タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

タリホー的作品批評のススメ

2018年8月から始めたこのブログも約5年8ヶ月経って、おかげさまで読者登録も50人を超え、先日の投稿記事が500番目となった。

 

昨年、500番目の記事を投稿した辺りで当ブログの執筆スタイルや、執筆する上での注意点について書くと予告したのだが、当ブログは書籍・ドラマ・アニメ・映画といった作品批評がメインなので、作品批評について常日頃気を付けていること、私にとって「作品を批評する」とはどういう意義があるのか、批評する上で参考というか理想としている動画やテレビ番組について、色々語ってみようと思う。

 

神経症的な作品批評がメジャーな現代

批評家自体は昔からずっと存在したものの、昨今はインターネットの普及やSNSの隆盛によって誰もが批評を行ってそれを手軽に読むことが出来る時代だ。それに、電子書籍や有料配信などで最新の流行作品だけでなく、昔の歴史的名作も見ることが出来るのだから、相対的に見ても昔より今の人々の方が目が肥えているんじゃないかと思う。

 

誰もが感想・考察・解説・批評を行って、不特定多数の人間に発信出来るようになった分、評論を生業とする専門家の存在価値が問われるし、2年前に書評家の豊崎由美氏のツイートが炎上した出来事※1を見ても、「高尚なことを評論しているから良いのか?」という疑問が生じた。作品と読者(視聴者)を巡り合わせることが出来たらそれで良いし、他人の批評の巧拙についてとやかく言うのはみっともないと思ったものだ。

 

とは言ったものの、YouTubeSNSにおけるレビュー動画や批評を見ていると最近の批評にはちょっとした偏りというか、ある種の傾向があるような気がする。何と言えば良いのかな、物語の整合性とか演出の意図、作中のアイテムに対する考察とかを細かく拾う、重箱の隅を楊枝でほじくる感じのレビューが目立っている。

これはぶっちゃけ私もやっていることだからあまり偉そうなことは言えないのだけど、(誤解と偏見を恐れずに言うならば)私の感覚としては現代人の作品批評って神経症を患った状態で作品を見ている感じがして、作品に対して寛容な見方が出来なくなっていると正直思うのだ。昔は原作を大胆に改変した映像作品を発表してもあまり炎上しなかったけど、今は下手に改変しようものなら炎上するのは当たり前で、例えば長谷川町子原作の「いじわるばあさん」を実写化した青島幸男版の意地悪ばあさんなんか今だったら間違いなく炎上案件になっていただろう。青島版は当時原作者が否定的なコメントを残した逸話があるが、それでも青島版は人気を博したドラマシリーズだったし、スペシャルドラマが何回も放送されていた。

 

Wの悲劇 角川映画 THE BEST [Blu-ray]

あと薬師丸ひろ子さん主演の映画Wの悲劇なんかも、今だったら間違いなく炎上しただろうね。この原作はミステリ小説なんだけど、映画は原作で起こった事件を劇中劇として描き、舞台女優がスキャンダルに巻き込まれながら成長していく様をメインにした青春映画として改変したのだ。だから謎解き要素はないし原作と別物と言って良いのだけど、中途半端に原作通り映像化して凡作になるよりも、別物になっても良いから傑作を作りたいという潔さがあるし、ある意味賢明な判断だったかもしれない。※2

 

批評する側も神経症的になると作り手も神経質になるというものか、昔に比べると今の作品はメッセージ性を重視したものが多く、特に映画「クレヨンしんちゃん」はそういった時代の影響をモロに受けている。ただドタバタとしたコメディを描くだけではいけない、物語に意味やメッセージがないといけないという、そんな強迫観念が植え付けられているような気がしてならない。

一応言っておくと神経質に作品批評をすること自体は悪くないし、そういう見方をしないと見えてこないこともある。しかしこれはある程度コツというか方法論を自分の中で確立しておかないと、逆に貧相で狭量な見方になってしまう恐れがある。部分にこだわって作品全体を眺められなくなったり、「辻褄が合わないからこれは駄作だ」という短絡的な思考に陥ったりする危険がある。

私も映画やドラマを見た後に感想をよく漁るのだが、ただただ技術面の巧拙ばかりに囚われているレビューはやっぱり面白くないし、そういう批評を見ると勿体なさを感じてしまう。もう一歩踏み込めば、たとえ作品自体が駄作・凡作でも豊かな体験が出来るのに、そこに至らないまま早々に結論を出してしまっているのが多くの現代人における批評の傾向なのだ。

 

※1:豊崎由美氏の書評についてのツイートに対する個人的意見 - タリホーです。

※2:他にも松竹制作の「八つ墓村」はミステリ要素を抜いてホラーに特化した改変が為されているし、こういう改変の例を挙げたら昭和の映画はキリないぞ!

 

批評は「自己との対話」

専門家に限らず多くの人が作品批評をする時に、出来るだけ客観的に作品を眺めようとするが、これは私としてはあまり良くない物の見方だと思う。アカデミックに先行作品と比較して作品を批評・分析するというのは学問として究めるつもりがあるなら客観的に批評をするのは別に構わないが、基本的に作品批評は「自己との対話」、つまり主観的なものであるべきだと考えている。

作品の良し悪しを批判することは誰だって出来るけど、そこから「何故この作品は私に刺さるのか」「何故世間的に大絶賛されている作品が私には合わないのか」を考えるとなると、結局自分と対話しないとその答えは見つからないし、自己との対話の中で導き出された意見の方が独自性や批評としての魅力がある。

 

私を例にして話をするならば、私は「ゲゲゲの鬼太郎」や「地獄先生ぬ~べ~」といった怪異や妖怪を扱った作品は好きだけど、「ポケモン」や「デジモン」には興味が一切湧かない。どちらも怪物(モンスター)を扱っているのにこのような差が出るのは何故だろうか…?と私なりに考えてみたのだが、それは「その怪物に歴史的背景があるかどうか?」※3を私が気にするタイプだからではないかと思うし、原色的なキャラクターがあまり好きではないという嗜好もあるかもしれない。もっと言うと、怪物を捕らえてそれを使役して戦わせることが競技となっている「ポケモン」の世界観に対して子供ながらに人間のエゴや醜さを感じ取ってしまったから避けたという考え方も出来るのだ。

