タリホーです。

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ケネス・ブラナー版「オリエント急行殺人事件」のちぐはぐさと巧みな赦しの描き

オリエント急行殺人事件 (吹替版)

先ほど、フジテレビで放送されていた「オリエント急行殺人事件」を観終えた。映画は公開時に京都の映画館で見たが、当時は字幕版での視聴で、日本語吹き替え版を見たのはこれが初めて。そのせいか、同じ作品にも関わらずちょっと新鮮な気分で楽しめたと思う。草刈さんのポアロもブラナーの声質と近いから馴染んでいた。

 

で、本作「オリエント急行殺人事件」は国内外で手垢が付くほどやり尽くされてきた古典ミステリということもあり、最新作のケネス・ブラナー版は過去作との差別化を図るために色々な改変をしている。

 

(以下、事件の真相を含めたネタバレあり)

 

例えば、ペネロペ・クルスが演じたピラール・エストラバドス。原作既読の方ならわかると思うが、原作にエストラバドスは登場しないエストラバドスが登場するのはクリスティのポアロのクリスマス』という別作品であって、本作と『ポアロのクリスマス』のエストラバドスとの間に1ミリも因果関係はない。多分クルスを起用する際、原作通りスウェーデン人のオールソンだとラテン系の彼女に合わないから、別作品のラテン系女性の名前を借りるという措置がとられた、つまりは役者ありきの改変だと思われる。

これはクルス演じるエストラバドスだけでなくセルゲイ・ポルーニン演じるアンドレニ伯爵も同様で、映画では著名なダンサーという設定が追加されている。これもポルーニンがバレエダンサーという本人の職業が映画の設定に逆輸入された結果の一つ。矢鱈にアクロバティックな回し蹴りをしつこいカメラマンに食らわせる描写があったが、アクション成分を取り入れているブラナー版にはなくてはならない存在だったのかもしれない。

 

他にもフォスカレリがマルケスという名になっている、ハードマンがセールスマンから教授になっている、アーバスノット大佐が黒人医師として原作のコンスタンチン医師の役を兼任しているなど、改変を挙げると枚挙に暇がない。この改変は諸刃の剣でやり方によっては成功したり改悪となったりするが、今回のブラナー版は悪くはないけど良いかと言われるとそうではないという、何とも微妙な評価になる。一応クリスティ作品のファンとして厳しめに評価した結果なので、エンタメ作品として甘めに観たらおススメ出来る部類に入るとは思うが、ではどういう点でマイナスにしているのか触れていきたい。

 

ブラナー版ポアロの「ちぐはぐ感」

ブラナーが演じるポアロはおおよそ原作を踏襲している。卵の大きさが不揃いだと食う気になれない性格やシンメトリーを好む所などが正にそうで、序盤で描かれた嘆きの壁前での謎解きなども物的な面と心理的な面を合わせたポワロの探偵術という点では原作とかけ離れていないと思う。

ただ、要所要所で描かれるオリジナルのポアロ像に納得がいかない。

物語の序盤でポアロがブークと会った下りで発したジョークだが、正直ファンとしてこういう下品なジョークポアロに言わせるのは許せないのだ。ささいなことかもしれないが、仮にもジェントルマンであるポアロに(男相手とはいえ)こういうことを言わせたのは大失点。

それから目に付くのはポアロが常日頃持っているステッキの扱い

 嘆きの壁にステッキをぶっ刺したり、ラチェットのコンパートメントのドアをこじ開けたり(現場保存は!?)と、粗雑な扱われ方がポアロの几帳面さと合ってないのがどうしても引っかかる。アクション成分を取り入れた影響かもしれないが、ポアロの几帳面さとアクションの乱暴さ・粗雑さが全然融合していない。そのためどうもちぐはぐとしたポアロとなってしまっている。せめて必然性が感じられれば良かったのだが、今回のブラナー版でのアクション要素は過去作との差別化以外の意図が感じられず、それ故評価しにくい。

 

「赦し」に重きを置いたブラナー版

ブラナー版について、前述した内容だけを見るとクソみたいな作品だと思われるかもしれないが、一応褒められる所はあるにはある。その評価点の一つは、真相が明かされた後のポアロの犯人に対する処遇について。

原作のポアロはブークの依頼によって事件調査に乗り出したため、依頼人のブークの意思を尊重してか、特にコメントを残さず事件から退場する終わり方をしている。依頼人がこの解決で良いと言っているのだからこちらがとやかく言うべきではないという、ある意味ドライな判断と言えるだろう。

この結末部は映像作品によって異なり、デビッド・スーシェ版は激しい糾弾の後に裁きを神に委ねるというハードな解決、三谷版は半ば共犯的な形で犯人を赦す解決手法がとられている。

