どうもタリホーです。今日は映画「クレヨンしんちゃん オラたちの恐竜日記」をレビューします。
実は今日は別の予定があって本当はその話を書こうと思ってたんですよ。その予定というのがひらかたパークで開催されている「ゲゲゲの妖怪100物語」というイベントなのだが、恥ずかしながら今日(木曜日)が休園日だと知らずに行って、ひらかたパークの前に来てようやくその事実に気づいてショックで落ち込みました…。
まぁ私のリサーチ不足が全ての原因なので誰を責める訳にもいかないのだけど、ここまで来て何もせずに帰るのは電車賃・時間の無駄になるということで、はてさてどうしようと考え、急遽近くの映画館を調べて樟葉駅のショッピングモールにあるTOHOシネマズで映画鑑賞をすることに。ちょうど着いた時間帯で見られるのは「インサイドヘッド2」とかエイリアン、あとはアンパンマンとかミニオンズとかいずれも見たことがない作品だったり子供向け過ぎる作品だったりと決め手に欠ける中で、唯一これなら見ても良いかなと思ったのが本作のクレヨンしんちゃんの映画だった。
本作の映画は先月の始めごろに公開されたもので、しんちゃんと恐竜の子供・ナナのひと夏の友情と冒険を描いた物語という、どこかドラえもんの某映画を想起させるような感じのストーリーだ。見る予定が全くなかったので、実は既に映画の結末を YouTube のレビュー動画で見ており、そんなネタバレ状態で鑑賞したという前提をふまえてここからレビューしてみようと思う。
(以下、映画本編のネタバレあり)
驚くほどつまらない「ダジャレ恐竜」
本作は様々なレビューで酷評・不評の意見が出ているが、私がまずクレしん映画として本作に物申したいのは、コメディが非常につまらないしダダ滑りしている点だ。
と~くに酷かったのがこちらの動画(↑)の恐竜ロボットたちによる「LOVEマシーン」の下りだ。この動画だけを見ると何が問題なのかわからないかもしれないが、この場面はしんちゃんたちカスカベ防衛隊がナナを助けるために渋谷に向かった時の一幕。この時しんちゃんたちは敵が送り込んだ恐竜ロボットに追いかけ回されて命からがら近くの劇場に逃げ込み、そこで何故か恐竜ロボットたちがこのように踊っているという、そういうシーンなのだ。
唖然ですよ。
恐竜ロボットに襲われるシリアスなシーンで突如ぶちこまれる意味不明なギャグ。選曲も何故かひと昔前のモーニング娘だし、カスカベ防衛隊もナナを助けるという使命があるはずなのに、ここでロボットと共に盛り上がっているし、面白いというよりただただ困惑させられる、本当に何がしたかったの?と言いたくなるようなしょうもなさなのだ。いち関西人としてこういうクソしょうもないギャグを見せられると若干のムカつきを覚えるんだよね。
で、クレしん映画だけに限らずこういうギャグの滑った作品の何が嫌かって、真面目な局面でフザケるのが嫌なんだよ。従来の傑作・良作に値するクレしん映画におけるギャグは、外野から見たらフザケた状況でも登場人物は大真面目にやっているというそこが面白さの肝で、例えば「嵐を呼ぶジャングル」ではしんちゃんがサルたちに捕らえられた大人を救出するシーンで、手足が拘束されていて動けない大人たちがしんちゃんがよくやる「おケツ歩き」でサル共を圧倒するのだけど、これって私たち視聴者にはバカバカしいように見えるけど、捕まっている当事者の大人たちは助かりたいから必死で「オラオラオラオラァ~!」って言いながらおケツ歩きをする、そのギャップが本当に面白くて仕方なかったの!
