タリホーです。

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これは心の輪郭を縁取る物語(映画「殺さない彼と死なない彼女」を改めてレビュー)

殺さない彼と死なない彼女

2019年の年末に私が映画「殺さない彼と死なない彼女」を観たことは既に当ブログで語ったが、

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あれから3年が経ち、適応障害が原因で仕事を辞め心がグチャグチャだった2019年からだいぶ持ち直した今改めて本作を視聴すると、映画を観た当時よりも具体的な感想が出て来たので改めてレビューしようと思う。当時の感想は映画公開中だったのでネタバレなしの感想だったが、今回はネタバレありでレビューしていきたい。

 

「心の輪郭」というアイデア

本作の登場人物の行動や思想にはそれなりの背景がある。小坂の気だるげで無気力な態度は怪我が原因でサッカーの夢を諦めざるを得なかったからという理由があるし、きゃぴ子があそこまで他者からの愛を求めるのには幼少期に親から愛情を注がれずに育ったという背景あってのことだ。

しかし、死にたがりの鹿野については「死にたがりの背景」が劇中で一切描かれていない。原作や映画を観た時は、背景を具体的に描いてしまうと人によっては彼女に共感出来なくなる、つまり「その程度で死にたいとか思っていたの?ww」という具合に視聴者(読者)が幻滅しないよう意図的に情報がカットされたのだろうと思っていた。

 

だが、今改めて見るとこれは背景云々の問題ではないのでは?と思う。というのも以前YouTube名越康文先生のチャンネルで存在論的うつという存在があることを聴いた時私は、鹿野が抱える「死にたい」という思いも、実は存在論的うつに近いものだったのではないかと思った。

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存在論的うつについては動画を見ていただければわかるかと思うが、ざっくり言うと自分が生きている意味を見いだせない漠然とした不安や抑うつ的感情を指す用語だ。一般的なうつ病とは違うし私も専門家ではないので、動画で語られている以上のことは言えないが、物語の序盤で描かれた蜂の死骸を埋めに行く鹿野の場面を深読みすると、彼女が抱えていた生きづらさが何となくわかる気がする。

 

変なことを言うようだが、蜂は自分が生きている意味など知らないし知ろうともしない。自分がやったことが周囲にどのような影響を及ぼすかもわからない。でも私たちが蜂の存在意義や自然界における役割を知っているのは、人類がそれを観察しデータを記録し研究してきたからで、当事者である蜂は知る由もない。

当たり前と言えば当たり前の話だが、要は何が言いたいかというと自分のアイデンティティとか存在意義って第三者の認知がないと形作られないのではないだろうか?という話だ。

これはかつてアイルランドの哲学者ジョージ・バークリーが「誰もいない森の奥で木が倒れた時、木は"音を立てて"倒れたと言えるのか?」という問いかけをした話に通じる。音は空気の振動を耳で「音」として変換して聞く動物がいて初めて存在する、つまり自分が存在するということは相手が自分を見聞きすることで「私は存在している」と言えるのであって、その相手がいないと自分の存在はないに等しいと、まぁ大雑把な感じで説明するとこうなる。

 

以上のことを鹿野に当てはめて考えてみると、鹿野も蜂の存在意義については学校の授業とかで少なくとも知っていたと思う。花の花粉を運んで受粉に貢献しているとか私もそのくらいしかパッとはわからないけど、そんな蜂が学校の教室内にいると害虫として殺されゴミとして捨てられてしまう。いる場所が草原か教室かという違いだけでこのような最期を遂げるのだから、(人間はともかく)蜂からしたら残酷な話だと私も想像ははたらく。

鹿野は蜂を埋葬する際に自分と蜂を重ねて泣いていたが、ということは鹿野自身も今の自分の居場所(学校・家など)が自分に合っていないか、いるべきではないという居心地の悪さを感じていただろうし、それでもその場所で生活しなければならないことに対して漠然とした不安や絶望みたいなものを抱えていてもおかしくはないだろう。※1

