今回は前回からの続き。前回がミステリでいう問題編ならば、今回は解決編になる。
(以下、アニメと原作のネタバレあり)
多すぎる文士たちの多重解決
前回の終盤で京助の無実を証明すべく現れたのは、野村胡堂・吉井勇・萩原朔太郎の三人。ただ、すぐに無実は証明出来なかったようで、京助はそのまま警察へ拘引された。
野村・吉井は啄木・京助とつながりがあったことは明らかだからこの作品に登場するのはわかるが、萩原は(史実上)彼らと交友関係は結んでいない模様。
では何故本作に萩原が出て来るのだろうかと萩原を調べていたら、どうやら彼はミステリファンらしく、江戸川乱歩の「人間椅子」や「パノラマ島奇談」を称賛したことがあるそうだ。だからこの物語に萩原を介入させたことで、彼が知らないうちに若き日の江戸川乱歩と邂逅していたということになり、つまりは後の大ミステリ作家とそのファンが既に出会っていたという「if 的展開」を実現させたという点で実に粋な計らいと言えるだろう。
さて、そんな文士たちが集まって披露した推理だが、前回分を含めると以下の通り。
③「華ノ家女将の飼い猫」説(萩原朔太郎)
①②は原作と同じ説だが、③④はアニメオリジナルの推理。
いずれの推理も出発点は「おたきと京助の言い争い」からとなっており、それをどう解釈するかに重きを置いて、物的証拠にはあまり関心を示していないのが文士らしいという感じがする。
①②は「犯人に対する嘲笑・侮蔑」、③は「苦界からの解脱」、④は「女郎としての立場を利用した強請」が事件の動機として解釈されている。
③は凶器の匕首を剃髪に用いる発想と猫に驚き誤って首を切ったという意外性が評価ポイントだが、そもそも匕首は首に突き刺さっていたため、誤って切った状況に合致しない。まぁこれは現場を見ていないが故の解釈なので仕方ないところはある。
④は啄木と京助が互いを犯人だと糾弾する不自然さに焦点をあてた推理。確かに、ミステリでは仲の悪い二人が実は共犯関係を結んで殺人を行っていた…という話は結構あるし、「義憤からくる殺人」というのも捕物帖を十八番とする野村らしい推理。ただ、もしそうだとすると結果的に京助は警察に拘引され、共犯を隠すために互いを糾弾するという作戦は失敗したことになる。しかも啄木が京助をほったらかしにしていることから見ても共犯関係を結んでいたという解釈は成り立たない。
芥川龍之介の「真相は藪の中」という説はともかく(っていうか、なんなんだアイツは…ww)、最後に平井太郎(後の江戸川乱歩)と名乗る少年によって真相がもたらされる。
平井はこの事件の表だけでなく裏の事情(啄木と京助の関係・おたきの素性・啄木が落としたローマ字日記)も知っていた人間で、彼だけが推理に必要な手がかりを全て握っていたのに対し、他の人々は足りない情報を無理くり考えこねくり回して推理を立てていたのだから、そりゃ真相に辿り着けるはずがなかったのだが、それはともかく。
(以下、事件のネタバレ)
⑤「おたきの自殺」
平井はまず匕首が(犯人側から見て)死体の左側の首に刺さっていたことから、右利きの啄木・京助は犯人ではあり得ないと推理。勿論、死体の左側に匕首が刺さっていただけでは「右利きの人物が犯人ではない」と推理出来ない(回り込まれて刺された可能性もある)。死体が部屋の中央で斃れており、動かされた形跡がない事実と併せて成り立つ推理である。
そして、京助が目撃した男は同じく帳場から姿を消した女将の様子から女将の情人(ツバメ)だと推理。これならば女将が虚偽の発言をしたことにも説明がつく。
こうして、女将とその情人、啄木と京助が除外されて一人残ったおたきが犯人であり、即ち自殺だという真相が明かされる。
(劇中で触れられなかったが、啄木のそばにいた女郎のおえんは右利きなので当然犯人ではない)
そして事件は動機の方面へ移る。これは誤解とすれ違いによって生じたもので、京助が興奮すると女言葉になるクセ(当世風に言うとオネエ言葉)がおたきに啄木と京助の関係に疑惑を生じせしめ、口づけだけという京助の中途半端な態度が一度上がった彼女の心をどん底に落してしまったのである。そこに労咳の持病(これに関しては、野村の推理の矢が的にかすっていたと言える)が相まって自殺に至った…というのが全貌だ。
