タリホーです。以前書いた「批判も覚悟で『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』に厳しく物申す」が長文になったので、読みやすさを考えパート2として分割し、引き続き色々と語っていこうと思う。
改めて『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』を厳しく批判することにした私の動機を述べておくが、私はこの筆者に考えを改めてもらうことを目的として批判するつもりはない。
「それでは『厳しく物申す』というタイトルと矛盾するではないか!」と言われるかもしれないが、そもそも本当に考えを改めてもらおうと思っていたら直接あちらのブログのコメント欄に書き込んで批判するし、最初はそうしようかと考えていた。でも、改めて自分の信条というか考えを見つめ直していくと、私がこのブログでやりたいのは他者の意見や考えを批判・否定することではなく作品に対する深い読解・理解を行い、それを今このブログを読んでくださっている読者と共有することだ。
以前私は鬼太郎6期に否定的な意見や批判ポイントを元に6期を再評価するという試みをやってみたが、要は今回も「ゲ謎」に対する否定的な意見を取り入れつつ、その意見の是非を検証していくと共に、今まで言語化出来ていなかった「ゲ謎」の魅力を語っていきたいというのが本音なのだ。
なので、『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』を厳しく批判することはするけれども、それが私にとってのゴールではなく、そこから更に「ゲ謎」だったり水木作品の面白さというか素晴らしさを語らないといけないなと、少なくとも前回よりはムカムカとした気分がだいぶ治まってフラットな気分でこのブログを読んでいるので、そういった心境の変化を理解していただいた上で、批判・批評に移りたいと思う。
(以下、映画の内容についてネタバレあり)
「警察に行こう」ではなく「東京に行こう」ですよ?
まず最初にこちらの記事で言及されていたことに対して批判を述べたい。
「ゲゲゲの謎」においてニセ犬神家の児童虐待を知った水木青年が被害者の児童に
「警察に行こう」
というシーン。
このシーンに対してもずっと違和感がありました🤔
なぜなら、昭和30年代の人間に「虐待=通報」という概念があったかは極めて疑問だからです。
(中略)
水木青年の行動は現代社会では「至極当然の正義感溢れる通報」です。
しかし昭和30年代であれば「他人の家庭を乱す迷惑な行動」「被害者の将来や外聞を考えていない身勝手な行動」と見なされかねません。
水木青年は制作陣の自己投影、願望の投影ではないかと言われています。制作陣=水木青年ならば、昭和の登場人物なのに感覚が平成なのもわかります。
(中略)
どうも6期のスタッフには虐待問題に強い危機感を抱いている人がいるようです。小説版ゲゲゲの鬼太郎「蒼の刻」「朱の音」には両方とも虐待をテーマにした作品があり、虐待の件数の正確なデータを掲載するなど生半可ではない意気込みを感じさせます。「令和悪魔くん」でも虐待の話があります。
しかし「ゲゲゲの謎」はこの通り
「本当にしっかり歴史考証をしたのだろうか?
専門家の監修が入っているのだろうか?」
と疑問視せざるを得ないことだらけです。
児童性虐待の扱いもそのあまりに不真面目な、言ってしまえばエロゲー的な内容から、男性スタッフの悪い意味での欲求の表れではないかと言われています。
以上の引用した箇所を読むと、「ゲ謎」の時代設定である1950年代にあったとは思えない、矛盾した描写があったという風に思うかもしれないが、「ゲ謎」を何回も見ているファンならもうおわかりですよね?
地下工場のシーンで水木が被害者の児童(注:恐らく沙代のこと)に対して言ったのは「だから、こんな村を出て東京に行こう」であり、「警察に行こう」などとは言ってない。多分この筆者は時麿の死体発見時に水木が「警察に連絡しましょう」と言っていた場面と記憶がごっちゃになっていて、映画を見直すことなく初見の時の印象でこのような論を展開させたのだと思うが、まぁ性的虐待や児童虐待を否定する主張を述べるのは大いに結構だし当ブログとしてもそこは同様の主張を述べたいけれども、作品批評としては完全に0点であるということはハッキリ言っておく。
嫌いな作品に対して誤解・曲解があるのは仕方ないにせよ、せめて劇中の台詞くらいは正しく覚えていてもらいたいものだ。
ところで、東京に行っても逃げ場や救いはなかったという沙代の絶望的な状況を描くのは映画の104分という限られた尺の中では本来無理だったのではないかと思うし、それを説明するためには当時の日本の家庭というものの状況や、龍賀一族の及ぼす影響力が全国規模のものであることを、劇中で説明する必要があると思う。しかしそれを描いていないのにもかかわらず沙代の絶望を観客が理解出来たのは、丙江と孝三という龍賀に楯突き逃亡、或いは反逆した者の末路をキャラクターを通じて描いているからだと私は分析している。つまり、たとえ東京へ逃げても龍賀の息がかかった者たちが探し出して丙江のように連れ戻されるか、もしくは孝三のように廃人にされてしまうかという道しかないことを沙代は既に知っていたのだ。くどくどと背景描写や説明をせずともこうした形でスマートに沙代の絶望を表現しているのが、「ゲ謎」の映画としてのクオリティの高さを物語っていると言えるだろう。
6期との矛盾点について
「ゲ謎」が6期の前日譚ということで、筆者は以上の記事で矛盾点をざっと12個指摘している。それをまとめると以下の通り。
1.1話における水木青年とのビジュアルの違い
2.鬼太郎のドライな性格
3.14話の「子供らしい発想が出来ない鬼太郎」と鬼太郎の父(ゲゲ郎)の容姿
4.16・17・65話の妖怪による町おこしを行う人間と「ゲ謎」の人間描写との違い
5.23話の描写より、「ゲ謎」から12年後の1968年の時点で鬼太郎が有名人だったこと
6.50話より、鬼道衆・石動零が「ゲ謎」に名前すら出なかったこと
7.当時の村を一番知っているはずのねずみ男が哭倉村に行かなかったこと
8.51話より、目玉おやじが時弥のことを地獄の閻魔大王に聞かなかったこと
9.55話より、昭和初期を回想する目玉おやじへの違和感
10.62話より、ねずみ男が総理の恐喝に哭倉村の一件を持ち出さなかったこと
11.哭倉村が70年も放置されていたこと
12.桜を愛するイラストへの違和感
この12の指摘のうち、私が批判として納得がいくのは1・2・3・5・7の5つで、特に1と3で指摘された水木とゲゲ郎のビジュアルの違いは6期から鬼太郎を見た人には違和感があるだろう。一応このビジュアルの違いについては東映アニメーションが発売した『鬼太郎誕生備忘録』でキャラクターデザインを監修した谷田部透湖氏がその理由を述べており、当初は6期で描かれた水木と鬼太郎の父(14話のイケメン姿)の設定だったらしいが、今回の映画が大人向けのホラーであると聞き、打ち合わせを重ねていく中で今のキャラデザインに決まったそうである。