このように自己分析的に作品批評を行うと、自分の好き嫌いの基準とか、自分がこの世界をどのように見ていて、何を理想としているか、どういうことが許せてどういうことが容認出来ないのか、といったことがわかるし、客観的な批評では辿り着けない唯一無二の批評が出来るという点で、自己対話による批評は面白いしやりがいがある。

 

ただし、メリットだけでなくデメリットもあるのが厄介な所で、フロイトの「夢判断」のように、自己対話による批評は自分が普段見て見ぬフリをしたり心の奥底にしまいこんでいたモノを明らかにする行為なので、その結果自分のイヤ~な面や狭量さが露呈したり、自分の性癖を暴露することにもなりかねないので結構恐ろしい。大多数の人の批評が客観止まりなのはこういうデメリットによる所も大きいと思う。

でもやっぱり楽しいんだよね ♡

正論よりも悪口を聞いている方が面白いという感覚があるけどさ、正論はどうしても客観的で総合的な世評になりがちだから面白みに欠けるけど、悪口ってそれを言う人の価値観がモロに出て来るから、悪口の質にもよりけりだけど、正論に比べると悪口の方が魅力的だったりする。悪口は(正論と違い)社会や世界を建設的に良くするものではなく、自分の内側(心)を充実させる方法の一つだと思っているし、単純な悪口は人を傷つけるものになってしまうが、それを自己との対話を通して精製した上で述べるのであれば、それは立派な批評になる。

 

www.youtube.com

悪口に関しては精神科医名越康文先生のこちらの動画を紹介しておくが、やはりレビュー動画でも絶賛より酷評の動画の方が再生数が多いし、悪口には人の結束力を高める作用もあることは確かだ。しかし、批評とするからには単なる袋叩きになってはいけないと思うし、集団リンチ的状況を生み出さないためにも、自己との対話をする、つまり自分自身に対しても批判的な目線を持つという視点を私は心掛けているのだ。

 

※3:「ポケットモンスター」は1996年に発売されたゲームから始まったことから考えるとポケモンは歴史の浅い怪物と言えるのではないだろうか?(めっちゃ失礼だよね、ゴメンね?)

 

教科書ではなく資料集を目指す

私が普段レビューをする時に気を付けているのは、内容が教科書的になってはいけないということだ。教科書は基本的な知識を身に着ける上では非常にまとまっていて効率的な本だけど、知識の幅をそれ以上広げられないという欠点があると思う。

例えば国語の教科書は文章読解や作中人物の心情を把握することに特化しているけど、作中の舞台背景だったり、それを書いた著者がどういう人物かという点については簡単に説明して終わってしまうことがほとんどだ。そういった舞台背景や人物はジャンルとしては歴史や社会といった分野になってしまうので、学校の効率化された授業形態だとなかなか各分野をそれぞれ関連させて知識や思考の幅を広げるのが難しいんじゃないかな~?と思うのだ。今はどうなっているか知らないけど、少なくとも私が学生だった頃の授業では国語から歴史の知識を拾ってその知識の幅を広げることは出来なかったし、大学に進学しないことには、そういう幅の広げ方もわからなかった。

 

教科書は基本的な情報・知識しか書かれてないためすぐ捨ててしまったが、反対に国語便覧や日本史の史料集は今も実家に置いており、今目を通しても面白いと感じる。やはり資料集の方が圧倒的に情報量が多いし、教科書が整理された情報・簡略化された情報なのに対して資料集はそのままの情報(例えば旧仮名遣いで書かれた文章・当時の風景写真や風俗など)が載せられているため、読んでいてインスピレーションが湧いたり、色んな想像が出来る余地があるのだ。

だから私のブログも出来るだけレビューする際は読む側の刺激になるような内容、多面的な見方の助けになるようなことを出来るだけ述べるようにはしているし、私自身が読み返したくなるようなレビューを書けば、他の人が読んでもそれなりに読み応えのあるものになるだろうと思って自分なりに考えながら執筆しているつもりである。

 

性格分類を反映させて

私は先ほど紹介した名越先生切っ掛けで体癖論を知り、最近ではMBTI診断というものもやっている。

 

pr.yakan-hiko.com

www.16personalities.com

こういう性格分類というものは別に「相手の思っていることを見抜いてやる!」という打算的なもの、マウント目的ではなくて、単純にその人がどういう基準で動くのか?といった相互理解やコミュニケーションを円滑にする上で必要かつ有用なツールだと思っている。それに、物語の登場人物は人間もしくは人間的思考回路を持った生物であることがほとんどなのだから、作品の分析や批評にも活かせる。

 

ちなみに私は体癖論だと左右型の4種体癖、MBTI診断では提唱者(INFJ-T)※4という診断になった。提唱者タイプは世界的に見ると珍しいらしく、診断内容を読むと確かに私がこれまで書いたレビューや考察って理想主義的な内容だな~とその診断の正確さに感心するばかりだ。

tariho10281.hatenablog.com

(特にこの6期鬼太郎の座敷童子の時の感想は理想主義的ですよね…ww)

 

それに自分が4種体癖だと実感するのはブログを執筆する際になかなか文章がまとまらない時なんだよね。4種体癖は感情が固まらない傾向が強く、自分の感情を理解するのに時間がかかると言われているのだけど、私自身スラスラ執筆出来ないし批評をする際も「ここでモヤモヤするのは何故だろう…」と悩む時も結構ある。で、消化不良な出来事や嫌なことはずっと覚えていて、モノによっては10年以上前の出来事でも今年あった出来事のように思い出すという未練たらしい面があるから、そこも作品批評をする時に反映されている所が少なからずあると思う。

 

