タリホーです。

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【最終回】あなたにとっての「良い子」は誰かにとっての「悪い子」【良いこと悪いこと #10】

考察系ミステリドラマ「良いこと悪いこと」、最終回の感想です。小学生の時に起こったいじめを発端とする連続殺人事件の犯人と、この物語が向かった結末をしかと見届けたので早速レビューしていくこととしよう。

 

(以下、ドラマの内容及び犯人の正体についてネタバレあり)

 

三人寄れば…

キングを除く元6年1組のいじめグループの5人と担任の大谷先生を殺害したことで宇都見が逮捕され事件は一件落着したと思われたが、それからしばらくして週刊アポロから一連の事件に関する記事の載った雑誌が発売され、そこには事件の動機となったいじめの主犯格であるキングの実名こそ載っていないものの身元を特定される情報が記されており、それによってキングの経営する塗装会社は受注をキャンセルされたり、娘の花音が「いじめっ子の娘」として学校でいじめの対象になってしまう。この事態を見た園子は記事を執筆した同僚の東雲を問い詰めるが…。

 

ということで最終回は真犯人がキングを社会的に抹殺することで本当の意味で事件の決着をさせようとした回になるが、1話から予想していた通り宇都見と手を組んでいたのは東雲であり、記事を書いたのは瀬戸紫苑をいじめたキングへの復讐だけでなく、いじめそのものの撲滅・厳罰化を目的とした壮大な計画であったことが判明する。

そして、宇都見と東雲に加えてもう一人、レトロスナック「イマクニ」の店主・今國一成も共犯者であったことが判明した。東雲と今國は瀬戸と同じ児童養護施設「タクト学園」の出身者であり、彼女の自殺を知った彼らは結託して犯行を重ねていたというのが事件の真相であった。

 

宇都見・東雲はともかく、私は今國を容疑者圏外に置いていたが、よく考えるとちょんまげが殺害された7話で、ちょんまげが森におびき出された場所を知っていたのは元6年1組のメンバー(キング・ターボー・どの子・トヨ・ゆっきー)だけでなく、その時店にいた店主の今國とアルバイトの丸藤萌歌も含まれる。「鷹里小の森」に書き込まれた情報にキングたちが気づいたのはあの店内であり、当然彼らはその場で目的となる場所の話をしたはずだから、今國が彼らの話を聞いて実行犯の宇都見に連絡をしたと考えれば、外部の人間である宇都見がちょんまげのいる場所を特定出来た謎にも説明がつく。

そういや、キングたちが「鷹里小の森」の書き込みに気づいた場面を改めて見ると、本当はあの場に今國も丸藤もいたのにカメラは一貫してキングやターボーといった元6年1組のメンバーだけにしぼって映しているのがよくわかる。このカメラワークの違和感に気づかず今國を容疑者圏外に置いてしまったのは、まんまとしてやられたね。

 

してやられたと言えばもう一つ、いじめグループの6人がターボー考案の「森のくまさん」の替え歌の順番通りに狙われたというのが実はミスリードであったというのもミステリオタクとしてなかなか良かったと評価しておきたい。

最初は確かに替え歌の順番通りに狙われたのかどうか疑問に思わなくもなかったが、実際その順番通りに殺害されていたし、あの替え歌自体、森を含めた7人しかよく知らない(というかターボーがあの歌のことを思い出さなければ忘れられたままだった)代物だったので、それゆえ犯人が7人のうちの誰かではないかとギリギリまで疑う羽目になったし、あからさまに怪しいターボーも本来なら早々に容疑者から外したかったが、替え歌のことが引っかかってすぐには容疑者圏外には置けなかったのである。

(マジで6話まではターボー犯人説を強く推してたからね)

 

