タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

「准教授・高槻彰良の推察」Season1 2話視聴(ネタバレあり)

初回が面白かったので感想をTwitterで追っていたが、やはり伊野尾さんや神宮寺さんのファンの感想が圧倒的に多い。そしてこの二人の声・演技・魅力を様々な言葉で褒めちぎっていた。

それに比べると当ブログはあまり演技面での評価や感想は書いてないなと気づかされる。ただ、ここは餅は餅屋、そういった演技面だったり役者の魅力についてはちゃんとしたファンの方に任せて今回も脚本メインの感想記事を書くことにしよう。というか、脚本に注目した感想がなかなか見当たらないので、せめてうちのブログくらいはそういった路線じゃないといけないような気がする。

 

(以下、原作・ドラマのネタバレあり)

 

2話(藁人形の怪)

准教授・高槻彰良の推察 民俗学かく語りき (角川文庫)

 

※人名に誤りがあったので訂正しました。(2021.08.25)

 

2話は原作1巻の第二章「針を吐く娘」。原作ではこの話で深町が自分の異能について高槻にカミングアウトするのだが、ドラマでは前回既にカミングアウトしているため今回のドラマは深町が高槻の助手として正式に決定する流れを描いた(原作では最初の事件となった「いないはずの隣人」で決定)。

また原作・ドラマ共にこの話から高槻の幼馴染みで刑事の佐々倉健司が登場。ドラマでは実家が古書店という設定だが原作で佐々倉の実家は「庶民」階級だと言及されている程度で実家の職業は不明。この改変は孤独な高槻・深町が家庭のぬくもりを感じられる場を出したいというドラマ制作陣の提案のようで、小説とは異なる二人のホームグラウンド兼情報収集(民俗学の文献史料)の場として良い改変だと思う。大学の図書館だからって何でも揃っている訳ではないからね。

 

物語は藁人形の呪いで陸上競技の練習に支障をきたしている山崎綾音の姉・琴子の依頼で高槻・深町が針につきまとわれる呪いの正体を調査するというストーリー。

今回は人物設定や人間関係が大幅に改変されており、綾音と琴子は原作だと幼少時からの友人だったのに対しドラマでは血の繋がった姉妹として改変。陸上競技部に所属している綾音の設定もドラマオリジナルである。他にも事件の発端や動機など原作の根幹となる部分以外はほとんど改変されており、原作既読でも楽しめる内容となっていた。

また、原作では綾音の事情を詳しく知るため深町の調査がスムーズにいくよう高槻がバーベキュー大会を開く展開があるが、ドラマはコロナ禍の影響もあってかその展開はカット。難波要一が意図せぬ助け舟という形で深町の調査の助けとなった。

 

原作との比較

ここからは事件の真相をネタバレしながら原作とドラマの違いを比較していく。

そもそも原作とドラマとではテーマが若干異なっており、原作は「なぜ人はフィクション(嘘)を作るのか」をテーマとしている。その前振りとしてネス湖ネッシー騒動や幽霊画を物語に取り込んでおり、それが本作の真相=呪いの自作自演とつながってくる。一方のドラマは呪いを念頭に置きながらもシリーズの根幹となる「現象と解釈」というテーマとして扱っており、行き着く真相は原作と同じながらもそのプロセスは前回同様違っているのが特徴と言えるだろう。

 

そして動機について。原作では事件の発端が高槻の講義のレポートとして提出するため綾音が藁人形を用意し嘘のレポートを提出したことから始まる。その不謹慎な行いをたしなめるため琴子が「針につきまとわれる呪い」を演出。しかしそれに勘付いた綾音がその行為を止めるようその呪いを自作自演する、という少々複雑な展開となっている。要するに、相手を直接批判して長年の友人関係が崩壊することを恐れた二人が互いに呪いを自作自演した、というのが原作の動機だ。

ではドラマはというと、まず事件の発端が「綾音のタオルに置かれた縫い針」となっている。これが本当にマネージャーの過失によるものか、或いは綾音に嫉妬して意図的に置いたものなのかは(深町がマネージャーから直接聞いていないため)不明だが、これが切っ掛けで綾音は呪いを自作自演して姉や周囲からのプレッシャーから逃げようとした…というのがドラマの真相だ。

 