そんな性格だから当然文章で感想を述べるのが私の性に合っていて、動画や配信だとコメントが固まらず結局当たり障りのないことを言ってしまうのは自分でもわかっているから、こうやってじっくり考えながら出来るだけ誤解のない言葉を紡いでいるという感じかな。自分の性格を知っておくのも自分なりの批評をする上で大事だと思うし、他の人の批評を読む時も「あ~この人は論理性を大事にするのだな」とか「この人は楽しければそれでOKって感じだね」とレビュワーの批評のクセを読み取ることが出来てまた別の面白さが出て来ると思う。

 

※4:同じ提唱者でもAタイプとTタイプがあって、Aタイプは自己主張型でストレス耐性があり、Tタイプは繊細で周りの意見に耳を傾けるという違いがある。

ちなみに、日本の芸能人だと江頭2:50さん、ゆうたろう(俳優)さん、大橋和也(なにわ男子)さんがAタイプで、Tタイプはやす子さん、西畑大吾(なにわ男子)さんなどが挙げられる。

 

時間がかかっても「届くべき人に届く」レビューでありたい

レビュー動画と違って個人ブログでの作品批評は多くの人の目に触れないという短所がある。正直言うと私は当ブログでとあるドラマのレビュー記事を投稿して自分としては「よく書けた!」と思っていたにもかかわらず、あまり反響が芳しくなくて意気消沈した記憶がある。それで一時期は「もう真剣に書くだけ無駄やな…」と軽いうつ状態になったこともあったけど、今は気にせず執筆が出来ている。

 

tariho10281.hatenablog.com

その切っ掛けとなったのは昨年投稿したこの記事だけど、投稿した時は特に反応がなかったのに、数ヶ月経ってからこの記事内容に共感した方が Twitter の方で紹介してくださった。この時に「あ、時間がかかっても真摯に書いたものは届くべき所に届くのだ」という悟りを得て、それからは読者の反応とかもあまり気にせブログを書くことが出来るようになった。

何かと時短とかスピード感を求められがちな昨今、自分の意見をすぐに人の目に触れさせようと拡散したり、多くの人に読んでもらうために過剰な文章表現をするブログもあるけれど、私のブログは流行に囚われることなく本気で作品と向き合いたい人に届くことが理想であり、そういう好影響を与える内容の批評をこれからも書いていきたい。

 

さいごに(執筆における憧れ)

長々と語って来たけど、何をするにしてもやっぱり理想や目標、或いは憧れとなる存在を頭の片隅に置いてことを行うのが大事だし、最後に私が作品批評をするにあたって参考にしたり、憧れの対象としているものを紹介するのも悪くないだろう。

 

・シリーズ「深読み読書会」(NHK

私が好きな番組だけど不定期だしあまり再放送はやってない。過去に横溝正史金田一耕助シリーズの代表作や小松左京の『日本沈没』、江戸川乱歩の『孤島の鬼』で読書会をやっているのを視聴したが面白かったし、多角的に作品を評価したり作者が作品に込めた思いを深読みするという試みが私には刺激的だった。

 

・ダークサイドミステリー(NHK

www.nhk.jp

毎年4月~9月の半年間放送されるオカルトや猟奇事件、怪奇文学といった怪しげなものを特集するミステリー探求番組。私も当ブログで「アンデッドガール・マーダーファルス」や「ダークギャザリング」の感想・解説を書いた時にはこの番組の知識が大変参考になった。一応今年も今月から第6シーズンが始まったのだが、BS4Kでの放送みたいでBS(2K)は未定らしい。割と楽しみにしてたので早くBSでも放送してもらいたいものだ。

 

・ゲームさんぽ

2019年にライブドアニュースYouTube チャンネルから始まった企画で、各分野の専門家と共にゲームの音響や照明・建物・キャラクター・家具調度品などを深掘りしていくという従来のゲーム実況では得られない教養を我々視聴者に提供する番組。ある意味私が最も理想とする作品批評の方法だと思う

www.youtube.com

現在はライブドア社から独立してゲームさんぽ専門のチャンネルを開いた方がおり、「ゲームさんぽ」の番組は本家と分家のような状況になっているけど、どちらも面白いのでおススメです。

 

名越康文TV シークレットトーク youtube 分室

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「ゲームさんぽ」と併せておススメしたいのがこちら。当ブログでも過去に何度か紹介したけど、体癖論に関することや人間心理を分析する上で勉強になることが多い。あと私は過去に適応障害で一度心がズタズタになった経験があるため、精神科医の方が発信することって日常生活における心の支えになったり生きる指標になったりとそういう点でも参考になることが多いですね。

 

・ホッカイロレン

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これまで紹介して来た番組・チャンネルとは毛色が異なるが、作品批評という点で何気にリスペクトしているのがこちらのホッカイロレン氏である。作品批評をしているユーチューバーは数あれど、ホッカイロレン氏はレビュー動画をある種のエンタメとして演出しているのが特徴で、視聴者を楽しませようとする心意気が感じられる。

レビューする対象となる作品も、今話題の映画だけでなく誰も取り扱わないB級・Z級のクソ映画や宗教団体が制作したカルト映画など多岐にわたっており、世評に囚われずに独自の切り口でレビューしている所に好感が持てる。先ほど私が説明した「自己との対話」が出来ていることは、レビュー動画を見ていただければ明らかだ。

【4年ぶりの復活】秀逸なクリスティ・オマージュ!【アリバイ崩し承りますスペシャル】

どうも、タリホーです。

当ブログで4年前にレビューしたドラマ「アリバイ崩し承ります」のスペシャルドラマが先日放送されたけど、いや、正直続編が放送されるなんて期待していなかったからスペシャル番組として放送されると聞いて普通に嬉しかったわ。

 

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以前のレビューはこちら(↑)にまとめているが、連ドラが放送された時点では原作エピソードのほぼ全てを映像化した状態だったし、続編をやるとなると原作者の大山誠一郎氏が新作を量産するのを待つしかなく、実現するとしても1エピソードの執筆にかかる時間から考えて最低でも5年以上はかかるんじゃないかと思っていたので、スペシャルドラマ放送決定の報は正に寝耳に水の嬉しい予想外だった。

