとぎ話」である

映画を観る前、宇多丸さんがラジオで言った映画評の書き起こし記事を見た。

その際、ラジオリスナーからこの映画の否定的な意見として「わざとらしいセリフ回しや思わせぶりな長回しが鼻につく」「登場人物たちにリアリティがなく、全く映画の中に入っていけなかった」などが出たそうである。

www.tbsradio.jp

原作を読んだ時はそう思わなかったが、言われてみるとこの作品って結構寓話的ではないだろうか。時代は現代で登場人物も学生だけど、時代設定や役職をいじったら普通にグリム童話辺りの物語として再構成出来そうな感じ。

例えば劇中で登場する「きゃぴ子・地味子」のコンビなんか、

「むかしむかし、あるところに国民全てから愛されることを願う美しいお姫様と彼女に仕えるみすぼらしい公爵夫人がおりました…」

なーんて具合に再構成出来そうだし。

実際はおとぎ話程明確な起承転結があるわけではないからそんなにうまくはいかないだろうけど、多分にキャラ設定が戯画的であるからおとぎ話のような「地に足が着いていない」感は否めない。(それにあんな美女や美青年が現実に学校にいるわけないもん…!)

 

まぁね、確かに「常に死にたがりの女の子」とか「同じ人にずっと一方的に告白している子」なんて周りにいない。劇中で起こった「ある事件」もそうそう私たちの身にふりかかることではない。「好き」も「死にたい」も感情の一部ではあるけれども、感情の大半を埋めている訳ではないし、大抵は日常の雑事によって心の片隅に押しやられてしまう。だからこの作品にリアリティがないという意見は大いに当たっている。

…でもだからといって、この作品を自分達とは関係のない「おとぎ話」として観るのは私が許さない。

 

「うまく生きられない」人々の不器用な優しさ

画像

この話に登場するのは、第一印象からまず間違いなく「めんどくさい人」或いは「人間関係を築くうえで避けたい人」だと思われるような人々ばかり。しかしこれは一面であり彼(彼女)たちの全てではない。これは原作や映画を見た人ならわかるが、彼(彼女)らはこの現実に生きづらさを感じていたり、うまく生きる選択が出来ない、或いはその選択をしなくなった事情を抱えているのだ。

生きづらい、という感情は誰もが持っているであろう。そして大抵は妥協したり折り合いをつけ、周りと同調して何とか対処する。基本的に大人になると否が応でもそうしないとやっていけない状況になるけど、学生の頃はこういう「生きづらさ」で悩む人が多かったのではないだろうか。(私は今でも生きづらくて結構悩んでいるのだけどね…)

そういった不器用な生き方をする人同士のコミュニケーションこそ、この物語の本質であり魅力なのだ。

 

勿論不器用なので、その言葉は「死ね」「殺す」といった乱暴なものになったり、「好き」という余りにも直接的で重みのない言葉になってしまったりする。それでも彼(彼女)たちは傷付けないよう彼(彼女)なりの言動でもって接している。乱暴だったり直接的ではあるが、「生理的な拒絶からくる『死ね』」「他者との比較による『好き』」ではないのだ。

不器用な者同士のコミュニケーションというと、傷の舐め合いみたいなイメージがあるが、この作品にはそういうものはない。かといって互いに高めあっていくようなものもない。あるのは「ここに一緒にいても何を言っても良いという安心感みたいなものであり、そこに本作のあたたかさと胸をいっぱいにさせる感動があるのではないだろうか?

(本作が自然光で撮影されたのも、物語におけるあたたかさをビジュアル面でも表現したかったからなのだろうか…?)

 

物語の表層だけを見ると粗雑な言葉の行き交いやメンヘラ的キャラ設定とかが目立って特定の若い人向けの物語みたいな感じだと思うかもしれないが、これはそんな特定層に向けた話ではないと思うし、物語の主軸は至って健全である。

特に終盤で出て来る「未来の話をしよう」という言葉。この言葉が発せられた時は「変えられない過去」の呪縛に苦しむ者たちが、「変えられる未来」に希望を見出した瞬間だと思ったし、そう思える人がそばにいるなんて実に素晴らしいではないか。

しかも健全でありながら押しつけがましくない「未来の話をしよう」という言葉が「死ね」「殺すぞ」といった乱暴な言葉の荒波の先にあるのが、もう、何というか尊い

 

