再放送をリアタイ視聴した方なら承知していると思うが、来週からデジモンに戻るとのこと。
来週からはデジモンに戻るようですね。日常が戻る兆しで何よりだと思います。#ゲゲゲの鬼太郎
— タリホー@ホンミス島 (@sshorii10281) 2020年5月31日
枕返し回で終わらせるのは、鬼太郎再放送の夢が覚めるという意図的な演出なのか。#ゲゲゲの鬼太郎
— タリホー@ホンミス島 (@sshorii10281) 2020年5月31日
という訳で、どうやら鬼太郎の感想記事はこれがホントの最後となりそうだ。
枕返し
14話ゲスト妖怪「枕返し」
— タリホー@サラリーマン山田 (@sshorii10281) 2018年7月1
原作「まくら返し」に登場。小さな仁王のような姿をした夢の世界の住人。夢の世界によく来る子供を見つけると、現実世界に現れて、その子供をさらい食べようとする。目に入ると眠くなる眠り砂を持っている。塩が弱点。#ゲゲゲの鬼太郎 pic.twitter.com/GVYs3HQaXp
寝ている人の枕を動かしたりひっくり返す怪異、という点は各地の伝承で一致しているがその正体は様々で、怪異の起こる部屋で死んだ(或いは殺された)人の霊の仕業だとか、座敷童子の仕業だと言われている。
Wikipedia の記事では木を切られた木の精が枕を返して木こりたちを殺した話が和歌山県にあると記されているが、同様の話は富山にもあり、アニメ「まんが日本昔ばなし」で「十六人谷」として放送されている。「十六人谷」の方は枕を返すなどというファンタジックな殺し方ではない、おぞましい殺し方で木こりたちに復讐を果たしており、それ故「まんが日本昔ばなし」中屈指のトラウマ回として有名だ。
枕返しはアニメでは1・3・4・5期に登場したが、比較的原作準拠だったのは4期でそれ以外の期は退治方法が原作と異なり、獏を用いている。
獏は想像上の生物であり、原作のおばけ旅行編では悪い妖怪として登場するが、アニメでは悪夢を吸い取る善性の妖怪として描かれている。唯一1期の獏は想像上のビジュアルではなく、実際の動物と同じ見た目で登場し枕返しを退治した。
原作の枕返しは塩が弱点で、身体にかかると溶けてしまうというナメクジみたいな体質らしいが、やはり理屈に合わないし地味だから獏に退治させる方向に改変されがちということだろう。
今期の枕返しはOPの法則に則り善性の妖怪として描かれている(過去に高僧に懲らしめられて改心)が、同様の描かれ方をしているのは3期のみで、あとの1・4・5期は完全な悪者として退治されることとなった。
捨てる神あれば拾う神あり
©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション
今回の枕返し回は6期オールタイム・ベスト級のエピソード10選として以前の振り返り企画でカウントに入れている。
そこでざっとこの回の凄さを言及しているが、改めてこの回の凄さを解説しようかと思う。
①「目玉おやじイケメン化」という盲点
©水木プロ・フジテレビ・東映アニメーション
やはりリアタイ視聴時にビックリしたのが、目玉おやじのイケメン化。何も知らない人や鬼太郎ビギナーの人からしたら話題性を狙っただけの展開だと思うし、確かにそういった目的はあったかもしれないが、私はこれを見た時盲点を突かれたなと思った。
そうなんだよな、私らが知ってた鬼太郎の父親は病気以降の姿であって、それ以前の健康体の時や若い時の様子は未知だったから、そこに着目してその姿を創造し描いた6期はエライよ。#ゲゲゲの鬼太郎
— タリホー@サラリーマン山田 (@sshorii10281) 2018年7月1日
原作「鬼太郎の誕生」で目玉おやじが目玉になる前の姿が描かれている。この時は身体を不治の病に冒され、全身包帯を巻いた大男の姿をしていたが、あれは言ってみれば鬼太郎父の晩年期の姿であって、幽霊族が栄えていた全盛期の姿は描かれてこなかった。だから、目玉おやじが今回の様にイケメンでなかったと完全に否定は出来ないし、夢の世界という特殊な舞台を利用してこれを描いたのが凄いと言えるのだ。