しかも本シリーズは短編エピソードだから続編をやるにしても連ドラのシーズン2になると思っていたので、単発のスペシャルドラマ、それも2時間ドラマとして放送されたことも意外だったわ。

 

さて、今回の新作スペシャルだけど、もう既にドラマ本編を見た方ならご存じの通り、アガサ・クリスティの作品をオマージュしたエピソードなのでクリスティのファンとして若干のネタバレをしながら感想を語っていきたいと思う。

 

(以下、ドラマ本編とアガサ・クリスティ『エッジウェア卿の死』について一部ネタバレあり)

 

「時計屋探偵と一族のアリバイ」

時計屋探偵の冒険 アリバイ崩し承ります2

今回映像化されたエピソードは原作『時計屋探偵の冒険 アリバイ崩し承ります2』所収の「時計屋探偵と一族のアリバイ」。資産家の男性が自宅で刺殺され、その甥と姪たちが容疑者として浮上するものの、3人の甥と姪にはアリバイがあって…というのがざっくりとしたあらすじである。

あらすじだけを聞くといわゆる犯人当て(フーダニット)形式の内容だと思うが、すぐに犯人は一人にしぼられてその人物のアリバイ崩しを時乃は行うことに。しかし、そのアリバイ崩しがまさかの失敗!?という形で物語は意外な展開へ向かっていく。

 

このエピソードは2020年6月に『Webジェイ・ノベル』というサイトに初掲載され、私もその時に読んで内容やトリックは知っていたものの、何せ4年近く前に読んだ作品なのでほとんど覚えておらず、実質初見に近い新鮮な気分での視聴となった。

原作は短編のため結構アッサリと解決するのだが、ドラマはテレビ局の密着取材というオリジナルの展開が追加されたり、時乃の高校時代の先輩で現在は医学生として彼女の前に現れる葉加瀬裕次郎というオリジナルキャラを登場させることで尺をのばしている。とはいえ物語としては全然冗長になっていないし、今はすっかり廃れてしまった2時間サスペンスのようにお気軽に見られて、なおかつ本格推理が楽しめるという、なかなか優れた脚本になっていたと素直に評価したい。

 

『エッジウェア卿の死』

エッジウェア卿の死 (クリスティー文庫)

個人的に一番感心したのがドラマ本編でも登場したアガサ・クリスティの長編『エッジウェア卿の死』を絡めた物語の改変だ。

一応『エッジウェア卿の死』を読んだことがない人もいると思うのでこの小説について簡単に解説すると、本作は1933年に発表された作品で、ポアロシリーズとしては7作目の長編に相当する。この時期のクリスティは母親の死や最初の夫アーチボルド・クリスティとの離婚といったトラブルを乗り越え、考古学者であるマックス・マローワンと再婚して約3年経っていた。

私生活が安定したこともあってか、ミステリ作家として勢いづいてきたクリスティはこの翌年の1934年に歴史的名作『オリエント急行の殺人』を発表する。そんな時期に生まれた作品ということもあって、この『エッジウェア卿の死』もなかなかどうして良く出来た秀逸ミステリなのだ。勿論、世間の認知度から考えるとマイナー寄りだし、物語も『アクロイド殺し』や『ABC殺人事件』といった名作群と比べると派手さはないし意外性も正直弱いかな?と感じる所はあるが、クリスティのミスリードの巧みさが遺憾なく発揮された作品なので是非読んでもらいたい。

 

…え?「ドラマでトリックがネタバレされてたから正直読む必要がない」だと?

まぁ確かに〇〇トリックってネタバレはあったけど個人的にはあれはネタバレだけどネタバレじゃないんだよね。というのも『エッジウェア卿の死』は最初の殺人で事件概要がわかった段階で読者は「ああ、これって明らかに〇〇トリックじゃん!」って予想することを見越して作者であるクリスティが更に一段階上の騙しを仕掛けてくる作品なので、別に〇〇トリックだと事前に知っていても問題ないし、むしろその先入観があれば気持ちよく騙される体験が出来るんじゃないかな?

そうそう、Wikipedia ではこの『エッジウェア卿の死』のあらすじが真犯人とトリックを含めて全部ネタバレされているので、未読の方は要注意で!

 

さて、ドラマ本編に話を戻すと、今回のエピソードで用いられたトリックは確かに『エッジウェア卿の死』を彷彿とさせるものだったが、正直原作を読んだ段階ではこのトリックが『エッジウェア卿の死』と同等・同質のものだと気付かなかったので、今回のドラマでクリスティのこの作品を持ち出してきたことに関して、私はハッキリ言って脱帽したというか、脚本家の方がミステリ作品を映像化するにあたってちゃんと勉強しているということが伝わって本当に感心したわ。

 

いや~私もクリスティの作品は結構読み漁って来たから大抵ミステリ小説を読むと「あ、ここはクリスティの『〇〇』をオマージュしたな」という具合にオマージュ要素を見抜くスキルが身に着いているのだけど、今回のドラマを見たらまだまだそのスキルは磨く余地があるなと思ったし、日本のミステリドラマに携わる人の中にも志の高い人がいるとわかって何だか安心したよ。

 

オマージュは一作だけではない!