 

これが鹿野の「死にたがりの背景」だと勝手ながら考えた次第だが、こういう漠然とした居心地の悪さとか「死にたい」という考えを打破する方法ってそうそうないから厄介だし、映画や原作でもあるような「世界には生きたくても生きられない人がいる」とか「生きていたら良いことはある」という論って結局相対的な見方で自殺を否定しているだけだし、悪い意味で誰にでも当てはまってしまうからピンポイントで自殺を思い止まらせることにはならない。だから当事者には響かないし上滑りしてしまう。

 

そんな彼女の心を生の方向へ導いたのが他ならぬ小坂である。最初は野次馬根性的な好奇心から接触した彼だけど、彼が鹿野と関わったことで彼女の不定形で固まらない心生きるべきか死ぬべきかわからず日常を過ごす心)が徐々に固まっていったというか、心の輪郭とでも言うべきものが出来上がった感じがした。

何を考えているかわからない上に普段からリストカットしている女子高生のことだから、周りは腫れ物に触れるような態度をとったり、或いは全く見当違いな自殺の否定論を説いて彼女に関わったのかもしれないが、小坂の場合は同級生としてフラットに、そして綺麗事とか一般論ではないアプローチで鹿野に接していた。

勿論素人のことだから言い過ぎたりやり過ぎたりしてうまくいっていない時もあったが、結果的に小坂の存在が鹿野のアイデンティティを確立させることにつながっている。彼こそ鹿野の存在を認知し存在を受け入れた第三者であり、鹿野もまた彼の存在を認知し受け入れたから、彼の死後も彼女の夢の中にあれだけハッキリと現れたのだろう。

 

※1:鹿野が存在論的うつを抱えていると思しき描写はこれ以外にも原作の108ページに載っている「どこへ行くのか」という四コマ漫画からもうかがえる。

 

サイコキラーくんのネクロフィリックな愛

鹿野と小坂を物理的に離れさせた本作の悪、サイコキラーくんは社会的に許されざる愛情表現を行った人物である。恋人を永遠に自分のものにしたいがためにその恋人を殺害するというこの考えは、ネクロフィリア(死体愛好)の思想と通じている。

ネクロフィリアは狭い意味だと死体に性的興奮を覚えるとか死体とセックスするとかそういうえげつない話になってくるが、本作のサイコキラーくんの場合は彼女を殺すことで変化しない恋人を得ようとしたと表現するのが正確かなと思う。

 

生きている人間は絶えず変化している。それは肉体だけでなく心だって同じであり、永遠の愛が存在しないというのはある意味真理であると言っても良い。どんなに大好きな恋人がいても四六時中その人のことを考えている人はいないだろうし、思わず別の女性に目移りするとか、恋人のちょっとした態度・仕草に百年の恋が冷めたという話はよくある。それだけ生命というものは移ろいやすいし予測不能でランダムなものだ。※2

予測不能でランダムな生命(人間)の性質は恋愛物語における悲喜劇を盛り上げる一方、このランダムさを嫌がる人もいるわけで、人の心を均質で整然としたものにしたがる人もいる。サイコキラーくんは恋人には永遠に自分の者でいて欲しい、でも相手の恋愛感情までコントロールは出来ないし、彼女の男性遍歴は変えられない。だから死によって恋人を不変の存在にしたというのが彼の理屈だろう。

 

確かに死は生よりも扱いやすい。でも所詮は一方通行で独りよがりなんだよね。コミュニケーションを無視してまるで子供のおままごとのように自分の中だけで完結してしまう。この身勝手さというか未熟さがサイコキラーくんの心を形作っていると言える。

 

※2:ネクロフィリアに関しては以下の動画を参考にしました。

【毒親=精神的に未熟な人?】精神科医と漫画『血の轍』を読んでみた/漫画さんぽ - YouTube

 