まぁ6期のデザインと矛盾しているのは否めないが、今回の映画が6期を見ていない、或いはそもそも原作自体よく知らない観客にも届いたことを思うと、6期14話で描かれたようなイケメンの父にすると初見の人は絶対ビックリする上にそのデザインにした理由がわからなくて困惑すると思うし、そもそも14話のイケメンとして描かれた鬼太郎父は夢の世界における目玉おやじがイメージした姿なので、あのビジュアルが本当の姿だったかどうかは実の所ハッキリしていないとも解釈出来るのである。もっと言えば砂かけ婆の「若いころの目玉親父はそりゃあ男前じゃった」という証言に関しても人間ならともかく妖怪であるおばばの証言だから、美的センスや感覚も人間とは違うだろう。
なので、水木はともかくゲゲ郎のキャラデザに関しては矛盾しているとは言い切れない部分もあるし、矛盾していたとしても、それを制作側の怠慢というネガティブなものとして受け取るほどではないと、そう私は考えているのだ。
1・2・3・5・7に関しては矛盾だと指摘・批判するのにまだ納得がいくけれども、それ以外は正直言って無理があるというかこじつけがましい。
例えば「4.16・17・65話の妖怪による町おこしを行う人間と「ゲ謎」の人間描写との違い」について筆者は
この3話を見ればおわかりの通り、6期世界の境港にも水木しげるロードが存在します。
しかし妖怪を民族浄化して麻薬を作る国策を推進し、人間側にも多大な犠牲者を出したような国家が、よりによって妖怪をテーマにした町おこしを許可するのはどうも不自然に思います。
ニセ犬神家事件が本当に6期世界で起きていれば、それこそ京極夏彦先生の「虚実妖怪百物語」のように、6期の日本国内では妖怪関連の事には緘口令が敷かれ妖怪絵巻や伝承の書物など焚書坑儒が行われてもおかしくありません。
と述べているが、いや、論理展開が無茶苦茶過ぎて意味がわからない…。
えーっと、血液製剤「M」を戦争に利用していたのは確かに当時の日本政府や軍部だけど、その製造方法に関しては龍賀製薬及び龍賀一族だけが知るトップシークレットであって、当時の日本政府が幽霊族の血液から「M」を製造していたなんて全く知らなかったはずだし、それなら既に血液銀行の社長や龍賀克典といった人々がその情報を掴んでいるはずだ。この筆者は「M」が戦争で使われたからその製造方法も当時の日本政府は周知していたと、何かそのような大きな勘違いをしているように思うのだが、どうだろうか?
もし哭倉村が廃村にならず、村人の生き残りがいて6期の16・14・65話のような妖怪による町おこしをやっていたら違和感があるのもわかるけど、村は完全に滅んでいるし、それに哭倉村と鳥取県境港は地理的にも全然別場所なので、何故映画の一件と6期の境港のエピソードを結び付けたのか、もう意味不明としか言いようがない。
なので、「10.62話より、ねずみ男が総理の恐喝に哭倉村の一件を持ち出さなかったこと」「11.哭倉村が70年も放置されていたこと」も同じ理由で論理的に破綻していると指摘しておく。ちなみに11に関しては、哭倉村の事件から70年後の2026年に最後の狂骨(=時弥)が浄化されたと本編の描写からわかるので、鬼太郎は70年かけて哭倉村から全国各地に飛び散った(ここ重要!)狂骨の浄化・退治をしていたと考えれば、村が70年も放置されていたのもおかしくはないし、6期本編とも矛盾しないだろう。言うなれば廃村と化した哭倉村は惨劇の残骸であって、そこに残っていたのは当時殺害された村人の一部の魂(これも本編の描写から読み取れる)や時弥のような一部の狂骨だったことから見ても、狂骨の浄化・退治に70年を要したのはおかしくない。普段の妖怪退治とあわせて狂骨の捜索をしていたのならば、それくらいの時間がかかって当然なのである。
そして「6.50話より、鬼道衆・石動零が「ゲ謎」に名前すら出なかったこと」については
2年目から鬼道衆の少年・石動零が登場します。
この回で目玉親父は鬼道衆を
「彼らも時代の流れで滅んでいった」
と話しています。 実際に聞いていただければわかるのですが台詞にどこか寂しそうなニュアンスが入っているように聞こえ、憎い仇に対する感情としてはたいへん不自然に思います。
最終的に鬼太郎は妖怪を取り込みすぎて暴走した彼を助けます。、本当に幽霊族が裏鬼道に民族浄化されたのであれば、いくら流派が違うとはいえ何の回想シーンも葛藤も無く鬼道衆を救うのはたいへん不自然に思います。
恨みや復讐は別にしても、流派が違っても、一族を滅ぼした敵です。
何らかの回想シーンがあったり、妖怪に里を滅ぼされた復讐に燃えて妖怪を吸収する石動零に対して
「いいかげんにしろ! 幽霊族なんか…母さんなんか…お前たちの流派に37564にされたんだぞ!」
ぐらい怒鳴ってもおかしくないのにそんなシーンはいっさいありません。
石動零は6期のラストで鬼童・伊吹丸と共に旅に出ています。この伊吹丸というキャラクターも、かつて人間と妖怪のはざまで起きた悲劇で妻子を失った背景があります。
鬼道衆の末裔と、妖怪と人間の悲劇を知る大妖。
6期の映画で、鬼道衆に関する事件の後始末に行くのに、なぜ石動&伊吹丸コンビを同伴させなかったのか。
このことはたいへん不自然に思いました。
声優さんのスケジュール等で出演が無理だったとしても、せめて石動零の名前ぐらい出してくれても良かったはずです。
それすらなかった事に
「これは本当に6期の映画を作ろうと思って作られた映画だろうか?」
と疑問に思いました。
と述べている。筆者の感覚としては鬼道衆も裏鬼道も流派が違うだけでほぼ同一的組織だと思っているようだが、映画本編でゲゲ郎が説明したように裏鬼道は外法を使ったことで鬼道衆から破門された者たちによって構成された組織であり、単に流派が違うという一言で片づけられない組織としての確執があったと考えるべきだろう。
確かに6期の地獄の四将編における鬼太郎はだいぶ石動を敵視していたし、妖怪なら善悪関係なく狩って利用するという終盤の彼の暴走にも怒っていたと思う。
しかし、そんな善悪の見境がなくなっている石動に対して70年前の裏鬼道のことを引き合いに出してどうなると言うのだ?むしろそんなことを鬼太郎が言い放ったら「善悪の見境なく妖怪を狩る石動も石動だが、鬼道衆と裏鬼道をいっしょくたにする鬼太郎もだいぶレベルの低い考えの持ち主だよね?」と脚本的に見ても鬼太郎のイメージダウンになってしまうではないか。というか、善悪の見境がなくなった石動に対して絶対に言ってはならない禁句だし、いくら鬼太郎が頭に血がのぼっていたとしても、それくらいの分別はあっただろう。
だから6期本編で裏鬼道の存在が言及されなかったからと言ってそれは矛盾というほどのものではないし、鬼道衆の側である石動が裏鬼道のことを知っていたとしても口にしなかったのも別におかしいことではない。哭倉村で起こった惨劇に裏鬼道が関与していたからと言って、鬼道衆の末裔がその責任の一端を負う必要など全くないのである。この筆者の主張の無茶苦茶さを借金で例えるならば、「お前のおじいちゃんのお友達が借金を踏み倒したからお前が連帯保証人として返済しろよ?」と言っているようなものだ。理不尽過ぎる…!