こういう面白さは「ヘンダーランド」の伝説のおいかけっこのシーン然り、「ブタのヒヅメ」におけるトイレを巡る攻防戦とか、「栄光のヤキニクロード」のヒッチハイクの下りとか、過去作を見ていれば必ず見受けられるのだが、本作においては重大な局面で水を差すようにしょうもないギャグを入れるというレベルの低いコメディ描写をしているので、そこがエンタメ作品として子供騙しのクオリティだと感じた。
テーマがまとまってない
プロット面に目を向けると、本作はしんちゃんとナナの友情と絆だけを描いた作品ではなく、色んなテーマが混ざった作品になっている。
本作の敵役で東京に恐竜ロボットを解き放ち大混乱を引き起こした、バブル・オドロキーは、当初は現代に恐竜を復活させ、恐竜のテーマパーク「ディノズアイランド」を開園し日本に恐竜ブームを巻き起こした男だが、その恐竜がロボットだと発覚した途端、世間からバッシングを受け、その怒りからテロリズム的行為に走るというヴィランだ。その背景には私たち消費者の際限ない欲に翻弄され暴走する哀れさ・愚かさがある。初めは誰もが見たことがないものを実現させるという夢の具現化を目標にして、自分の子供たちの夢も応援する良き父だったのに、いつしか自分の目的を達成するために子供を支配する毒親へと変化していた。本作ではそんな親子間の確執も描かれているのが特徴だ。
そして、恐竜を通じて野生との共存も本作のテーマの一つになっている。恐竜のナナは愛くるしい見た目とは裏腹に、身体能力や爪の鋭さは恐竜の凶暴さが遺伝されているため、本編ではしんちゃんをつい傷つけてしまう描写がある。映画後半ではそんなナナの恐竜としての野性が暴走するシーンがあり、そんな野生生物にも人と同じ理性や絆は存在するのか、人間と恐竜の共存共栄は成し得るのか?という点も私の中では気になるポイントだった。
で、結論を述べると、本作はそんな様々なテーマを盛り込んだ割にはうまく一つの作品としてまとまっていない印象を受ける。オドロキー親子の確執にしても、結局親が捕まって娘と息子は自由の身となり、それぞれが好きな仕事をしているという結末を迎えるけど、親子間の溝が埋まった訳でもないし、父親であるバブルは民衆の欲望に翻弄された愚か者ではあったが憎むべきヴィランではなかったので、単に逮捕されて終わりというのは流石にいただけない。もう少し何かしらのフォローがあっても良いと思う。※
野生との共存に関しても、ナナが理性を取り戻した所は良かったのだが、その後でナナが死ぬという形で共存の不可を描いたのはダメだったなと思う。このナナの死に関しては他の方のレビューでも特に問題視されていた場面だけど、「わざわざ死なせる必然性があったか?」というのが論点であり、感動のシーンにするために死なせたという風に解釈している人が多かった。私も実際に見てあの場面は感動的な音楽やしんちゃんたちの涙など、泣かせようとする意図が感じられたのは頷ける。共存が不可能であることを描きたいのであれば、ナナを生み出した研究者のビリー・オドロキーの管理のもと、ナナをどこかの無人島に隔離するという形で終えても良かったし、それを描いておけば「自分のために子供を支配する親・バブル」と「世のために子も同然の恐竜を管理するビリー」という対比が生まれ、自分の親が仕出かした過ちを子(恐竜だけど)に対して行わないという親としての責任がビリーにも生じたはずだし、その方がキャラとして深みがもっと出ていたと思えてならない。
※恐竜ロボットを脱走させた張本人であるアンモナー伊藤が何のお咎めもなく事件後は普通に生活していたのも個人的には不満が残るポイントだ。
扱った題材に対する掘り下げの浅さ
本作は野生生物との共存や親子間の確執など、普遍的なテーマを扱っている割には全体的にテーマの掘り下げが出来ていないのも、作品としての質の低さを感じさせるポイントだ。
私は今回の映画を見ている時に、かつて「天才!志村どうぶつ園」に出演していたチンパンジーのパンくんを思い出した。彼は人間の服を着てブルドッグのジェームズと共に散歩をしたり、箸やスプーンを使って食事をするなど、その人間らしい様子と可愛さから一時期は動物タレントとして人気を博していたが、2012年に女性研修員に突然襲い掛かって大怪我を負わせて以降はテレビの場に出ることはなくなった。動物をタレントとしてテレビに出すこと自体、放送当時も批判が少なからずあったようで、動物に人間の生活様式を模倣させることの倫理上の問題なども指摘されていたという。