「死なない彼女」としての決意

小坂が殺され帰らぬ人となったことで鹿野は「死なない彼女」として小坂の記憶を胸に生きていくというのが本作の結末となるが、誰かの死を通して自分の生がより強固なものになるというのは割と他の物語でも見かける展開だ。(言い方は悪いが)ある意味巷にありふれている展開とも言えるが、個人的に改めて見ておっと思った場面がある。

 

鹿野が小坂の葬式にいた場面、小坂の死に顔が「眠っているみたい」と言う列席者に対して彼女は「そんなに言うなら彼の目を覚ましてみせろよ!」と声を荒げるのだが、あそこで鹿野に生じた怒りって小坂の死が普遍的なものになってしまうことに対する怒りだと思う。勿論、これ以上遺族を悲しみの淵に叩き落とさぬよう気をつかって「眠っているみたい」と言った人もいただろうが、鹿野にとって小坂は特別な存在だった。そんな彼が異常な思想を持った男に殺されたにもかかわらず、彼の葬式は至って普通であり列席者の言葉も他の葬式と何ら変わりない、ごくごくありふれた言葉しか飛び交わない葬式だったに違いない。

 

しめやかに、静かに葬儀を行うというのは故人が安心してあの世に旅立つことを願ってという意図があるためダメではないが、世間一般と同じ様相を呈した葬式に紋切り型のお悔やみの言葉が鹿野にとっては小坂の死が世間から見ればありふれた死となって扱われるということを意味したのだろう。そうやって「運悪く殺された男子生徒」という程度の記憶で片付けられてしまうことが許せなくて声を荒げたと考えれば、あの場面こそ鹿野が「死なない彼女」として彼の存在を霧散させないことを決意するに至った瞬間と言って良いのではないだろうか?

 

「山」のきゃぴ子

小坂・鹿野ペアについては以上となるが、きゃぴ子・地味子ペアと撫子(原作の君が代)・八千代ペアについても言っておかないと公平ではないよね。

 

この二組もある種のトラウマというか葛藤を抱えた存在で、きゃぴ子は基底欠損※3から過剰に愛を求めてしまう女子高生だし、八千代は過去に好きだった女性を救えなかったことが原因で人を愛することが怖くなっていた。きゃぴ子も八千代もタイプは全然違うが愛に対するトラウマを抱えているという点では共通していると言えるかもしれない。

 

さて、改めて視聴するときゃぴ子と撫子って凄く対照的な二人だなと思わされる。

きゃぴ子は愛に飢えているから一見すると愛情表現と思えるものなら何でもOKかと思いきや、意外と彼女なりにこだわりがあるようで「こう言ったらこう返してくれないとイヤだ」とか「そう言うと思ったからこんなことを言ったのよ」みたいに計算高い一面もある。このきゃぴ子のパーソナリティーを一言で表現するなら「山」だろう。麓の街から眺めたらどこからでも登れそうだけど、実は入念な準備とルートを確認して登らないと頂上までたどり着けない感じの山だ。

 

そしてきゃぴ子が求める愛情と、恋人となる男性が求めるものがズレているのも彼女を(来る者を拒みはしないが頂まで辿り着かせない)山にしてしまっている。きゃぴ子は一般的な恋人同士の関係で穴は塞がると思っているのかもしれないけど、実際は恋愛感情ではなく母性的・家族的な愛でないと彼女の穴は塞がらない。それなのに一般的な恋愛で塞ごうとするから過剰になってしまうし、相手の男性も多分自分が望むものをきゃぴ子は与えてくれないから長続きしないと思う。

 