そして最後の「12.桜を愛するイラストへの違和感」だけど、
【アニメ雑誌の画像】
こちらは6期放送中に出版されたアニメ雑誌のピンナップイラストです。
水(血)に咲く桜に一族を滅ぼされた親子が、こんなノンキに川下り花見をするでしょうか?
事情を知っている猫娘も、川下り花見に誘うでしょうか?
桜に10年も苦しめられたことになっているはずの鬼太郎は平然としており、桜に妻と同胞を奪われた目玉親父に至っては桜に見惚れているようにすら見えます。これはたいへん不自然です。
【「ゲゲゲヒロインの森」の見開きイラスト】
こちらは「ゲゲゲヒロインの森」の見開きイラストです。桜が幽霊族に何をしたかは猫娘も知っているはずなのに桜満開シーズンに幽霊族の親子を荷物持ちに駆り出すなんて真似を、彼女がするでしょうか?
と述べており、幽霊族を苦しめた血桜に類する桜を鬼太郎や目玉おやじが愛でているのはおかしい、矛盾しているとこう主張している。確かに鬼太郎が私たちと同じ人間ならばその指摘は正しいと言えるのだが、これが「ゲゲゲの鬼太郎」という作品だと考えると決して矛盾しているとは言えないのだ。
今更言うまでもないが、鬼太郎は6期だけでなく歴代においても敵妖怪や人間によって散々な目に遭っている。木に変えられたり、かまぼこにされたり、石にされたり、時には再起不能なレベルにまで身体の形を変えられたりと、その数を見れば鬼太郎が生まれる前よりも生まれた後の出来事の方がトラウマレベルだと言って良いほどだ。でもそんな目に遭っても鬼太郎は別に妖怪退治をやめようとは思っていないし、自分がかまぼこにされたからと言ってかまぼこが食べられなくなったという描写も(原作・アニメ共に)ない。原作だと海座頭のエピソードでノイローゼに陥ったと描かれているが、鬼太郎のメンタル不調が描かれているのはせいぜいその程度で、少なくとも水木先生は鬼太郎を豆腐のようなメンタルのキャラクターとして描いてはいないのだ。
なので、「これまでの戦いで散々酷い目に遭っていてもトラウマになっていないのだから、まだ生まれる前の血桜のことでトラウマレベルの拒絶反応を起こす方が不自然ではないか?」と私は反論したいのである。知識として幽霊族が血桜に囚われていたことを鬼太郎が知っていたとしても、血桜と普通の桜を分けて考えることが出来ないほどの拒否感を抱くのか?鬼太郎ってそんな繊細なメンタルの持ち主だったっけ?という疑問が出て来る。
では直接あの血桜を目撃して囚われた目玉おやじ=ゲゲ郎はどうなのか?という話になるが、ここで指摘しておかなければならないのは、哭倉村の窖は幽霊族にとって忌まわしい記憶のある場であるが、一方で水木の活躍と先祖の必死の一念によって鬼太郎という希望の糸が絶えずにすんだというポジティブな出来事があった場であることを忘れてはならない。100%ネガティブな思い出しかない場ならば、血桜や桜に対して拒否反応を抱くのもわからなくはないが、水木が人間として目先の欲望に飲まれず時貞の野望を打ち破ったこと、そして子孫の危機に対する幽霊族の強い思いと人類の想像を超える圧倒的なパワー、そういうものがゲゲ郎の目の前で提示されたことを考えれば、あの窖は絶望と祝福という相反する要素が同時に存在する、実に奇妙な聖地だとは思わないだろうか?それを単に鬼太郎や幽霊族が酷い目に遭っただけの場として捉えるのは実に狭量で勿体ない物の見方をしているなと思うし、これでは映画を全く観ていないのと同じようなものだと批判させてもらおう。
(2025.12.20 追記)
否定・批判してばっかりもアレなので、批判として正しいと思ったポイントについても言及しておこう。
批判として正しいと思った5つのポイントのうち特に私が言及しておきたいのは「7.当時の村を一番知っているはずのねずみ男が哭倉村に行かなかったこと」で、ここは映画を好意的に見ている私でも「?」と思う所がなくはない、評価が分かれるポイントだ。
映画を観た方ならご存じの通り、「ゲ謎」におけるねずみ少年(ねずみ男の少年時代)は龍賀家の下男として村で働いており、サスペンス色の強い本作の中でも息抜き的な存在として登場している。しかし、70年後の現代パートでは実際に当時の村の内情を知っているねずみ男ではなく、猫娘が鬼太郎の付き添いとして廃村を訪れているので、そこで違和感を覚えた人も多いと思う。更に言えば、本作が水木先生の生誕100周年記念であることを考えると、猫娘よりもねずみ男の方が水木作品において重要度・活躍度は高いのに、そのねずみ男が脇役におさまっているというのも不服に感じたファンも多いだろう。ここは批判ポイントとして指摘されても仕方ないと思うし、ねずみ少年とゲゲ郎が知り合いだったという映画の設定は、「墓場鬼太郎」(アニメだと2話)における鬼太郎&目玉おやじがねずみ男と出会った場面と矛盾する設定でもあるので、そこは客観的事実として指摘しておかなければならない。
では「猫姉さんさえ出しておけば6期ファンや男性ファンは満足するだろう」というこの筆者の下衆の勘繰りのような意図で猫娘が映画に盛り込まれたのかどうか、この疑問に関しては正直私も「う~ん、どうなんだろうね…」とあまりハッキリした答えは出さず人によって評価が分かれるポイントとして回答を放棄していたのだが、最近自分の中で一つの回答として固まったので、ここからはあくまでも本作を好意的に評価する立場としての解釈・回答として読んでいただけると幸いである。
個人的に猫娘が今回の映画で登場したのには二つの意図があると思っていて、一つ目は実利的な面で付き添いをしているということだ。鬼太郎が哭倉村を訪問した目的は狂骨の浄化・退治である以上、戦闘能力の高い猫娘が鬼太郎に付き添うのは決しておかしな話ではないし、既に廃村と化した哭倉村にねずみ男が行くメリットはなかったと思う。