こういった野生生物の扱いは犬や猫といったペットを見ているとどうしても鈍感になってしまう部分だけど、恐竜に限らず本来動物というものは野生のものであり、人間社会で今生きている動物たちは人間による徹底した管理としつけによるものだ。ほっておいたら勝手に育つ訳がないし、トイレの場所もしつけないとそこら中糞尿まみれになるし、繁殖もブリーダーといった職業の人が管理をしているおかげで秩序が保たれている。私たち人類が自然を侵略し動物の居場所を奪っている側面もあるのだから、動物の飼育・管理には相応の責任が課されるのだ。「クレヨンしんちゃん」におけるシロは天才犬だからあまりそういったことは意識しないけど、それだけ人間界に入った動物は人間が管理しないと生きていけない。これは原作のクレヨンしんちゃんでもいくつかのエピソードで描かれていたように思う。
だからこそ今回の映画でナナを飼うことになる下りで、ひろしとみさえは毅然とした態度でしんちゃんたちを諭す場面があった方が良かったと思うし、生みの親であるビリーも研究家として彼を育てる責務を全うして欲しかった。私が「死別」という結末に脚本としての安易さを感じるのも以上の理由があるのだ。
あと本作でバブルが暴走した理由は世間から掌返しのバッシングを受けたことが原因だけど、あれって単なる炎上とはまた質が違うと思うんだよね。
彼が実現した(と嘘をついた)「恐竜の復活」は経済的効果のみならず、地球環境の問題にも好影響を及ぼす画期的な技術だ。うまく行けばドードー鳥など過去に絶滅した動物を復活させることが出来るかもしれないし、食糧危機を失くす突破口にもなり得る技術だ。本作ではそれが「ジュラシックパーク」のようなエンターテインメントとしての意味しかないが、本当に恐竜を復活させる技術が開発されたら、日本政府どころか世界が黙っていない偉業になる。それだけ人類や地球環境の存続にもつながる、希望に満ちた技術だからこそ、それがフェイクだとわかった時の失望も大きい。
だから本作における誹謗中傷やバッシングは民衆の愚かさから来るというよりは、それだけの可能性がある技術を開発したという嘘をついてしまったバブルの愚かさ、先の読めなさの方が一企業のトップとして問題アリなのだ。テロリズムに走ったことでより一層彼の幼稚さ・低能さが強調されている。勿論、過去のクレしん映画の悪役も暴挙に至る動機が大概しょうもないので、別に幼稚なヴィランがダメとは言わないけど、従来のクレしん映画のヴィランはそれがコメディ要素とつながっていたのに対し、本作のバブル・オドロキーはただただ幼稚で愚かな悪という描かれ方なので、そこも私が低評価を下すポイントだ。まぁバブルだけでなくディノズアイランドのスタッフでナナを捕まえに来たサン・ヨウ・チュウの三人組も酷かったけど。登場した割には大した活躍もなく一回か二回画面に映って後半から一切現れなかったもの。
さいごに
ということで今年公開されたクレしん映画のレビューは以上の通りだ。
昨年公開された映画も残念な作品だったが、監督が伝えたかったであろうメッセージは悪くないと思うし、そのメッセージが内容に伴っていない、技術的な問題という点で残念な作品だった。一方今年の映画はエンタメ作品としての技術的な問題もさることながら、題材としたテーマ自体も描き方に底の浅さが見えて、個人的には今年の作品の方がクオリティが低いと感じる。特に悪役が全然魅力的でないし、埼玉紅さそり隊や売間久里代、ミッチー&よしりんに四郎といったお馴染みのキャラクターは出ているけど「とりあえず出しときました」って感じの扱いでこれもマイナスポイントだった。
本作は恐竜映画であると同時に人間と動物との共存というテーマも含まれている。一度絶滅した恐竜だからこそ、その生命に対して制作陣はもっと慎重かつ丁寧に向き合って欲しかった。生命は勝手に育たないし、敬意を持って接し管理しなければならない。ましてや、オモチャの様に扱うなど以ての外だ!
そういやアンモナー伊藤が「ダジャレ恐竜」を生み出していたが、(ロボットとはいえ)生命をオモチャの様に扱う人間の愚かさが滲み出ていると思うし、そう考えればダジャレ恐竜が本作で登場する意味もわかるけど、ただこのダジャレ恐竜はあくまでもしょうもないギャグを垂れ流すだけなので、せめて作られた背景がわかる恐竜だったらまだマシだったかもしれない(それでも面白くはならないけどね?)。
さーて、今度こそひらかたパークで「ゲゲゲの妖怪100物語」を堪能しないと、私の夏が終わらないよ…。