また、今期は目玉おやじを初代鬼太郎の野沢雅子さんが担当しているため、今期の目玉おやじは初代鬼太郎が親の立場にまわった、という一面も少なからずあり、目玉おやじのイケメン化は初代鬼太郎が親として成長した姿だと解釈出来る部分もある。
つまりこの度のイケメン化は話題性は勿論のこと、原作ファンの盲点を突いた意外性があり、子が親の側に立つという鬼太郎アニメシリーズの歴史を感じさせる神がかり的演出だったと評価出来る名場面なのだ。これまで鬼太郎の手に抱かれる形だった目玉おやじが親として鬼太郎を抱いたのも初めてのことであり、それが余計に胸熱なんだよな。
②人間の相反する性格描写に成功
この回が神回たるのは、30分にも満たない尺で今回の敵役である「夢繰りの鈴の少女」の背景をまじえながら人間の相反する性格を描いていること。
マサシと父・タカノリが夢の世界から逃れられたのは、ひとえに互いを想う親子の「絆」があったからで、それがタカノリにとって明日を生きる糧となり希望となる。先の大震災で「絆」が人々によって叫ばれ、人と人のつながりが大事だと説かれたことは知っていると思うが、そうやって「絆」を尊ぶ人間も時と場合によっては何の抵抗もなく「絆」を断ち切ってしまうのだ。
今回は正に「絆を断つ」エピソードが随所にあるが、例えば枕返しを退治し夢繰りの鈴を奪った高僧。彼は枕返しから子供たちを守った人でありながら、洪水が起こった際には川の神の生贄として少女を犠牲にしている。
そしてタカノリの周辺状況も悲惨なもので、会社からはクビを言い渡され、離婚した元嫁からは「あなたがいない方が子供の成長には良い」と言われ、就職活動をしても中高年ということもあってか相手先が求めに応じてくれない。
こうやって見てみると、夢をなくして夢の世界へ行ってしまった大人たちは社会的な絆を断たれた(或いは絆を断ちたいと思った)者たちの集まりであったと言い換えることは出来ないだろうか?そうやって社会との絆を断った彼らは夢の世界で永遠の幸福を求めたとは言えないだろうか?
夢繰りの鈴の少女は強制的に社会との絆を断たれた子であり、タカノリも半ば本人の意思とは裏腹に社会から捨てられた存在である。時代も事情も異なるとはいえ、両者は全く違ってはいない。むしろ社会の残酷な一面を浮き彫りにした象徴であり、リストラも言い換えれば会社の秩序を守る上での生贄みたいなものだ。そんな社会へと戻るタカノリ親子に対して浮かべた少女の笑みこそ、問題の根源が現代に今もなお残っていることを示している。
直接殺されるケースはまれになったが、社会的に追い詰められて絆を断たれて犠牲となった人は今でもいるし、「絆」が叫ばれた2011年から9年経った今でも、人間はそれほど優しく慈しみ深くなった訳ではない。犠牲を伴う平和を人々は半ば黙認している。
この人間社会の残酷さは鬼太郎作品にも流れているテーマの一つで、鬼太郎の先祖の幽霊族は人間社会の台頭によって滅ぼされている。その一方で鬼太郎が人間と妖怪の平和のために戦うのは、水木青年によって育てられたことで生じた「絆」あってのことだ。
絆による救済と社会的追放という矛盾した性質をもつ人間を守る鬼太郎の正義感を、かつて水木先生はバカだと言っていた記憶がある。自分が生み出したキャラをバカというのも変な話だが、やはりバカでないとこういう無償の救済は出来ない、ということなのだろう。かのチャップリンも映画「独裁者」のスピーチで「知識を得た人間は優しさをなくし、心の通わない思想で人間性が失われた。知識より大切なのは思いやりと優しさ、それがなければ機械と同じだ」と訴えかけたのだから。
以上、今回の枕返し回は話そのものの面白さだけでなく、テーマの奥深さがあることもわかっていただけたと思う。