それによくよく考えると6期のねずみ男は原作や歴代のねずみ男と違い「金儲けさえ出来ればOK」みたいなキャラではなく最低限の倫理観は持ち合わせたキャラなのだ。このブログの筆者は失念しているが6期の13話「欲望の金剛石! 輪入道の罠」で6期ねずみ男が単なる金の亡者ではないということが描かれている。
このエピソードを知らない方のために簡単にあらすじを説明すると、13話はねずみ男が人間をダイヤモンドに変えてその魂を食べる妖怪・輪入道と手を組んで、欲深い人間をダイヤに変え、そのダイヤを格安で売ることで大儲けをするという原作「ダイヤモンド妖怪」のエピソードをベースにしたお話だが、物語の後半でねずみ男は「ワン・ワールド・アダマス・シンジケート」と呼ばれる反社会的組織から目をつけられ、ダイヤの価格操作のために海外から難民・孤児・炭坑労働者を"輸入"し、彼らをダイヤに変えるよう脅されるのだ。
このエピソードは6期の中でも人間の邪悪さというか底なしの欲を描いたという点でも印象的な回だったが、この時のねずみ男は嬉々としてこの反社会的組織の計画に乗っかった訳ではない。むしろその考えにドン引きだったと記憶している。この描写から見ても、6期のねずみ男は欲深い人間が犠牲になるのは当然だと思っていても、何の罪もない大多数の人々が犠牲になるのはダメという、最低限の倫理観というか一定の線引きが出来るキャラクターだと分析したのである。
6期ねずみ男の戦争を嫌う精神はこの後の20話「妖花の記憶」や89話「手の目の呪い」といったエピソードでも一貫して描写されており、その点を考慮に入れると「ゲ謎」でねずみ少年が哭倉村で行われていたことに愛想を尽かして出て行ったのも別におかしくはない。歴代(特に2期)や原作と比べると違和感のある場面だったかもしれないが、6期のねずみ男としては至極当然の行動をとったと私は考えている。
そして、猫娘が鬼太郎の付き添いとして映画本編に登場したもう一つの意図は、ゲゲ郎と水木というこの二人のバディ関係や、哭倉村でのゲゲ郎と水木の調査に他の妖怪があまり介入しなかった点から説明がつくのではないかと思う。
今一度映画本編を振り返ると、ゲゲ郎と水木が手を組んだのは両者の利害関係が一致したという程度に過ぎず、結果的に親友になったとはいえ、その始まりはビジネスライクな関係に過ぎなかった。そして哭倉村にはゲゲ郎以外にも(禁域の島で狂乱状態だった妖怪をのぞいて)カシャボや一軒家の妖獣といった様々な妖怪がいたにもかかわらず、協力したのは河童だけで、その協力にしても禁域の島からの脱出に手を貸したという程度だ。この状況から見ても、ゲゲ郎の妻の行方探しに損得勘定を抜きにして協力をした人間や妖怪がいかに皆無であったかがよくわかるだろう。
そんな当時のゲゲ郎(目玉おやじ)と比べて、今の鬼太郎はどうだろうか?
もう言うまでもなく、今の鬼太郎には種族や利害関係など関係なく味方になってくれる仲間や妖怪たちがいるし、特に6期の猫娘は歴代の猫娘の中で鬼太郎と最も深い関係を築いたパートナーと言って良いだろう。6期の鬼太郎と猫娘の関係についてはここでくどくど無粋な説明をするよりも実際にアニメ本編を見てもらった方が分かると思うので、全97話あるエピソードのうち、48話「絶望と漆黒の虚無」から51話「閻魔大王の密約」、74・75話の九尾の狐戦、そして93話「まぼろしの汽車」を見てもらいたい。そうすれば映画で鬼太郎の横に猫娘がいることの尊さがもっと理解出来るはずである。
「犬神家」のプロットを模倣することの技術的効果
このブログで度々言及されている「ゲ謎」のパクリ問題についてここからは語っていこうと思うが、ここで列挙されている作品群のうち私が詳しく述べられるのは残念ながら『犬神家の一族』しかないので、この一作にしぼって見解を述べさせてもらおう。
本当はブログで指摘されている同人誌のこととかも個人的には非常に気になる(剽窃・盗用があったのかどうか、裁判で決着がついたのか?)し、100周年を記念する作品でそんな盗用があったとしたら金田一少年の「異人館村殺人事件」以上の大スキャンダルだと私は思うので、この筆者が指摘する同人誌のタイトルとその内容(具体的なストーリー)について、それからその同人誌の作者に関して確実な情報をお持ちの方は当ブログのコメント欄に情報を送っていただけるとありがたいのだが…。
(というか、データ原口こと原口正宏氏ならこういった問題を伝手で調べられそうな気がする。他力本願で申し訳ないけど…)
(2025.12.20 追記)
ちなみにブルーレイ豪華版に特典としてついているブックレットに収録された古賀監督のインタビューによれば、プロデューサーの永富大地氏と脚本の吉野弘幸氏で初顔合わせが行われたのが2021年5月14日で、そこから月1のペースでシナリオの打ち合わせが行われ、吉野氏のシナリオ決定稿が完成したのは2022年4月2日とのこと。この日付と例の同人誌が発売・発行された日時が分かれば、少なくとも盗用問題に関してはある程度の結論が出るのではないだろうか?
(というか、これだけ具体的な日付が記録として残っているのだからシナリオ会議の議事録だって残しているだろうし、裁判をすれば一発で盗用があったかどうかなんて分かると思うが…)
ちなみに、「ゲ謎」には初期シナリオがあって、これは『'23年鑑代表シナリオ集』に収録されている。日本シナリオ作家協会がチェックしているのだから盗作・盗用の可能性も一応検証はされていると個人的には思いたいが、同人誌となると流石にチェックの範囲外なのだろうか…?