今回のスペシャルドラマが『エッジウェア卿の死』をリスペクトした作品だということは述べたが、実を言うと今回のドラマにおけるオマージュは『エッジウェア卿の死』だけではない。『エッジウェア卿の死』に加えてもう一作、クリスティの某有名作がオマージュされて今回の物語のトリックとして組み込まれているのだ。

しかし、その作品のタイトルを言ってしまうと間接的にその作品のトリックをネタバレすることになってしまうので、オブラートに包むような形でそのオマージュ要素について言及したい。

 

ミステリ作品において作者は様々なテクニックで読者をミスリードさせるが、そのミスリードの一つに動機のミスリードがある。犯人は自分が疑われないように特定の人物に疑いの目を向ける偽装工作をするというのがよく見られるパターンだが、その中でも自身の犯行動機をカモフラージュするために猟奇殺人鬼の仕業に見せかけたり、わざと連続殺人にして本当のターゲットをわからなくするといった手段が用いられる。今回のドラマでもそういった犯人の真の犯行動機をカモフラージュするための殺人トリックが仕掛けられているのだが、この騙しのテクニックがクリスティの某作品を彷彿とさせるのだ。

その某作品では序盤から登場人物の会話を通して読者に強烈な先入観を植え付けた上で殺人を発生させることで、犯人の真の犯行動機をカモフラージュするという斬新なミスリードがとられていたが、今回のドラマでもその某作品と同様の手法が用いられている。資産家殺しというごくありふれたプロット、これがミスリードに一役買っているのと同時に、その上で犯人の動機につながる情報がさらっと挿入されているのだから実に隙がないし、ミステリとしてもフェアだと感じたのだ。

 

さいごに

以上、今回のスペシャルドラマはクリスティ作品をオマージュした内容になっていて原作以上に面白い出来栄えになっていて素直に感心&満足したし、原作だと途中で存在がかすんでしまった残り二人の容疑者が、ドラマではテレビ局の密着取材のオチ要員として有効活用されていたのも見逃せないポイントだ。短編作品になるとどうしてもトリックがメインになって一部登場人物(容疑者)の扱いや描写が雑になってしまう作品があるけど、そんな「捨て駒」的な容疑者を物語のオチとして改変して利用したのは良かったと思う。まぁ、実際にあんなことが起こったら那野市民どころか、日本全体が大騒ぎになる一大スキャンダルだからオチとしてはリアリティに欠けるのだけど…ww。

 

ところで、今回のドラマは主演の浜辺美波さんのツイートによると2年半前に撮影されたらしいが、そんな前に撮影が済んでいるのに何故今頃になって放送されたのか、気になって仕方がない。今回のドラマのラストの展開から考えると、恐らくテレ朝は連ドラとしてシーズン2を放送する計画があって、その放送の前に今回のスペシャルドラマをやるつもりだったのかもしれないが、思いのほかに原作のストックが貯まらず連ドラの計画がお流れとなり、このままだとスペシャルドラマがお蔵入りになってしまう恐れがあったから、やむなく今になって放送を決意したのかな?と考えてしまった。

個人的にはシーズン2なんて贅沢なことは言わないから、今回のドラマみたいに定期的に単発ドラマを放送して、息の長ーいシリーズになってほしいなと願うばかりだ。

雨穴風お化け屋敷的〇〇村ホラー!?【映画「変な家」レビュー】(一部ネタバレあり)

さーて、ようやく映画「変な家」を観て来たのでレビューしますか!

変な家 文庫版

実はちらっと既に映画を観た人の評価を目にしたのだけど、軒並み低評価が目立っていて「おやおや…?」と不穏な気持ちになったので、(本当は原作を読まずに観ようと思っていたが)原作を全部読んでから鑑賞しました。

ちなみに今回は間宮さんに興味を持ち始めたうちの母親と共に鑑賞しました。どうやら私が知らない間に昨年放送されたドラマ「真夏のシンデレラ」を見ていたようで、CMも含めて彼の男前ぶりに関心を持ったみたいです。別に私が布教したとかそんなんじゃなくですよ。

 

(以下、原作含む映画本編について若干のネタバレあり)

 

作品概要

今回の映画は性別不詳の覆面作家・雨穴氏が2021年に刊行した小説「変な家」が原作になっているが、この小説の始まりは2020年10月までさかのぼる。

 

omocoro.jp

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ウェブライターとしても活動している雨穴氏はオモコロに投稿した記事を自身の YouTube チャンネルで動画化、その評判を受けて2021年には新たなエピソード・間取りが追加された完全版として書籍化され、2023年に漫画版が発売された。

 

変な家: 1 (HOWLコミックス)

発端となった記事投稿から映画公開に至るまで何と丸4年も経っていないのだから、メディアミックスとしては異常なまでの急発展を遂げた作品と言えるだろう。

 

本作は家の間取りから「その家で何が行われていたのか」を推理するというホラーミステリーであり、従来のホラー及びミステリーでは重視されなかった間取りをお題にした作品という所に新奇性があって、なおかつ妙なリアリティがある。これが本作の魅力と言うべきポイントだ。

 

一応ここで解説すると、従来のミステリー作品においては間取りはメインではなく例えば犯人特定の手がかりだったり、現実世界からかけ離れた異様な世界観を構築する材料という、言うなれば主役ではなく脇役的な扱いが多かった。綾辻行人氏の〈館〉シリーズや島田荘司氏の『斜め屋敷の犯罪』を読めば、ミステリー小説における間取りがどのように扱われているのかわかるし、間取りはあくまでも意外なトリック・意外な犯人を支える部品の一つという感じなのだ。

 

そんな脇役を主役として描いたことが珍しかったのと同時に、本格ミステリー小説にありがちな浮世離れした世界の話ではなく、モキュメンタリー形式で描いたこともこの作品の優れたポイントで、日常の隣にある、でも外からは容易にうかがい知ることの出来ない家の中の闇を間取りという観点から紐解くという所に、単なるフィクションでは味わえない不気味さがある。去年ホラー好き界隈で話題になった『近畿地方のある場所について』もモキュメンタリー形式で書かれた小説だから、モキュメンタリーは日常のすぐそばにある恐怖を描く上で実に有効であり、普段読書をしない若者にも取っつき易かったのもヒットに影響していると考えられるだろう。

 

今回の映画は原作者の雨穴氏に相当する〈雨男〉こと雨宮が主人公で、最近ユーチューバーとして活動がマンネリ化しているという映画オリジナルの設定が用意されている。また、事件の発端となった「変な間取り」を紹介した柳岡も原作では単なる知人だったのに対し、映画では雨宮のマネージャーという形で改変された。他にも改変ポイントは色々とあるがそれについてはこの後の項で語りたい。

 

