タリホーです。

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原作を読まなかった方が楽しめたかも? 「ミステリと言う勿れ」1話視聴

ミステリと言う勿れ(1) (フラワーコミックスα)

ミステリ界隈でも話題になった漫画「ミステリと言う勿れ」がドラマ化すると昨年聞き、放送間近になった先日原作の1~5巻までを大人買い(としては少ない方?)して読んだ。

原作は1~3巻までネットで無料公開していた時期があり、既にどういうテイストの物語かは知っていたけど、改めて読んで発見したこととか、初見で読んだエピソードで感じたこと等を当ブログで語りつつ、ドラマの感想にも言及していきたい。

 

久能整と「憑き物落とし」

本作は、大学生・久能整が殺人事件の容疑者として取り調べを受ける所から始まる。被害者は久能と同級生であり、事件当日の目撃者の情報から刑事たちは彼に任意の事情聴取を行うが、取り調べをしているはずの刑事がいつしか反対に久能の弁舌によって翻弄されたり、或いは救われたりしている内に、事件は思わぬ真相へと辿り着く…というのが1話のざっくりとしたあらすじだ。

 

一般的なミステリの体裁(事件の発生と謎解き、解決)を取りながら、登場人物が抱える悩み・苦しみを言葉で解きほぐしていくのが本作の特徴であり、タイトルが「ミステリと言う勿れ」なのも本作がミステリ小説における意外な犯人だったり奇想天外なトリックを軸とした漫画でなく、あくまでも登場人物が抱える心のわだかまりやトラウマ、悩みを解きほぐし、凝り固まった価値観・既成概念に一石を投じる物語、という側面が強い。

こういった既成概念や価値観に揺らぎを与える物語はミステリ以外の様々なジャンルで見受けられる要素だが、ミステリ好きとして本作と最も近いなと感じたのは京極夏彦先生の百鬼夜行シリーズだ。百鬼夜行シリーズも探偵ではなく古書店の主人(神主であり陰陽師でもある)・中禅寺秋彦(通称・京極堂が複雑怪奇な事件を整理して、事件関係者が抱える闇や思い込みを巧みな弁舌で紐解いていく。百鬼夜行シリーズではこの謎解きを「憑き物落とし」と表現しているが、本作の久能整の役割も百鬼夜行シリーズの京極堂と同じではないだろうか?

 

主人公が巧みな弁舌で相手を翻弄するのは勿論、作中で語られる知識・ウンチクが最終的に事件解決のヒントや手がかりになっていること、事件関係者が抱える思い込みや闇が暴かれる点など、本作と百鬼夜行シリーズにはいくつもの共通項があるが、最大の違いは主人公が語るネタの差だろうか。百鬼夜行シリーズの場合、事件の怪奇性もさることながら、宗教や民俗学・心理学といった専門的知識がないと理解出来ない事件のため、自然と内容も衒学的になりレンガ本と称されるほどその情報は大量に物語に注ぎ込まれるが、本作におけるウンチクは日常生活で私たちが抱える不満・悩みがベースになっているため、膨大な語りを要せずとも事件や人々の心を紐解くことは可能なのだ。そういうコンパクトさも相まって現代人に刺さる作りになっているのが本作「ミステリと言う勿れ」の魅力であり、久能の語りに京極堂のような「憑き物落とし」の要素を感じるのも以上の理由からだ。

 

ドラマにおけるビジュアル面での解釈違い

さて、ドラマの感想に移るが、内容に関しては原作に登場したスキンヘッドの刑事の下りがカットされた以外はほぼ原作通り。これに関しては原作のプロットが完璧なこともあり、下手に改変しなかったことは高く評価したい。

ただ、やはり今回の映像化において引っかかったのはビジュアル面の問題と演出・演技プランだろうか。これは小説・漫画の映像化に常につきまとう問題なので今更私が言うまでもないことだが、今回の場合漫画を読んで抱いた久能のイメージと菅田将暉さん演じる久能に差があったのが大きい。

 

漫画の久能はすらっと細長い感じの長身で顔は面長、首も他の登場人物と比べると長いが、これは体癖論の観点で見ると上下型の1種と呼ばれ、この体癖の人は理屈っぽく言葉や論理で世界を捉えようとする。だから理屈に合わないことはやりたくないし、悩みや鬱屈とした感情も論理的な説明がつくと解消されるのが、この体型の特徴だ。体癖論を生み出した野口晴哉氏によると、この体癖は俯瞰的な視点で物事を眺めるため、野性味が少ない仙人のような人が多いと述べている。

どうだろう、原作の久能のビジュアルと性格が上下型1種の説明に集約されていると思わないだろうか?

 

で、菅田将暉さんはその上下型1種にあてはまるかというと残念ながら違っていて、菅田さんは開閉型の9種っぽい。9種は凝り性で完璧主義的な性格と言われ、集中力が長く続き、好きなことはとことんやる。敵味方の線引きをはっきりと持ち、身内の世話をよくするが、外部者に対しては緊張感をもって接する…というのが9種の特徴だ。

以上のことが菅田さんにあてはまるかどうかはさておき、少なくとも私はそういうイメージで菅田さんを見ていたので、やはり原作の久能のイメージに合わなかったと、正直思うのだ。勿論菅田さん本人は原作の久能に近づけて演技をしていたが、菅田さんだと刑事に対する眼差しに反発心のような鋭さが生じてしまうし、感情が原作の久能以上に漏れ出てしまう。

 

原作の久能にも当然感情はあるが、それはプライベートな部分で顕著に表れることが多く、大抵は仏様みたいに穏やかな顔でいる。原作における今回のエピソードでも取り調べの下りは終始同じ表情だから、その点から見ても感情より理屈が先行して出てくるキャラであることがわかるだろう。

眉一つ動かさない穏やかな表情と徹底的な理屈が久能のミステリアスさ・人間離れしたマレビト感に貢献しているが、個人的にこのマレビト的な久能のキャラクター性は本作においてかなり重要だと思っている

マレビトというのは民俗学者折口信夫が提唱した異世界から訪れる神(来訪神)の概念であり、来訪神は多くの場合異形の姿であらわれ富や幸福をもたらすとされている。このマレビトという概念はミステリ小説における探偵にもあてはまると私は思っていて、事件に関係ない外部の人間(=探偵)がよそからやってきて事件を解決し関係者の悩み・苦しみを取り除くという点ではマレビトも探偵も同じ役割を果たしているとは言えないだろうか?勿論、探偵が関わることで事件が悪化する物語もあるので、必ずしも「探偵=マレビト」とは言えないが、本作の久能の立ち位置・役割を考えると、久能はマレビトとしての役割が他作品の探偵以上に強いのであまり人間的でない方が良いのではないかと(少なくともこの初回に関しては)そう思った。

 

ビジュアル面はこれ以上ツッコんでもどうしようもないので、今後は演出と脚本に注目していきたいが、イメージ違いと言えば、劇中のクラシック音楽の多用も少々というか結構気になった。使うなとは言わないが、やや浮いている感じがしたのでもうちょっと劇中の音楽は抑えた方が個人的には作品世界にハマれたと思う。感情揺さぶる音楽を使わずとも十分物語で揺さぶりはきいているからね。