まぁ同人誌のことは現状検証のしようがないので置いておくとして、「ゲ謎」の龍賀一族と物語の導入部は「犬神家」のプロットを踏襲したことであるのは明らかだが、ではこうした有名作を模倣することは単にパクっているだけなのだろうか?そこに映画としての意図はあるのかどうかを考えていこう。
これについてはもはや説明不要でしょう。
「ゲゲゲの謎」は横溝正史先生の往年の名作推理小説にして市川崑監督の名作映画「犬神家の一族」そのまんまにしか見えません。
ニセ犬神家の家族構成、湖が見える旅館、湖で船を漕ぐシーン、遺言状のシーンなど何もかもそっくりそのまんまです。劇場で湖の近くの旅館のシーンを見た時はあまりに映画の犬神家そっくりそのまますぎて思わずこの顔↓になりました。これ、本当はもともと「犬神家の一族」50周年の企画だったのでは?
「犬神家の一族」は凄惨なミステリですが子を思う親の深い愛を描いた名作でもあります。あの有名なBGMのタイトルが「愛のバラード」なことを思えばおわかりでしょう。確かに犬神家も深い闇を秘めた家です。だからといってそれを安易な性的虐待一家にしてしまうのは横溝先生に対してあまりに失礼ではないかと思うのです。
※※ここから先「犬神家の一族」のネタバレ注意※※
「ゲゲゲの謎」と「犬神家の一族」の映画および原作、この三つを全て見た上で一番納得が行かないのがニセ犬神家の長女のキャラクターです。長女のモデルが「犬神家の一族」の犬神松子ならば松子を安易な毒親にするのは「犬神家の一族」というストーリーそのものを否定しているようにしか見えないのです。もしラスボスのモデルが犬神佐兵衛翁で沙代が野々村珠代嬢としたらその配役は「犬神家の一族」ファンとしては到底納得できません。
以上のブログ筆者の見解を踏まえた上で私なりの回答をしていくが、まず最初に映画で登場した龍賀一族は言うまでもなく映画オリジナルの登場人物であり、制作陣はこれまでの原作およびアニメ作品とは一切関連のないキャラクターを観客に見せることになる。そうなると初見で観客にこの龍賀一族がどういう家でどんな人がいるのか、家族内の力関係はどうなっているのかを一発で理解出来るよう工夫しないといけない。テレビと違って録画は勿論のこと一時停止も巻き戻しも出来ない映画というコンテンツで、あれだけの登場人物を動かし、なおかつ彼ら一人一人の役割だったり思惑、更に言えば一族としての歴史を説明し描こうと思ったら、とても104分という尺では収まらないと思うのだ。
そこで多くの人が知っている既存のプロットを利用したというのがこの「ゲ謎」におけるテクニックの一つだと思う。犬神家の三姉妹(松子・竹子・梅子)を彷彿とさせる乙米・丙江・庚子に、犬神家の寅之助に相当する婿養子の克典、そして物語のファーストインパクトとでも言うべき佐清に相当する時麿といった面々を見ても、敢えて犬神家の家族構成を参考にその型をなぞったキャラにすることで、ゼロから龍賀一族について説明せずとも初見で大体の人が「あーなるほど、この乙米が『犬神家』の松子的存在なのだな」と瞬時にわかる。こんな感じで物語の序盤から一気に作品世界に観客が没入出来るよう計算されているのだ。
もしこの龍賀一族が「犬神家」を全く連想させない家族構成やキャラクターになっていたとしたら、観客は家族構成を理解することに頭を使い、それ以外の情報があったとしてもあまり頭に入って来なかったかもしれないのだ。特にゲ謎は殺人事件の謎だけでなく、血液製剤「M」の謎、鬼太郎と哭倉村との因果関係など様々なテーマや情報が詰め込まれた作品でもあるから、最初に観客がインプットする龍賀一族の情報だけで脳の処理がパンクしてしまうような設定・脚本にするのは悪手だと私は言いたいのである。
そして、「犬神家」という既存のプロットを利用すれば、当然観客は「犬神家」を元に物語の展開を自然と予想していくだろう。ここもこの映画で用いられた優れたテクニックの一つで、原作や市川崑監督の映画を知っている人は「犬神家」を愛の物語として描いているから自然と「ゲ謎」もそういうテイストで物語を展開させていくだろうと思い物語を眺める。しかし、本編を見た方ならご存じの通り、龍賀一族は数々の悪行で財を成した一族であり、一族内部でも性的虐待といった様々な闇が渦巻いていた。この予想を裏切る展開と「犬神家」との落差によって多くの観客はショックを受けただろう。既存のプロットを利用すると、こうした形で観客の予想を裏切る物語が作れるのだ。
「じゃあ結局「ゲ謎」は観客を驚かせるためだけに『犬神家』のプロットを利用したのか?それではこの筆者が言うように単なるパクリではないか?」とそう思っただろう。
でも実際は多くの人がこの映画を高く評価しているし、単なるパクリだと思って評価をしている人の方が数としては少ない。その理由は「ゲ謎」が裏口から愛を描いた作品だからだと私は分析している。
本家「犬神家」は表層こそ猟奇的かつ残虐な事件なものの、それを紐解いていくと犯人のある人物に対するひたむきな愛が明らかとなる、そういう正面突破の形で普遍的な家族の愛を描いたミステリだ。一方「ゲ謎」は人間の欲望や醜さを情け容赦なく徹底的に描いているから、一見するとそこに愛や憐憫の情といったものは描かれてないように思うが、私はこれは数学で言う所の背理法の手段で愛というものを描こうとしていたと評価している。つまり、「この世に愛など存在しない。あるのはどこまでも愚かな人の欲である」ということを徹底して描くことで、逆に本来人間が大事にすべき倫理観や道徳的感情・愛の形が何なのか、そういったことが浮き上がってくると同時に、社会的に、或いは経済的に当然だとされた考えが実は一部の権力者を肥え太らせるだけの詭弁であるということまで明らかにする。それを水木先生の「総員玉砕せよ!」だったり原作でも登場した血液銀行、戦争で利用された麻薬といった負の人類史を通して描いたことが他の愛を描いた作品とは一線を画す唯一無二の傑作になったと私はそう分析したのである。
つまり、「ゲ謎」は「犬神家」とは異なるアプローチで愛を描いた作品であり、横溝先生が生み出した「犬神家」を足蹴にした作品でないのは当然ながら、水木先生の戦争体験を反映させたという点でも水木先生生誕100周年に相応しい映画だったと思っている。このブログの筆者は「ゲ謎」は「犬神家」の丸パクリ作品としか思えないようだが、私としてはそれが正しいとか間違っているとかを論じたいのではなく、「そう思うのは自由だけど、こういう考え方・受け止め方もあることは把握しておいてね?」というニュアンスを込めて反論という形で以上の論を提示しておく。
(2025.12.20 追記)
「犬神家」と「ゲ謎」における麻薬の描き方の違い
この筆者がブログのこちらの記事(↑)で指摘しているように、「ゲ謎」の龍賀製薬や血液製剤「M」のアイデアは市川崑監督の映画「犬神家の一族」から得たものであるのはほぼ間違いないとしても、それを単に丸パクリしただけという主張には賛同出来ない。