真相は替え歌の順ではなく「イマクニ」の訪問順であった訳だが、確かにこれならば1話で私が疑問に思っていた「貧ちゃんとカンタローが間髪空けずに狙われた謎」にも説明がつく。20年以上前のいじめの加害者の現在の身元や住所を調査するというのは流石に警察であっても困難だと思うし、実際宇都見たちも瀬戸をいじめていた6人が誰かまではわかったものの、その全員の居所まで特定することは出来なかっただろう。キングが貧ちゃんとカンタローを「イマクニ」に連れて来なければ、事件の発生はもっと遅くなっていたかもしれないし、連れて来たことであの二人が真っ先に狙われたと考えれば、立て続けに事件が起こったことも納得である。

恐らく宇都見としては学校創立50周年で彼ら同級生が集まればキングが同窓生を「イマクニ」に連れて来るかもしれない、そしていじめを思い出させる細工をすれば彼らが自然とその話をするから、元6年1組のクラスメイトでない宇都見や今國でも今現在のいじめっ子たちがどこで何をしているのか、そういった情報を掴めると考えてターゲットとなる6人の顔を黒く塗りつぶした卒業アルバムを大谷先生経由でタイムカプセルに仕込んだ、ということになるのだろう。

 

キングは実家の高木塗装を継いでいたから特定するのはまだ簡単だったと思うし、ターボーは言わずもがな大企業の社長なのでネットで名前を検索するだけで特定可能だ。しかし、貧ちゃんは薬剤師、ニコちゃんはホステス、カンタローは居酒屋店主、ちょんまげはニートと、いずれも個人経営の店主だったり従業員だったり、そもそも働いていなかったりと、ネット検索で身元が特定出来るような職業・役職ではなかったことも犯人を推理する上で重要だったのだ。20年以上前に行われたいじめが犯行動機であり、その復讐が目的ならターゲットの身元特定は犯人にとって最重要課題であるのは間違いないし、そこをもっと慎重に検討していたら、「イマクニ」が事件において重要な場であったことにも気づけたかもしれない。

 

とはいえ替え歌の順というミスリードに引っかかったのはターボーが「イマクニ」を訪れる前に狙われたというのも結構大きく関係している。殺されたいじめグループの5人のうち、ターボーだけが「イマクニ」を訪問する前に記者会見の場で殺されかけた例外であったから、殺害が「イマクニ」の訪問順という可能性すら考えにも及ばなかったが、前述したようにターボーは大企業の社長であり、貧ちゃん殺害時点ではアメリカにいて、カンタローが病院に搬送された時にようやく日本に帰国したのだから、そう易々と狙えるターゲットでなかったのは明らかである。

社長という立場だと移動も車で、それも常に誰かがいる状態だから簡単には近付けないし、公の場に姿を見せる機会も限られている。犯人としては、やはりあの記者会見の時しか殺害のチャンスはなかったと思うし、その日を待つ間にニコちゃんが「イマクニ」を訪問したことで、偶然というか結果的に替え歌の順で殺すことになったのだ。

そして記者会見での殺害未遂以降、(カンタローの時と違って)一向に犯人に狙われる様子がなかったことがターボーに対する疑惑を深めたこともミスリードに一役買っていたと言えるだろう。9話で犯人である宇都見自身が指摘していたが、裏を返せばもしキングたち元クラスメイトが犯人ならば、ターボーに容易に接触を図れるし、おびき出して殺すチャンスはいくらでもあったはずである。しかし実際はそうならなかったのだから、ターボー自身が犯人か、或いは犯人が元6年1組のクラスメイト以外の人物だと論理的に推理出来たのである。

 

奪われた青春を取り戻すための場

犯人当てミステリとしての話はこれくらいにして、次は「イマクニ」という店がこの物語においてどういうものだったのか、それを少しばかり深読みしていきたい。

 

今回の「良いこと悪いこと」に限らず、ドラマでは主人公が自宅や職場以外に腰を落ち着けられる憩いの場がしばしば登場する。主人公行きつけのバーだったりカフェだったり、そういった場で旧知の間柄である店主と主人公は話をするのだけど、ミステリドラマだったらそこで主人公は事件のヒントを掴んだり、或いは社会的な問題・人生の永遠の課題を他の常連客と議論したりする。私が知っている範囲だとドラマ「相棒」で登場する小料理屋とか、「まだ結婚できない男」で主人公の桑野が通っていたカフェなんかがそうだ。今回のドラマと同じ考察系ミステリドラマ「真犯人フラグ」でも主人公の友人が開いたバーが登場するのだから、ドラマ作りにおいて主人公行きつけの店というのはもはや定番である。