きゃぴ子本人は自分の可愛さを売りにしている所があるからそれが相手の需要を満たすと思って供給してるつもりなのだろうが、男性って結構社会的な生き物だから最初はきゃぴ子との甘々な関係に憧れるけど、結局飽きが来て実際的・実用的なものを女性に求めてしまう。劇中できゃぴ子の部屋が映っていたけど、いわゆるユメカワテイストの部屋で生活能力を感じさせない部屋だったでしょ?そーいう所で見切りを付けられちゃうんだよね。

まぁ、視聴者(読者)はきゃぴ子の境遇を知っているから男性側が自分勝手に見えるかもしれないけど、きゃぴ子の境遇を知らなかったら多分女性でも「あーこれは私でもちょっとね…」ってなると思うけどな。

 

そんな彼女を支えるのが地味子だけど、地味子のきゃぴ子に対する接し方は友情でもあるし母性というか、親目線の眼差しも含まれている感じはする。異性(男性)の恋愛感情は相手に対する欲求・要望が強いけど、それではきゃぴ子の心の穴が塞がらないのは当然で、相手を心配するとか思いやる心がないときゃぴ子の底の抜けた鍋のような心はいつまで経っても底抜けのままだろう。

 

「海」の撫子

きゃぴ子に対して撫子は「海」と評すべきだろう。きゃぴ子が極端過ぎるので比較対象として適切ではないかもしれないが、撫子は相手に対して注文というか要望がほとんどない。むしろ、「八千代くんならどんな形であれ私は受け入れるわよ!」って気概が感じられてその雄大さは母なる海そのものだ。

「海」である撫子は本来なら向かってくる者を受け入れる立場の人間だけど、面白いことに「海」が特定の個人(八千代)に積極的にアプローチを仕掛けている。だから最初撫子を見た時に「海」の要素は感じられなかったし、執拗に相手に好意を伝えるから何かトラウマを抱えているのかと思ったのだけど、八千代の心理的背景が明かされて最終的に彼だけでなく彼が愛した女性も幸せになると受け止めた時に、ああトラウマを抱えていたのはむしろ八千代の方で、彼女が母なる海として彼を受け止める存在だったと気づかされた。

告白を日課にしているのも例えるならそれは寄せては返す波のようなもので、別にトラウマが起因ではなくある意味自然の胎動とでも言うべきものだったのだろう。

 

※3:基本となる信頼関係が欠如した状態を指す。きゃぴ子の場合は幼少期に親との関係が希薄で愛してもらえなかったという過去があるため、地盤となる信頼関係が存在せず、不特定多数の人間からの愛情で心の穴を塞ごうとしたと考えられる。

 

さいごに

原作では三組のペアが相互に影響を及ぼすことはなく、それぞれが単独の物語として成立しているのだが、それを一つの物語としてまとめ、グズグズに固まらない心の輪郭を縁取る物語として成立させた小林監督は凄いと思う。

「心の輪郭を縁取る物語」というのは私が映画を観て勝手に決めたテーマなので別に公式のテーマではないのだけど、本作の登場人物に限らず私たちの心も本来は輪郭のないものなのだ。自分が何者でどのように生きていけば良いかわからないから何かにすがったり、確固たる自分を見つけようと必死になる。でも自分一人だとそれは完全には固まらないし輪郭は定まらないと思う。その輪郭は他者との関係を育む行為の中で生まれるもので、その共同作業によって形作られる。

 

よく「人は一人では生きていけない」と言うけど、別に一人で生きていくことは出来ると思うのだ。これは大事な部分が抜けていて、もっと正確に近い言い方をするなら「人は一人では生きていけるけど、生きていく意味は見失ってしまう」という感じで、生きる意味を見失うから死んでしまい結局生きていけないという論理が成り立つのではないだろうか。

この作品を読んだ時、ある意味寓話的だと感じた。でもそんなおとぎ話のような物語に多くの人が涙を流したのには、それだけ多くの人が自分の心の輪郭をなぞって縁取ってくれる存在か、或いは何者にもなれない自分を受け止めてくれるような存在を心の奥底で求めていることを示しているような気がしてならない。