まず本家「犬神家」で原作から改変して盛り込まれた製薬事業と麻薬の設定は犬神佐兵衛翁の過去に関わる設定であり、自分が本来望んでいたものが手に入らなかった結果、その反動としてあらゆる欲望を手に入れようとした、そんな佐兵衛翁の感情を裏付ける設定として実に効果的であると同時に、麻薬で財を成した一族の子孫がその報いを受けるかの如く殺されるという、ちょっとした因果応報譚としての効果もあったのではないかとそう分析している。
しかし、その麻薬が戦争でどのように使われたのか、そういった具体的なことは映画本編で言及されていない。あくまでも使われたと語られているだけであって、それが兵士が負傷した痛みを麻痺させるために使われたのか、それが敵兵の士気を下げるために使われたのかは分からないのだ。ただこれは別に批判とかではない。戦争の記憶がまだ薄れていない1976年に公開された映画だと考えれば、麻薬の使用用途をいちいち本編で言及せずとも、大体の人が麻薬が戦争でどう使われたのか分かるだろう。それに麻薬の設定自体が物語において重要な位置を占める訳ではないので、そこを具体的に描くメリットは特になかったと思う。
では「ゲ謎」における「M」はどうだったのかという話になるが、この筆者の主張では、
私を含め多くの観客が「日清日露で日本軍を躍進させたもの」という言い方からドM=エナドリのようなものだと推測しました。しかしそれなら他ならぬ犬神もどき家と生臭坊主達が真っ先に服用していたはずだという疑問が残ります。(使ってあの程度だったのかも)
しかし「ドM=ただの麻薬」だとしたらあんがい辻褄が合います。
なーんだそれなら犬神もどき家達が使わなかったのも納得ですね。
水木青年が戦地でドMを注射されていなかったのもおかしいと思いました。パワーアップアイテムなら末端兵士にどんどん使われているはずです。
「水木青年の戦友や同じ部隊の人々がドMを注射されておかしくなっていく過去や描写でもあればわかりやすかったのに、そういうのも無かったので映画として不親切に感じた」
という意見を見ましたが私もそう思います。
と述べており、要は「そんな便利な薬なら作った本人が摂取すれば良いんじゃないの?」「末端の兵士にまで薬が行き渡っていないのはおかしいんじゃないの?」というのがこの筆者の主張だろう。
まぁあくまでも「M」はフィクションとしての薬なので断定的な反論は出来ないにせよ、資本家(この場合龍賀一族)というのは自分たちが楽をするために労働者をコキ使うのであって、別に自分たちの能力や労働力を向上する(要は働こうという意欲)つもりなんて最初からないのだから、自分たちが薬を飲む必要なんてないし、それだったら労働者に飲ませて馬車馬のように働かせて、そこから得た利益で私服を肥やす方がずっとメリットがある。どうもこの筆者は資本家というか搾取する側の考えをまるでわかっていないように思える。
そして「M」が第二次世界大戦時に水木ら末端の兵士にまで行き渡っていないというのは、そもそも「M」の原料となる幽霊族の血が枯渇しつつあったと考えれば全然おかしくはない。日清日露戦争期(1894年~1905年)は供給に余裕があったと思うが、原料となる幽霊族を狩り尽くしてしまっている以上、その供給が先細りになるのは明らかで、特定の顧客にしか卸さないという販売戦略をとったのもそういった事情による所だろう。ちょっと考えればこれくらいの推測は立つし、戦時中水木がいた部隊を含む全ての兵士にその供給が行き渡らなかったのも当然なのである。
あと個人的な深読みとして、本作で描かれた血桜とそれに囚われた幽霊族が血液銀行の売血問題を隠喩しているのだとしたら、何の栄養も与えられずに囚われたままの幽霊族の血液は日清日露戦争期と比べたら血液としての質が落ちていたのではないかと私は思うし、だから第二次世界大戦期ではその効力が存分に活かせず敗戦した…という風にも解釈出来る。血液銀行の社長は「不死身とまではいかんが、効果は絶大」だと述べていたが、日清日露戦争期の「M」と比較した訳ではないだろうし、効果はあったにせよピーク時に比べれば質は落ちていたと考えるのが自然だろう。
そしてそう考えれば、時貞がゲゲ郎の妻が身ごもっていたことにあれだけ喜んだのも納得がいくのである。最初は「たかが幽霊族の子供が一人生まれたくらいで何でそんなに喜べるのかな…?」と疑問に思ったし、その短絡的思考に多少引っかかりを覚えたけど、これが血液の量ではなく質に対しての喜びだとしたらどうだろうか?既に出がらし状態の血よりも、新生児の新鮮な血液の方が効力が高いというのは素人でも想像がつくことで、その質の高い血で製造された「M」で再び大躍進を図ろうとしていた。つまり自分にとって都合の良い"馬車馬"を増やそうとしていたということになるのだ。
以上の推測はあくまでも私の勝手な想像なので、別に否定してもらっても全然構わないがいずれにせよ、単なる「犬神家」の丸パクリではこのような設定にはならない。売血という社会問題と戦時下における麻薬の使用を結びつけるアイデア、そこから派生して描かれる資本家と労働者の搾取・被搾取の関係性は正に見事という他ないし、第二次世界大戦における諸外国のことをいちいち本編で描かずとも、麻薬が第二次世界大戦下で使われていたというのはドイツのペルビチン然り、イギリスのベンゼドリン然り、日本のヒロポン然り、世界各国で行われた罪過であるというのはネットで検索しようと思えば容易くわかることであり、そういったある種普遍的なテーマを描く上で欧米との関係だったり敵国に対する恨みまで描いていたら却って物語のテーマ性が散漫になる。要は「結局この映画って何が言いたかったの?」という風に観客に受け取られてしまうことになったかもしれないのだ。
(2025.12.28 追記)
そう言えば、「ゲ謎」の血液製剤「M」に関連している映画を思い出したので参考までに紹介しておこう。
その映画というのは1932年にアメリカで制作された「ホワイト・ゾンビ」(邦題は「恐怖城」)という映画で、異国の地ハイチを舞台にした元祖ゾンビ映画である。この映画で登場するゾンビは近年の「バイオハザード」シリーズなどでよく見られる人に襲い掛かるゾンビではなく、呪術師によって操られる生きた屍として描かれている。映画のあらすじは省くが、この映画のゾンビは呪術師が経営する工場で飲まず食わずの状態で働かされている。ここまで言えば「ゲ謎」との関連性が見えて来るだろう。
幽霊族の血液を輸血され屍人と化した人たちは言うなればゾンビであり、そのゾンビの血を精製した薬で労働者を飲まず食わずで働かせるという発想は、「ホワイト・ゾンビ」におけるゾンビを奴隷として利用するプロットに通ずるものがある。勿論これは「ゲ謎」が「ホワイト・ゾンビ」のプロットをパクったとかそういうことを言いたいのではなく、「ゲ謎」が古典的なゾンビ映画にも通じる作品であるということ、そしてそれは過去の有名作品の単なる模倣ではなく原作「鬼太郎の誕生」における描写を換骨奪胎させた上で生まれた独自のアイデアであることを伝えておきたかったのだ。
龍賀時貞が過去のない絶対悪として描かれた理由
ほんで「ゲゲゲの謎」ですが。
ラスボスはなぜ妖怪一族を食いつぶし身内に手を出して色と欲に溺れたのか、一体いかなるバックボーンがあったのか?