 

しかし個人的にはこういった場所がドラマで描かれると何となく嘘くさいな、フィクションだなと感じてしまう。まぁこれは私が地方出身者で出不精な人間だから、というのもあるのだけど、大人になってからカフェやバーに定期的に通えるほどの金銭的余裕があって、なおかつそこの店主や常連客と親しい人が果たしてこの日本にどれだけいるのだろうかと思うとそれは多数派ではなく少数派ではないかと思うし、いくらドラマで普遍的なテーマを扱ったとしても、そういう場所を描いている時点で共感しづらいなと感じてしまう。単に私がひねくれているだけかもしれないが…。

 

で、今回のドラマにおけるレトロスナック「イマクニ」も当初は平成一桁生まれの視聴者に突き刺さる、平成ノスタルジックな小ネタを差しはさむために用意された場という程度のものだろうと考えていたのだけど、こうして最終回まで見た今となってはこの「イマクニ」は物語として必要不可欠な場であったことがよくわかる。それは前述した犯人を特定するためのヒント・手がかり・伏線としての意味があるのは勿論のこと、店主の今國がいじめの被害者・経験者であったという点から考えても必然性が感じられる。

 

「イマクニ」開店に至る経緯はドラマの劇中で具体的に描かれていないので、あくまでも私の勝手な推測になるが、いじめを経験した立場の人間として言えるのは、いじめを受けるとその後の学校や会社といった場で円滑なコミュニケーションがとれない問題を抱えてしまう。自分が何も悪いことをした訳ではないのに相手から酷い仕打ちを受けて精神的・肉体的な傷を負った者は、その後で新たな人間関係を構築するとなった際、相手に対して何を言ったら良くて何を言ったらダメなのか、そういう境界線が分からないし、下手なことを言ってまたいじめのターゲットにされることを恐れて慎重になり過ぎて没交渉になってしまう

かく言う私が正にこれで、小学校から中学校まで受けたいじめの経験のせいか、高校入学時にうまくクラスに馴染めず友達を作ることのないまま3年間を過ごし卒業したのである。勿論、高校生の時は自分が何故友達が出来ないのかわからず、担任の先生やスクールカウンセラーの方に相談もしたりして何とかその不安を抱え込まずにすんだけど、今思えばいじめられていなかったら積極的にコミュニケーションはとれていたかもしれないと思う。全てをいじめのせいにすることは出来なくても、あの経験がコミュニケーションや対人関係において足枷になったのはほぼ間違いないのだ。

 

私は不幸中の幸いというか、肉体的な暴力は振るわれなかったけど、今國は暴力まで振るわれていたのだから尚更対人関係において大きな支障があったと推察される。それは大人になってもなかなか克服出来ない問題だし、特に社会人になると積極的な行動が出来ない人は面接においても採用されづらいし、いざ就職したとしても人間関係で苦労する。ドラマでは単に店を開店した、という程度の情報しかないけど、今國がいじめの被害者であることから想像を膨らませれば、開店に至るまでには人間関係だったり就職活動で相当苦労しただろうと思うし、会社にうまく適応出来なかったから脱サラして自営業の店を開いたのかな?と個人的にはそう考えた訳である。

 

そして、店のコンセプトが平成レトロをテーマにしていることにもきっと彼の思いが込められていると思う。それは単なる懐古主義ではなく、いじめを受けた少年時代に出来なかったこと、例えば友達とゲームで対戦したり、歌を歌ったり、一緒に食事をしたり、そういった青春をいじめによって奪われた者が青春を取り戻すための場だったのではないだろうか?同じ傷を抱えた東雲や瀬戸、そして宇都見と共に「少年時代やりたくても出来なかったこと」を重ねていき、そこで昔の傷を癒やし明日への活力を得て社会と向き合うという、そんな前向きな願いや意図が込められた店だったとそう考えたのである。