低評価の理由

さて、まずは何故低評価の意見が多いのかについて私なりに述べようと思うが、率直に言って今回の映画からは原作特有の「らしさ」が感じられないというのが最大の原因だろう。上に掲載した雨穴氏の動画を見ればその「らしさ」がよくわかるのだが、雨穴氏はあまりホラー演出に趣向を凝らすタイプではなく、実に淡々と物語を語るストーリーテラーなのだ。それに雨穴氏はホラー作家という枠組みだけで語れるような人ではなくて、自分で創作したオリジナルのキモい海洋生物を紹介したり、毎年変なおせちアイテム(?)を購入して頭を悩ませたりと、かなり独特というかキワモノ的な世界観を持つクリエイターだから、そういうテイストを期待していたファンも少なからずいたと思う。

しかし、雨穴氏に相当する雨宮にはそういった独特さがまるで皆無であり、「スランプ気味でバズるネタを求めて事件に深入りしてしまうユーチューバー」という凡庸なキャラ設定にされているのだから、真っ先にそこで不満を抱いた人がいても不思議ではない。

 

しかも本作はミステリーよりもホラー演出に気合いの入った作品なので、元の動画のような淡々と恐い事実が明るみになるという感じではなく、いきなりドーン!と音がなったりビクッ!となる演出、要はジャンプスケア系のホラー演出があるため、「雨穴さんの作品だからホラー苦手でも大丈夫だよね~♪」と軽い気持ちで観に行ったら心底怖い思いをする羽目になるだろう。そういう点でも悪い意味で裏切られたと受け取った人がいたと思う。

 

そして本作は「ゾクッとミステリー」という謳い文句で宣伝されていたので、じゃあ肝心のミステリー要素はどうだったかというと、第一の間取りと第二の間取りは(カットされた説明はあったが)大体原作通りでこの辺りまではまずまずといった感じなのだが、映画の後半、つまり第三の間取りに関しては原作で起こった不可解な事故死が完全にカットされて栗原が(ネタバレなので一応伏せ字)仏壇裏の隠し通路(伏せ字ここまで)を見つける下りが推理というより当てずっぽうに近いことになっていたのが個人的には不満だったかな。事件の元凶となったある出来事についてもかなり簡略化されて描かれていたし、そこも本作が凡庸なホラーミステリーになった原因の一つだと思う。

 

では原作通りやれば良かったのか?

低評価の原因について一通り語った所で、じゃあ原作に忠実に映像化していたら面白くなったのかと言うと、私は全くそう思わない

 

原作は大きく四つの章から成っており、第一章から第三章までは間取りから「この家で何が行われたのか?」を推理するパート、そして結末部の第四章で「何故このような行為が行われたのか?」という事件の遠因となる出来事、つまり事件の動機が関係者の口から語られるのだ。

この構成を見てもわかるように、本作は謎解きにおけるカタルシスを重視した作風ではないし、部分的に見れば間取りをテーマにした斬新なミステリー小説だと思うだろうが、総合的に見ると原作「変な家」は江戸川乱歩横溝正史といった昭和の古典ミステリーに近い作品なのだ。だから私のようなミステリーマニアにとっては新進気鋭のミステリーという感じではなく、シャーロック・ホームズが登場する『緋色の研究』や明智小五郎が活躍する『D坂の殺人事件』という古典的名作を読んだ感覚に近い。今現在本格ミステリー作家として第一線で活躍している青崎有吾氏や今村昌弘氏・阿津川辰海氏といった作者の作品と比べるまでもなく、トリックも作品としてのクオリティも古典的というかクラシックな感じなのだ。

 

古典的・クラシックと言うと聞こえは良いが、悪く言うとミステリーとしてはツッコミ所や穴があると言える。今回の映画でミステリー面に不満を持った方が多くいたと思うが、実際の所原作も栗原の推理には結構飛躍的な発想が見られるし、最後の四章で語られた「ある人物の計画」に関してもちょっと都合の良さを感じるポイントがあって手放しで褒められる出来とは言い難い。事件の元凶となった出来事に関する部分も、原作はもっと複雑で複数の思惑が混じっているから、スッキリ謎が解明されないし理解するのにちょっと時間が要ったかな。

 

そもそも今回の「変な家」に限った話ではないが、ミステリー作品を映像化、特に映画化するのは他のジャンルに比べてかなり難しい。映画はドラマや配信動画と違って間にCMが挿まれないし一時停止することも出来ないから、視聴者が劇中の手がかりだったり事件を考える余地が全然ないし、探偵がスラスラ推理を披露してもそれを視聴者が理解する間がないと折角トリックが優れていても意味がない!

それに推理パートは基本これまで起こったことを説明するだけだから、物語として動きがなく下手な監督が撮ると単調な展開になってしまう。トリックを複雑にすると説明が多くなる上に視聴者がついていけなくなるし、かと言って単純にすると面白みに欠けてつまらなくなるのだから、ミステリーの映画化はデメリットが圧倒的に多い。故に、ミステリーを原作通り映像化することは、私に言わせてみれば無理難題・不可能事だと思うし、改変はあって当然だと思う。

 

今回の映画では後半をミステリーではなく〇〇村ホラーとしてかなり大胆な脚色をしているが、これ自体は全然問題ではないし映画としては大きな見せ場になっていて原作では味わえないカタストロフィ(大破局)もあって良かったと思っている。

では「ミステリーとしてイマイチでもホラーとしては良かったのか?」という疑問について答えてみよう。

 

結局従来のB級ホラー映画に

「変な家」に連なる家にまつわるホラー映画として思い出すのは2015年に公開された小野不由美氏原作の残穢 ―住んではいけない部屋―」だ。

残穢【ざんえ】―住んではいけない部屋―

残穢」は家とその土地がテーマの作品で、ざっくり言うと心霊ホラーなのだが、従来のような幽霊がバァ!と驚かす感じの怖さではなく、点と点がつながっていくミステリー的な怖さが味わえる作品だ。そういう点では「変な家」の先輩的作品と言えるかもしれないが、この映画では結局最後の最後で目立った怪奇現象によるホラー演出で締めくくったのでB級ホラーになったというのが個人的な感想だ。

