タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

所詮は小さな船

Twitterのアカウントが復活しとりあえず一安心したものの、今回の一件で私のネット上での存在は一艘の小さな船だったんだなと思わされた。たった一つのアカウントでこれまで8年以上も続けて、その間に横溝正史間宮祥太朗・伊野尾慧・嵐の相葉雅紀、他にも妖怪、ミステリといった様々な趣味を持った方や他界隈の推しの方とつながりを持てた。

でも結局それはアカウントの凍結によってあっさりと関係はリセットされてしまうし、フォローする・されるというだけの関係なので、私のアカウントが消えても誰にも気づかれないという疑似的な死を感じるものだった。

 

結局私の人間関係は常にリセットされる。小学校の時に付き合っていた友人も携帯の機種変更で連絡出来なくなったし、もう高校の頃の同じクラスだった子は私がいたということすら覚えていないだろう。両親が死んでしまえば現実でも孤独になる私にとって、(大げさなことを言うが)ネット上でのつながりはある意味命綱に近いのだ。これは割と真面目にそうだと思っていて、もし私がTwitterで前の職場での辛さをツイートしなければ、恐らく病院の心療内科に行くことはなかったかもしれないし、下手したら自殺していたかもしれないと思う。実にもろい存在だ。

 

だからこそ自分の存在を文章として、ブログとして残しておきたいと思うのだが、所詮は小さな船である。見られなければ存在しないのと同じだし、ここで書いたことも100年経てば中身のない殻のようなものになっているかもしれない。

自分という存在が遅かれ早かれ忘れ去られてしまうと思いながらもブログを書いたりTwitterでつながりを求めようとするのは、やはり執着がないと生きていけないからだ。執着とは言っても毎日会話をしないといけないとかそういう話ではなくて、万が一の時に連絡出来るような関係性を保っておくという程度のもの。かつて香港にあった九龍城のようにゴミゴミとした感じではなくて、海岸沿いにぽつんぽつんと一軒家が並んでいるようなそんな関係性を求めていると言えばわかるだろうか?

 

連携をとれる関係性を担保しておければ別に孤立して構わない。それが自分にとっては平穏であり癒やしにつながってくる。要は距離感の問題で、しょっちゅう絡まれると嫌だけど完全にシカトされるのは悲しい。声はかけなくて良いからドアをノックして生存確認してくれたら嬉しいかな、という感じだ。こう書くと独居老人みたいでアレだけど私がTwitterで求めている関係性はそういうもので、勿論コメントとかリプライは大歓迎するが、長期的に続ける上では距離感が大事だと思った次第である。