 

しかし、瀬戸の自殺によって全てが狂ってしまう。彼らが選択した道とはいえ、「イマクニ」は彼女の自殺以降、いじめっ子であるキングたちをおびき出して復讐するための場に転じてしまったのだ。そしてその目的のためなら、たとえ憎き仇であっても彼らと共に平成ノスタルジーに浸り、その思い出を共有する仲間として演じ続けなければならなかったのだから、その時の彼らの心中を想像すると、何だか涙が出そうになる。

 

総評 ~令和の「そして誰もいなくなった」~

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©日本テレビ

さて、ここからドラマ全体の総評に移るが、まずこのドラマを見ていて思い出したのはアガサ・クリスティの歴史的名作そして誰もいなくなったである。孤島に集められた10人の男女が謎の人物によって過去の罪を告発され、島の邸内に飾ってあったインディアン人形の歌に見立てて一人ずつ殺されていくという、あの誰もが知る名作ミステリだ。今回のドラマも過去に法律で裁かれなかったいじめを告発された男女6人が少年時代に描いた夢に見立てて殺されるという点で『そして誰もいなくなった』と共通する所が多々あったと思う。

 

しかし『そして誰もいなくなった』が不可能犯罪を描いたミステリであることを思うと、今回のドラマはミステリ的な妙味はやや薄い。考察系ミステリドラマと銘打った割には伏線回収はあまりせず、そこを批判している視聴者も多かった。

まぁ私は過去に数々の手がかりや伏線を散りばめておいて、作中の探偵が謎解きをせずその推理を読者に丸投げするという問題作(あ、『夏と冬の奏鳴曲』っていう作品なのですけど)を読んだことがあるので、それに比べれば本作は全然良いと思っているし、ミスリードの巧みさに関しては前述した通り褒めて良いと思う。

 

考察系ドラマでありながら主人公のキングや園子を探偵役として描かず、散りばめた伏線や手がかり、事件の全てをハッキリと描かなかったのは単に尺の都合だとは思えない。というか、作品に込められたメッセージ性を考えると、「考察」という行為そのものに対してもこのドラマの制作陣はある種の批判的な考えをもって制作していたと思うのだ

このドラマで描かれたいじめの中には、6話や今回の10話のように外部の人間による誹謗中傷といったネット上のいじめも含まれている。ハッキリとした事実を知らないくせに、ネット上のごく一部の情報だけで相手の人間性を決めつけ、自分が正義の側の人間として、相手を悪し様に叩く。既にネット上では「炎上」という形で日常風景になっているこの現象を、このドラマでは考察系ミステリとして視聴者に「考察」という名の犯人捜しを行わせている。勿論これはフィクションなので視聴者は攻撃的な形で犯人を推理・推測はしていないものの、ハッキリとした確証のない状況で犯人ではない人物を疑ったり、無茶苦茶な根拠で登場人物を疑うその姿勢は、誹謗中傷を行っている人々とさして大差がない。犯行に全く関与していないキングの妻や「イマクニ」のアルバイト店員まで疑った人がいたのだから、もしこれが本当の事件だったとしたらその人たちは誹謗中傷で訴えられてもおかしくなかったのだ。

 

つまり「良いこと悪いこと」は謎解きの快感を目的としたドラマではない。私たちに「考察」を行わせることで私たちが知らず知らずのうちにネット上で行っている愚かな行為を浮き彫りにし、その加害性・攻撃性というものに目を向けさせることを目的としたドラマだと言えるのではないだろうか?