映画の構成、その他諸々

原作は「きゃぴ子・地味子」「八千代・君が代(映画では撫子)」「小坂・鹿野」のエピソードそれぞれが単独の物語として成立しているが、映画では一つの物語として原作の3つのエピソードにつながりがあるよう改変されている。とはいえこれはオマケみたいなもので、それによって物語性がグッと上がったみたいなことはないのでそれだけは言っておく。

 

さて、ここからは私情多めの感想でお送りする。

 

・間宮さん出演シーン、冒頭の一幕で「うわ…何そんな…シャツのボタンそんなにあけて…色っぺぇよ…!」といった邪念混じりの視点で映画を観ていました…ww。あ、勿論途中からちゃんと軌道修正しましたよ。

 

・それにしても他の映画・ドラマで散々人を殺してきた間宮さんが「殺さない彼」小坂を演じるというのは、キャストを起用した方がそういうメタ的な面白さを狙っていたのか、それとも普通にこの役ならこの人しかいない、という感じで選んだのか。

 

・3つのエピソードのうち、原作を読んだ時以上に感動がきたのは意外にも「八千代・撫子」のエピソード。原作通りの台詞まわしにもかかわらず、箭内さん演じる撫子を見ていると昭和の女優さんみたいな感じで個人的に刺さるものがあった(昭和の映画における女性の「~かしら」「~ですわ」という妙な語尾の丁寧さが好きなのだ)。

あとこの物語の中で何気に一番難しい役どころがゆうたろうさん演じる八千代ではないだろうか。何故なら「受け入れてもダメ、かといって拒絶するのもダメ」な立ち位置だし、原作の漫画以上に距離・空気感が明確に映像として表現されるわけなのだから。そういう観点から見るとニュートラルな空気を醸し出した彼の演技は大正解であり、それが終盤の感動につながったと思っている。

 

・私自身高校時代友達ゼロで3年間を過ごしたという暗黒の時期があったので、こういった物語はブスブス刺さるのだよ。そして劇中でかけがえのないパートナーと出会えた彼(彼女)たちを見て「何だか酷く羨ましくなつてしまつた」のである。(『魍魎の匣』っぽく言ってみました)

 

・そういや、物語の主要な登場人物の中で唯一「その思考に至るバックボーン」が曖昧なのが鹿野なんだよな。家庭事情が描かれないから「死にたい」という気持ちが家庭的な問題からくるのか、他の何かが原因なのかわからなかった。でもそれで良いと思う。というのもここで「死にたい理由」が付いてしまうと観る人によっては「え、そんなことで死にたいと思ってるの?」と幻滅してしまう可能性があり、物語にブレが生じてしまう。そうならないために敢えて「死にたくなる背景」を描かなかったのではないだろうか。

 

・各エピソードにおけるパートナーは「傍から見てもわかる変人」と「(一応)常識の範疇にいる人」という組み合わせになっている。この組み合わせ、何かで読んだ気がすると思っていたが、そうだ、この組み合わせはあたしンち」の石田と須藤のコンビじゃないか。確か石田が初登場した時ってかなりの変人キャラとして描かれていたような気がする(食べる前にニオイを嗅ぐクセとか、ハンカチじゃなくカーテンで手を拭く所とか)。「あたしンち」はこの映画ほどメンヘラ要素は強くないけど、異質な者に対する寄り添い方にあたたかみがあって好きなんだな。普通に話としても面白いし。

あたしンち(4)

(石田が初登場する話は原作の単行本4巻に所収)

 

さいごに

宇多丸さんの映画評でも言及されているが、やはりこの話の根幹にはコミュニケーションの難しさが内在している。同じ言葉でも人によって受け止め方は違うし、良かれと思って言った言葉で人を傷つけることもあれば、何気なく発した一言で誰かを救うこともある。絶対にうまくいくコミュニケーションなど存在しないが、それでも私たちは言葉を紡ぎ表現しなければならない。難しくうまくいかないからこそ、優しくありたいという姿勢SNS隆盛の今、言葉尻をとらえ揚げ足をとり、批判・非難が安易にされる時代だからこそ尊ばれるべき姿勢を描いたこの作品を私は忘れない。