ぜんっぜんわかりません。
わかる人います?
犬上もどき家には「犬神家」のような深いバックボーンがありません。
だからどうしても「深い人間ドラマ」とやらに見えないのです。
たった1時間半程度の映画なのにキャラが多すぎとか、それなのにキャラクターの心情描写がいいかげんだとか良くない感想は多々ありますが、佐兵衛翁のようにバックボーンが全く描かれていない事もその一因です。
犬神もどき家がいかにしてドM家業に手を染めたのか、この脚本でその行程が全く描かれていないのは不親切に感じます。
犬神家の佐兵衛翁はなぜかケシの栽培や麻薬の製造法に精通していました。
映画の中でその理由の説明はありませんでしたが旅の中で知ったんだろうなと想像できます。
しかし「ゲゲゲの謎」でドMに対する説明がないのはあまりに不親切に思いました。いかにして生臭坊主達は幽霊族の血を薬にする方法を知りえたか、ついでに幽霊族の血を吸っても平気なケチャップ桜はどういう妖怪(術)なのか。
これらは本来、物語の中で絶対に明かされなければいけない設定です。
しかしまったく明かされていない。
引用した文は筆者が時貞の来歴や「M」製造に至るまでの背景を描いていないことに対する批判だが、確かにこういったフィクションにおいて悪役の背景を描くことは非常に重要であり、絶大な人気を誇る「鬼滅の刃」にしても物語のテンポが悪くなるのも承知の上で悪役となる鬼たちの過去を丁寧に描いている。なので別に批判としては全然おかしくないのだけど、私は時貞に過去背景が用意されず、同情の余地もない絶対悪として描かれた理由を答えることが出来るので、「わかる人」としてこの批判に返答させていただく。
まず「ゲ謎」に否定的な考えを持っている人だけでなく、この映画を高く評価している人にも言っておきたいが、この映画を単に昭和日本の闇を描いただけの作品だと、そう思っているとしたら、
非常~に勿体ない見方だぞ!!
この作品で描かれた悪というのは何も昭和の、それも日本に限った話ではない。人類が誕生してから現在に至るまでの数々の暴虐と邪悪な欲望を凝縮させたもので、その象徴として描かれたのが龍賀時貞なのである。一応劇中で時貞は「昭和の天下人」と自称しているが、別に昭和という時代が生んだ悪ではない。そういう点では6期で登場したぬらりひょんの方が昭和的悪の権化だったと思うのだ。
で、もし仮に時貞に過去が描かれていたと考えてみよう。例えば「犬神家の一族」における佐兵衛翁みたいに、過去に人間関係で大きな傷を抱え、その反動で人が信用出来なくなり、家族でさえも道具として利用する悪人になったとしよう。そうすれば観客はその境遇に同情するか、或いは「いや、それでもこのような行為は許されない」と憤慨するだろう。そうして物語の世界に浸って終わるのである。
そう、それだけで終わってしまうのである。
つまり、悪役に過去背景を描くということは「この世界にある悪の一つの形」を描くことは出来ても「この世界における全ての悪」を描くことは出来ない。それはあくまでも物語として消費出来るに過ぎない悪であって、この現実世界における悪というものに対して向き合った作品とは必ずしもなり得ないのである。現実世界ではもっと残虐で不条理な悪行を行った者が歴史の中で幾人も生まれているし、その不条理に対して様々な理由や説明付けを行っているが、それでもこの世から悪は消えていない。
何故なら悪という概念は善と同様に相対的なものだからである。
時貞の欲望は「食欲・物欲・性欲」という誰もが持ち得る根源的な欲であったと思うし、これ自体は何ら罪ではない。問題なのはそれを得るために他者の権利や自由・尊厳を踏みにじったというこの一点であって、それはいかなる事情や理由があれど許してはならないし常に問い続けなければならない。時代や生まれた場所・人種・年齢・性別・思想、そんなものなど一切関係のない罪悪なのだ。それを観客に分かってもらうためには、たとえ批判の対象となっても安易に過去背景を描いてはいけないと私は思うのだ。
何故ならその背景を描いた時点で「ああ、時貞って昭和が生んだ悪なんだ。じゃあ今の時代には関係ないよね」とか「そういう人生を送った人が悪の道に堕ちるのか」といった形で、今現在の問題として扱わず過去の問題として捉えてしまったり、安直な思考・差別的な発想で悪というものを分析してしまう。でもそれではダメなのだ。
時貞のような邪悪な者、邪悪な罪は時代や国を超えて確かに存在する。これが実在の人物、例えばアドルフ・ヒトラーのような戦争犯罪者の場合、その悪行を分析するにはどうしても彼の来歴や経歴、生まれ育った環境や社会的背景を考慮に入れないといけない。でもそれでは人類が持つ根源的な悪の正体には辿り着けないのである。
過去背景を描かずに悪を描けるのはフィクションだからこそ出来る芸当だと思うし、いさぎよく過去背景をカットした純度の高い邪悪を描いたことがこの作品の評価に影響を及ぼしたのは間違いない。そして、今現在だけでなくこの先の時代においても通用する物語になっていると思うし、日本のみならず海外においても、この作品で描かれたことはきっと理解してもらえるとそう信じている。
日本を舞台にした作品だから時貞を異常に感じてしまうが、時貞に類する悪人は世界に目を向けると例えば「血の伯爵夫人」の異名を持つエリザベート・バートリや、サディズムの語源で知られるマルキ・ド・サドなどがいる。いずれも暴力や虐待行為に快楽を覚えた人々で、悪を語る上では外せない存在だ。興味がある方は是非調べてみてもらいたい。(強くは勧めないが…)
さいごに(フィクションだからこそ描けた戦争の本質)
まだまだ語りたいことがあるけど、これ以上は長くなるので一旦これで終えるが、最後にこちらの記事を紹介しておきたい。