 

基本的にホラー映画は全てスッキリ解決するのではなく最後に何かしら不穏なものを残して終わるというのが王道のオチであり、今回の映画も従来のホラー映画同様そういう不穏な結末で締めている。あ、別にそういうベタなオチがダメだとかそういうことを言いたいのではなく、物語の着地の仕方として中途半端な感じがしたんだよね。

あの最後のオチは原作を読んで原作で説明された登場人物の因果関係を知っていたら何となく意図する所は理解出来るのだけど、原作未読の人にとっては意味がわからないし、ホラーとしてもミステリーとしても、もうちょっと補足説明が必要だったと思うポイントだ。

 

それからネタバレになるけどこの映画、最後に黒板を爪でひっかくような音が結構な音量で流れるのだけど、あれは本っ当に最悪だったわ。この映画を撮った石川淳一監督には届かないと思うけどさ、本当に上質なホラーには恐怖だけが必要なのであって不快感は極力排除すべきものなんだよ。特に本作はミステリーとして銘打っているのだから、ただでさえ観客は騙し討ちを喰らったようなものなのに、最後の最後であの不快な「キィ~」って音を大音量で聞かされたらそら文句の一つも言いたくなるってもんですよ?家のテレビと違って音量調節が出来ないのだからその辺りもっと配慮してもらいたかったですねぇ…。うちの母も「うるさかった」って文句言ってましたよ。

 

さいごに

ということで映画「変な家」はホラーとしてもミステリーとしてもツッコミ所満載でお世辞にも映画化として大成功した作品とは言えないだろう。とはいえ、ミステリーをホラーとして映画化するというのは、松竹で制作された映画「八つ墓村」という前例作品があるし、あの「八つ墓村」に比べたら本作は十分ミステリーとしての面白さはあったと思う。

 

パンフレットによると石川監督は大のホラー映画好きとのことで、自分の好きなものを詰め込んだという情熱は少なくとも伝わって来た。某有名ホラー映画をオマージュしたシーンもあったし、かつて金田一耕助として一世を風靡した石坂浩二さんにあんな役を演じさせたのも、一人の横溝正史ファンとして感慨深いものを感じた。

あと美術スタッフの仕事が本当に見事だった!古い家の床板とか壁の質感がリアルで、主観視点の撮影手法とあいまって圧倒的な没入感があったのもこの映画の評価ポイントだ。間宮さんがインタビューで「この映画はアトラクションみたい」だと言っていたのも納得だし、映画の後半は遊園地のお化け屋敷に入ったようなドキドキに満ちていた。っていうか、折角だしお化け屋敷としてUSJのハロウィンの時期にアトラクションとしてオープンしたら良いんじゃないですかね?

 

そうそう、日本では厳しい評価で迎えられたが、ポルトガルで開催された第44回ポルト国際映画祭で審査員特別賞を受賞していることに触れておかないといけないな。

この評価の違いは何だろうと私なりに考えてみたけど、一番は情報量の差だと思う。ポルトガルの人は原作小説の内容とか、そもそも原作者がどういう人物なのか知らない、前知識の無いまっさらな状態で映画を見て「面白い!」と感じたと推察されるし、日本ではすっかり定番ネタになった土着的なホラーが海外の人にはきっと新鮮に映ったことは想像に難くない。

 

そう考えると、今の日本人って純粋に映画を楽しめない環境に追い込まれているって感じがして、何と言うか映画を観る側も作る側もつくづく損な感じになっていると思わされる。特に今年の1月は「セクシー田中さん」の原作者の自殺が大きな問題として世間を騒がせたし、その影響で原作の改変に関して敏感になっている時期だからまだその風潮が抜けてない時期に映画を公開したことも、本作の低評価につながっているんじゃないかな?と考えた訳だ。

そういう訳だから、今は低評価が目立つ本作も時間が経てばワインのように味わい深い作品として再評価される時が来るだろう。少なくとも私はそれくらいの資質はあったと断言したい。

1回目はホラー、2回目はシュールギャグ【映画「黒い家」レビュー】

どうも、タリホーです。映画「変な家」、公開されましたね。

もう既に劇場で観た人もいると思うし私も週明けに観に行く予定だが、その前にこっちの家をレビューしておきたい。

 

黒い家 [DVD]

それは YouTube の角川シネマコレクションチャンネルで現在期間限定公開(3月29日まで)されている映画「黒い家」だ。原作は貴志祐介氏の同名小説で、第四回日本ホラー小説大賞を受賞している。とはいえ第一回・第三回は大賞受賞作がないため実質的に本作は『パラサイト・イヴ』に次ぐ二番目の大賞作品である。

 

簡単にあらすじを説明すると、本作は保険金詐欺を題材にした作品で、生命保険会社に勤める若槻という社員が、菰田夫妻の子供・和也の首吊り死体を発見する所から物語は始まる。和也には生命保険がかけられており、夫の重徳から保険金の支払いを催促されるのだが、支払いのための調査を進めていると重徳は障害給付金目的で自分の指を切り落とす「指狩り族」の残党であることが判明する。更に調査を進めていくと菰田夫妻には人格的に問題がある疑いも浮上してきて…。

 

とまぁこんな感じで、本作はホラーとしてはサイコスリラーに分類される作品で、私も原作を読んだことがあるが確かに怖い作品だった。今では当たり前になったサイコパスを描いたという点でもエポックメイキングとしての価値があると言えるだろう。

 

(以下、原作を含む映画のネタバレあり)

 

実は原作通りでない

では映画は原作の怖さを再現出来ているのか?という話になるが、正直言うと映画はかなり独特な演出が強いし、脚本も実は原作通りではないため、純粋にホラー映画として評価すると結構微妙に感じるポイントもある。最初に観た時は怖く感じても、二度目に観るとむしろシュールでギャグじゃないのコレ?って思う場面もあるくらいだ。