実は、アニメ化にあたって原作からカットされた手がかりがある。原作既読者はわかると思うが、未読の方は是非ご確認を。個人的には、アニメオリジナルの多重解決を作る上であの手がかりは障害になったからカットするのは当然だと思うし、正直真相を聞くとあの手がかりは蛇足だなと感じたのでカットして正解だったかもね。
中途半端な優しさに対する啄木の「制裁」
今回の事件は京助の態度が自殺に追いやった結果になっている。そりゃ、相手の真意を知らないのだから、ああいった態度をとってしまうことに罪はないのだけど、身売りも覚悟であの業界に入った人に中途半端な優しさをかけるのは却って非道な行いになってしまう、という警句的な面もある話だというのが率直な感想。
啄木が意図的におたきの真意を京助に伝えず私娼窟へ連れていったことや、オネエ言葉を聞かれたことなど、いくつもの事象が悪い方向に重なってしまった結果でもあるので、本来ならば誰も責めを受けるべき事件ではないが、啄木としてはそう綺麗に割り切れず、それが京助の糾弾に繋がってしまった。言い換えれば、これは京助が犯した無意識の罪に対する彼なりの制裁だと言える。
そして、京助の中途半端な優しさはおたきの部屋に残された上着で強調づけられている。原作では、残された上着は単に京助が忘れたものとして描かれているが、アニメでは労咳で咳き込むおたきにかけられたものとして描かれており、その中途半端な優しさに啄木は一発京助の肩を殴って溜飲を下げたのだ。
ある意味不条理な制裁をした啄木を快く思わない視聴者もいるだろうが、私はやはり啄木に優しさを感じる。何故なら彼は京助に真相を伝えなかったからだ。彼にあの真相を告げればショックで彼が立ち直れなくなることを予想していたから、一人の女性を死に追いやった十字架を一生背負わせるより、無実の罪で警察に拘引されるという一時の苦しみを味わわせることで済ませた、と解釈出来る。
原作では啄木と京助の言い争いの後に平井少年が現れ真相を語るため、原作の京助は事件の真相を知っているのだが、アニメでは京助が拘引され事件解決のため文士たちが推理を披露するオリジナル展開が挿まれたことで、原作以上にすれ違いが生じ、心理描写に深みが出ているのが評価点であり褒めたい点でもあった。
それにしてもである、想い人の上着をまとい死を決意したおたきの心情は如何ばかりだったのだろうか。ただひたすら絶望に陥っていたのか、ささやかながら彼に気にかけられたことを少しは嬉しいと思ったのか。
こればっかりは流石の私も「藪の中」である。
蛇足
・啄木が詠んだ「さりげなく 言ひし言葉は さりげなく 君も聴きつらむ それだけのこと」は「一握の砂」に収録された短歌。この歌は1907年に函館区立弥生尋常小学校の代用教員として着任し、そこで会った同僚教師の橘智恵子に向けて送られたものの一つ。
「様々な思いをこめてさり気なく言った言葉をあなたはそのままさり気ない言葉として受け取ったのですね…。まぁそれだけのことだと言えばそうなのですが」と読み取れるため、啄木が一方的に抱いていた片想いだったというのが一般的な通説だが、智恵子が結婚後に啄木に送った年賀状を論拠に相思相愛説を唱える人もいる。
今回はすれ違いと片想いの悲劇がテーマだったので、この短歌が引用されたのは実に相応しい。
・江戸川乱歩のデビュー作「二銭銅貨」は1923年初出の作品。
アニメでは少年時代に書かれた作品となっているが、「二銭銅貨」は1922年に書かれたもの(作品のアイデアは1920年頃に生まれた)で、当時乱歩は数えで29歳。そんな失業時の彼の心情が作品に反映されている。
・ミステリファンであった萩原朔太郎は手品好きでもあり、晩年にアマチュア・マジシャン・クラブに入会している。もしタイムスリップが出来るのなら、彼に泡坂妻夫のミステリを読ませてみたいものである。