こうやって比べてみるとドラマはより『視聴草』の「奇病」のエピソードに沿った動機にしており、原作以上に共感型の動機になっているのがわかるだろう。勿論、これは原作がダメという訳ではなく、原作通りやるとドラマの限られた尺では動機を視聴者に理解してもらえない可能性があると踏んだ上での改変だと思っている。

「いくら友人に直接批判・糾弾したくないからといって自分で針を口にしたり針を身体に刺したりするかね…?」と原作を読んだ時は少なからず思ったものだが、原作では綾音に新しく彼氏が出来たという情報があり、一連の自作自演に嫉妬の情が含まれていたことも示されているが、ドラマとしては複雑な女性心理ではなく「プレッシャーからの逃走」という男性にも比較的理解しやすい動機にしたのは正解だった。

また、この改変は「姉に応援するのを控えて欲しい。姉の自己犠牲精神がプレッシャーになっている」と言えない綾音の心理が描かれており、その思いを正直に言うことで姉妹の良好な関係が崩壊することを恐れていたことも視聴者に伝わるようになっている。そう考えるとドラマの動機は原作の動機も拾いながらより視聴者が共感しやすい動機として改変されており、正に一石二鳥の改変と評価して良いのではないだろうか?

 

フィクションという「逃げ道」

以上、原作とドラマの比較をしてきたが、原作未読でも面白いと感じるストーリーだし、何より今回のドラマを見て「やはり人間逃げ道は必要だよな」という原作では思わなかった感想が出て来た。

昔は未知の領域が多かった分、それをフィクションという言い訳で解釈してきたが、現代はその未知の領域が減った分、自己責任論や合理的説明が為されるようになったことで言い訳が出来ない状況が生み出されている。これがいかに人々の精神から余裕を奪い、締め上げ、うつ状態にしているかはここでくどくど説明しなくてもわかる人は多いと思う。

勿論、精神病や自然災害など合理的説明によって正しく理解され改善されるべきこともあるので一概にフィクション=嘘による逃げ道が良いとは言わないが、日常のちょっとしたことにも厳しい現実でグサグサ突き刺してくる人がおり、それに傷ついた人たちを救済する意味でフィクションという救い・逃げ道みたいなのがあっても良いのではないかと思うのだ。そう考えるとこういったドラマ・小説もさることながら、宗教(これも乱暴な言い方をすればフィクションなのよ)やスピリチュアル、占いといった生活に不要なものも精神の逃げ道という点から見れば必要なものと言えるのかもしれない。

 

私たちが辛うじてこの社会で精神を保っていられるのはフィクションがあってこそ。そのフィクション=嘘は必ずしもネガティブでないことを示したのがこの物語の素晴らしい点と言えよう。特に深町は嘘が不快な音として聞こえるので、嘘が必ずしも悪いものではないことを高槻が説くことには必要性があったのだ。

 

その他感想

・今回は呪いが逃げ道として利用されたことを推理する材料として、発見された藁人形が丑の刻参りの作法と違っていることや、発見場所の木に藁人形が打ち付けられた痕跡がないことが証拠として挙がっている。

この丑の刻参りの作法で神社の御神木に藁人形を打ち付ける行為があるが、昔テレビ番組でこの行為は呪う相手に間接的に呪っている意思を伝えるためではないかと考察されていた。今でこそ神社は滅多に人が近寄らない(春日大社とか大型の神社は別だよ?)場所になっているが、昔は集会所だったり子供たちの遊び場として利用されており、そこに立ち寄った村人や子供が藁人形を発見することで「誰かが呪われている」と噂する。特に藁人形に呪う相手の名前やアイテムが付いていたらその人に直接噂が伝わるので、それによって自分が呪われていることを認識した相手が不安によって体調を崩したり精神のバランスが崩れて普段ならしないミスをする。そういった呪いのメカニズムの一説が記憶に残っていたので備忘録として記す。

 

・高槻が木に藁人形が打ち付けられていた痕跡を探すシーンで思い出したことがあった。これも昔のテレビ番組の心霊特集か何かで見た記憶があるが、とある神社で呪いの藁人形が木に打ち付けられていたことを神主さんが証言する映像があり、そこで神主さんが人間の背丈よりもはるか高い位置に打ち付けられていたと証言していた。それは単に人が木によじ登って藁人形を打っただけの話といえばそれまでだが、出来るだけ天に自分の思いが届くようにと思い藁人形を持った女が木によじ登る様を想像してゾッとした記憶がある。