 

このドラマはいじめという罪の重さを描いているのは当然として、いじめられた側の園子も知らず知らずのうちに加害者であったということを6話で描いている。これはいじめの被害を受けた立場の者としてはある意味都合の悪い話だが、実際問題人間は全ての人に対して平等に優しく好意的に接することが出来ない以上、立場や状況によっては加害者にも被害者にもなってしまう。そういったことを生半可な気持ちで描いていないのがこのドラマの物語としての凄まじさだと思うし、そこに目を向け光を当てないと、私たちの社会は恨みを恨みで仕返しするような殺伐なものになってしまうと思うのだ。

 

そしてこのドラマを高く評価したポイントの一つとして、いじめを取り返しのつかない罪として描いたことも挙げておかなければならない。

これまでもいじめを題材にした作品は数多くあったが、やはりそれは勧善懲悪だったり因果応報譚として描いた程度で、なかなかいじめ問題の核心にまで触れたものはなかったと思うのだ。

 

例えば2005年に日テレで放送された女王の教室は、天海祐希さん演じる阿久津真矢が鬼教師として生徒の前に立ちはだかり、生徒たちがそれを乗り越えることで現実社会において戦えるだけの強さ・逞しさを身に着けさせるという、ある種の劇薬のようなドラマだったと記憶している。そしてドラマの中でもいじめによって志田未来さん演じる主人公が窮地に立たされるエピソードがあったが、このドラマではいじめの原因ではなくいじめに立ち向かう強さだったり知恵を身に着けさせることが重要だと説いているのが印象的だった。確かに一つのメッセージとしては悪くないのだが、結局の所それは対処法を説いているに過ぎず、いじめが起こる原因だったりそれに対して加害者の側を教師がどう指導するのかといった点については全然描けていなかったと思う。見ようによっては悪を野放しにしているようにすら見えるのだから、放送当時苦情が寄せられたのも納得だ。

 

そして2019年に同じく日テレで放送された「3年A組 -今から皆さんは、人質です-」も、いじめやネットの誹謗中傷を題材にしたドラマで放送当時話題になったことは私もよく覚えている。しかし、そこで描かれたことは私にとってはどこかズレていると感じる点が多々あった。「言葉はナイフだ」と主張する菅田将暉さん演じる教師の言葉にしても「いやそれはそうだけど、世の中にはそれを分かって傷つける奴がいるのですよ…?」と首をひねりたくなったし、そういったことを訴えるために立てこもり事件を起こす必要はあったのかと、何かこう釈然としないドラマだったと記憶している。生徒にとっては良い先生だとしても、あの行為を許したらそれこそ世の中はテロリストだらけになってしまうし、脚本が意図したことではないにせよテロリズムを容認してしまいかねない危うさがあったと思うが、どうだろうか?

 

なので、今回の「良いこと悪いこと」を見て、ようやくいじめというものの核心に迫った作品が出て来たことに私は本当に感謝しているのだ。特に、いじめた側が自分の行いをすっかり忘れていて、いじめられた側がいつまでもその記憶を引きずり苦しまなければならないという、この問題をしっかり描写した所を高く評価したい。

そういやキングたちが園子や瀬戸をいじめた切っ掛けは描かれたものの、その動機については詳しい描写・説明がなかったように思う。そこは確かにスッキリしないポイントだけど、いじめられた側としてはいかなる理由があれどいじめられて傷ついたことに変わりはないのだから、どんな理由があっても人をいじめてはならないし、一度いじめられたらその恨みは生涯消えないということが何より重要なので、そういった描くべきポイントをズレることなく描いてくれたことが非常にありがたいのである。

 

さいごに

ということで長くなったが、これで「良いこと悪いこと」の感想は語り尽くせたと思う。20年以上前の小学生時代という、ハッキリとは覚えていないが完全には忘れていない記憶の中で、裁かれも咎められもせずに残ってしまった罪や、それに対する恨みつらみをここまで描いた作品は恐らく過去になかったと思うし、だからこそ私はこのドラマが令和の「そして誰もいなくなった」と呼ぶに相応しい歴史的名作として評価した次第である。なかなか内容がハードなので何回も見返せる作品ではないが、こういう重みのある作品に自分の推し俳優が主演として出ていることをファンとして誇りに思う。

 

そして、このドラマに携わった全ての人に、かつていじめられその恨みを今なお抱えている者の一人として敬意と感謝を送りたい。