 

で、今回のブラナー版はスーシェ版ほどではないがそこそこハード。銃を片手に犯人に向かって訴えかけ、銃を相手に渡し口封じで殺せと言い放つのだからね。でもそれがブラナー版ポアロの赦しの方法となっているのが評価点で、渡された銃を口封じとしてポアロに向けるか、それとも自分を裁くために自身に向けるかという、犯人を試す道具として用いられているのが巧いと思う。

あ、試す道具と言ったけどポアロ自身は十中八九犯人が自分に向かって撃つとは考えていなかったと思うアーバスノットがポアロを銃撃した際、意図的に急所を外して撃ったことを読み取っていたし、ハバード夫人も刺されるという「痛み」を負いながら他の乗客を守ったのだから、彼らが口封じという選択はとらないことは見越していたと思う。あくまでポアロが渡した銃は「赦しの装置」として渡されたと考えたい。

 

傷を負う犯人たち

原作で事件の伏線となる「十二人の陪審員という重要なワードがカットされているのも、赦しに重きを置くブラナー版ならではの改変と言えるだろう。陪審員というと裁きの面が強調されてしまい、今回の殺人が私刑(リンチ)に見えてしまう。事実この「オリエント急行殺人事件」は法の目を逃れた犯罪者を私刑によって罰する物語なのは否定出来ないが、赦しにスポットあてるとなると、犯人たちを「断罪者」として描くと赦しとの釣り合いがとれなくなる。

そこでブラナー版は犯人を「断罪者」ではなく「傷を負う者」として描いているのが特長で、その描き方も吟味してみると必然性が感じられる。

 

乳母であったエストラバドスはアームストロング事件当時、飲酒が元でデイジーの誘拐に即座に反応出来ず、犯人のカセッティに反撃されている。これにより彼女は飲酒を深く後悔し、飲酒を禁じる宗教にのめりこみ、眠りも浅くなってしまった。

アームストロング家の身内であるアンドレニ伯爵夫人は事件後、喪失による不眠から睡眠薬を「薬漬け」のレベルまで常用、伯爵も憔悴した彼女を守ることを意識する余り攻撃的になってしまったと思われる。

他にもマックイーンは検事であった親の過ちが切っ掛けで弁護士となるもうまくいかずアルコールに依存したり、マスターマンは病気で余命いくばくもないと、犯人はみな物理的・精神的な面で傷を負っている。彼らの殺人は、断罪などという綺麗ごとではなく、受けた傷を塞ぎ業から解放されるための殺人だったと言えよう。

そう考えると列車が雪崩で足止めではなく雪崩で「脱線」したというのも、犯人たちが事件により本来の歩みから反れてしまったことを象徴しているように思える。

 

以上のように、原作以上にアームストロング事件関係者の肉付け、とりわけ「人としての弱さ」からくる負傷の描きがなされているのがブラナー版の特長だ。この犯人たちの描き方は二部構成で犯人たちが殺人に至るまでの経緯を描いた三谷版オリエント急行より優れている部分がある。正直三谷版で変人みたいな描かれ方をしていた幕内青年(原作のマックイーン)よりも本作のマックイーンの方が人間味があって好きだ。

 

さいごに

以上、ブラナー版オリエント急行の長所と短所を述べた。ざっと要約すると以下の通りになる。

 

長所

・犯人を「断罪者」でなく「傷を負う者」として描いたこと。

・犯人を「傷を負う者」として描いたことで生じた改変に必然性がある(ラチェットの年齢が若くなっているなど)。

ポアロの赦しが綺麗ごとや独善的な理屈に陥っていない。

ジュディ・デンチのドラゴミロフ公爵夫人はハマり役(原作のビジュアルに一番近い)。

 

短所

・アクションシーンを取り入れたことによるポアロの人物像の歪み。

・映像映えを意識したが故の不自然な演出(屋外での取り調べや屋根に上って客車の全体図を見るなど)。

・役者を前提とした改変・不必要な改変(別作品からの役名の引用や、名前の変更など)。

・謎解き部分を端折っているため、初見(原作未読)の視聴者にやや不親切。(←これは作品の性質上仕方ないかもしれないが…)

 

 こうやって長所と短所を分けると長所は脚本面、短所は演出面による所が大きい。演出面で短所がある作品は一度観ただけでは良さに気づきにくいというのが個人的な意見だが、こうやって改めて吟味すると、このブラナー版オリエント急行も当初ほど悪くはない作品だと思う。

次回作「ナイル殺人事件」も改変された箇所が複数あるようだし、キャストのイメージも過去作と比べるとしっくり来ないが、色眼鏡に囚われないよう物語そのものに注目したいものだ。