こちらの記事は「ゲ謎」と同様戦争を題材とした「ペリリュー -楽園のゲルニカ-」を批評した内容だが、注目してもらいたいのは3つ目の項目で言及されている「フィクション」だからこそ真実に迫り、「アニメ」だからこそ描けたことがあるという指摘だ。
ノンフィクションには戦場のすべてが描かれているわけではありません。元日本兵は自分の不名誉なことだとか、触れられたくないことは語りません。そういう意味では、フィクションとして描いた方がより戦争の真実に迫れることもあるのです。
引用したのは戦史研究家で「ペリリュー」の原作漫画の監修を担当した平塚柾緒氏が原作者の武田一義氏が物語をフィクションにするかノンフィクションにするかで悩んでいた際にアドバイスした言葉だ。これに関しては私も深く同意したい。
というのも、私が大学で日本史学を専攻していた際に近現代史を担当していた先生がこんな話をしていた。
「第二次世界大戦後、東京のあちこちの焼却炉で煙が上がっているのが目撃された。これはGHQに見つかってはまずい書類を政府や軍の関係者が燃やしていたからだ」
うろ覚えだが確かこのような話をしていたと思う。この話からもわかるように、記録として現存しているものだけでは本当にあったことの全てを理解することは出来ないのである。特に戦争は一つの犯罪である以上、後ろ暗い過去や都合の悪い事実を記したものは戦後すぐに焼却処分されたり改ざんされたりしているので、その本質に迫ろうとするとなるとフィクションの力を借りる必要があると思うのだ。
『「ゲゲゲの謎」は矛盾だらけ』の筆者は、「ゲ謎」が欧米列強や諸外国のことを描かず日本だけがまるで悪者のように描き、偏った思想を観客に押し付けている映画だとそう批判していたが、以前も私が指摘したように「ゲ謎」が描いた戦争というのはそんな教科書を読めばわかるレベルの戦争を描いた話ではない。哭倉村の事件を通して「戦争を起こす人間の心理」に迫った作品だとそう私は評価しているのだ。
第二次世界大戦では「大東亜共栄圏」という構想を元に、西洋の脅威からアジア諸外国を守るのだ、そのためにアジア全体が団結して鬼畜米英をやっつけるのだなどと、もっともらしいスローガンや思想が掲げられたが、そういった大義名分の下で多くの人々が犠牲になったのは言うまでもないし、戦前そういった思想を子供たちに教えていた教師が戦後何ら反省もせず、悪びれることなく掌返しの教育をしていたという話も聞く。
アニメ鬼太郎の脚本を担当していた作家の辻真先氏も、毎日新聞のインタビューで戦時中生徒に「いま死んでこそ、日本男児だ!」と「人生20年」という教訓を掲げて指導していた先生が、その後80歳までしれっと生きていたことを語っている。これは水木先生の「総員玉砕せよ!」でも描かれた人間のずるさを物語っていると言えよう。
この「総員玉砕せよ!」という物語は、九十パーセントは事実です。
ただ、参謀が流弾にあたって死ぬことになっていますが、あれは事実ではなく、参謀はテキトウな時に上手に逃げます。
――水木しげる『総員玉砕せよ!』あとがきより引用
「ゲ謎」本編で水木ら兵士たちに玉砕を命令しておきながら「自分は兵団長閣下に報告する義務があるから」と言って死ぬことを回避しようとした参謀の姿から感じられるずるさは、原作のあとがきで水木先生自身が述べていた事実に基づくものだと思う。どんな崇高な理想やスローガンを掲げようと、そう易々と「死」という選択肢がとれないのは生物として当然の本能であり、にもかかわらず人は他人に対して犠牲を強いることを平気で行う。
これは戦争だけでなく災害等のトラブルが起こった際にも見られる普遍的な人間心理だとそう私は思うし、「犠牲となることに(動物にはない)人間としての価値がある」などと、そう信じている人だっているだろう。だから戦記ものにおいては雄々しく死の恐怖から逃げずに散っていた兵士の美談がしばしば語られる。そこには権力者や上官の言いなりになってではなく自分の意志で犠牲を選んだという、崇高な精神の存在があることを強く信じている人がいるからであり、犬死にとして語るのは死者に対する冒涜になる、だからその雄姿を語り継ぐことが戦死者への供養になるのだと、そういった理由から語られる戦争作品もあるのだ。
まぁ私としてもそういった崇高な精神を抱えて散華した兵士がいなかったなどと完全否定するつもりはないし、人が掲げる理想やスローガンに価値がないというニヒリストめいたことを主張するつもりもない。
ただし、戦時中の政治家・独裁者・権力者といった人々はそんな人類の崇高な理想やスローガンを自分たちの私腹を肥やすために利用していた面があることは絶対に覚えておいてもらいたい。権力者がもっともらしい理想や美辞麗句を語る時には、無批判にその言葉を受け入れるのではなく、(たとえ間違っていたとしても)その裏に内在するマイナスの感情や欲望まで読み取らないといけない。そうしないと、また日本は同じ過ちを繰り返すことになるだろう。
「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」が戦争映画としても評価されているのは、戦時中に掲げられた様々な理念の裏に隠された人間のずるさ・愚かさを抉り出したこと、そのずるさを誤魔化すために権力者がもっともらしい論理や思想をこねくり回して国民をコントロールしていたことを描いた点だとそう分析している。そうやって自己保身のために他者を犠牲にし、その自由と権利を踏みにじった歴史があったことを描きながらも、子供の未来のために進んで犠牲となったゲゲ郎を描いているのも素晴らしいポイントだと思う。
他者を犠牲にする人の心が真実ならば、自ら犠牲となる人の心もまた真実である。どちらか一方が正しくて、どちらかが間違っているということではない。この表裏一体とも言える心理を描いたことが多くの観客を感動させた理由の一つだとそう思っているし、それが理解出来ない人がいるのは、非常に残念としか言いようがない。
【その3】に続きます!