 

これは脚本を含めた映画の構成の問題だと思うが、原作は当初菰田幸子を夫の重徳の命令で保険金詐欺の片棒を担がされている哀れな女性として見せており、それが実は幸子の方が黒幕でヤバいサイコパスだったというミステリ的などんでん返しがあるのが特徴だった。しかし本作の映画ではあまりそういう趣向は意識されておらず、幸子の方も異常者として最初の登場シーンから描いているから意外性に欠けるし、主犯と思われていた西村雅彦さん演じる重徳も、ヤバい人ではあるけど「怖い人」として描写されているかというとそれは違うかなと思った。知能に問題がある人には見えるけど、誰かをコントロールするようなサイコパス特有のヤバさは感じられないから、やはりその点に関しては原作のどんでん返し的展開を狙った演技プランを監督は求めていなかったと考えるべきだろうか。

 

※中盤の幸子のボウリングの場面を見れば、息子が死んだ直後にボウリングをしている時点でサイコパスであることは明らかなので、やはり監督は原作のサプライズ展開はどうでもよかったんだろうな…。

 

若槻のキャラ設定(演技)に不満あり

これは個人的な不満ポイントだけど、内野聖陽さんが演じた若槻のキャラ設定というか演技プランがホラー作品としては完全に失敗していると感じた。

ホラー作品の主人公は読者や視聴者と同じ立場というか考え方で恐怖に対峙することで、我々も同じ目線・感情で作中・劇中の恐怖を味わえるし、それこそがホラー作品の主人公が果たすべき役割だと思う。でもこの映画における若槻って何か共感しにくいしむしろイラっとさせる要素がある。気弱な性格を表現したつもりかもしれないけど、あのボソボソした話し方は字幕なしだと聞きづらいし、舞台は保険会社なので専門用語とかも当然出て来るのだから、まずこれは内容以前の問題だと思った。

 

あと若槻が水泳をするシーンが途中で何度も入るの、あれも良くないかな。ボウリングをする幸子と対比した演出なのだろうし、ああいうストレスを抱えやすい職業柄スポーツをしてストレスを発散するのは理に適っている。でも、あの場面が入る度に若槻と私との間で心理的距離感が生まれるというか、「運動してリフレッシュ出来ているのだったら、もっと普通にしゃべってよ。台詞が聞き取りにくいんだよ!」って感じたわ。

それから特に酷いのが心理学者の金石と二人きりでストリップ劇場でサイコパスの話をしている場面だな。何だろう、監督としてはサイコパスを異形の人間として語る金石も私たちから見れば十分異常な人間であることを演出で見せたかったのかもしれないけど、あそこで一緒に若槻も踊っているから私は若槻も異常だと感じたし、映画の若槻は私たち観客と同じ感情を共有する主人公ではないと判断した。

 

正直これをホラー映画として、しかもこの後の展開も加味して考えると若槻は観る側が共感・感情移入出来るキャラにしないといけないのに、「若槻も何だかんだ普通じゃないよな」って思わせる演出・キャラ設定にしたから、だから結果的にホラー映画として満足出来ない作品になったと言いたいのである。

 

圧巻の大竹しのぶと家のディティー

以上のように、本作は原作のプロットや主人公の若槻の描写を改変したことでホラー作品として色々難点が生じているのは否めないが、それでも幸子を演じた大竹しのぶさんの怪演は圧巻の一言に尽きる。終盤の若槻との戦闘における「乳しゃぶれぇ!」はまぁ恐怖を通り越してギャグになっていたと思うけど(苦笑)、感情が読めない・理解出来ない人間を見事に演じていたのは流石だ。

 

個人的に幸子に関しては大竹さんの演技もさることながら、菰田夫妻の家からも幸子の異常性が読み取れるのが良いなと思った評価ポイントだ。若槻の恋人である恵がさらわれて若槻が助けに行くシーン(具体的には本編の1時間30分辺り)を見てもらえればわかると思うが、あの家って平屋建ての和風建築なのに、幸子の部屋と思しき和室だけはロイヤル調の椅子や机でレイアウトされているし、棚にはトロフィーが並べられ、天井には小さなシャンデリアが吊るされている。一方それ以外の部屋は廃屋同然の汚さで、床はホコリと新聞にまみれ、風呂場は血がこびりついて黒ずんでいるという具合に、自分の空間だけが綺麗に整理されてそれ以外は無秩序という所に幸子のパーソナリティーがよく表現されていて感心したわ。よく見ると廊下も趣味のボウリングを練習するためのレーンとして細工を凝らしているし、本当に自分本位な性格だったんだなと思わされる。

そういや夫の重徳の服装はボロいというか薄汚さを感じたのに、幸子の服装は一貫して小綺麗だったから、そこからも夫妻の主従関係が読み取れるようになっているよね。

 

さいごに

ということで映画「黒い家」をレビューしてみたが、ホラーとしては良い所も悪い所もあってなかなか評価が難しい作品だと思う。ある意味トラウマを植え付けられた人もいると思うし実際劇中ではエグい描写も散見される。しかし、良くも悪くも完全に肝が冷えるような作品ではないので、案外ホラーが苦手な人にもおススメ出来るかもしれない(まぁ流石に子供には勧めないけど)。

 

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ちなみにこの「黒い家」、2007年に韓国でリメイク化されているが、こちらは結構原作寄りの内容になっていたはずなので、気になる方は是非観てはいかがだろうか?

全体的に湿っぽいドラマ化【なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?】

さて、昨年末に予告していた通り、ドラマ「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」をレビューしようと思う。

 

www.nhk.jp

ドラマは昨年の11月に放送済みだが、来月にNHK総合で放送されるみたいなので、未視聴の方に配慮して出来るだけネタバレ控えめで感想を語っていきたい。

 

作品概要

なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか? (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

ドラマの原作はアガサ・クリスティが1934年に発表した同名小説。元海軍勤めのお人好しの青年ボビイがゴルフのラウンド中に崖下で転落した男性の瀕死体を発見する所から物語は始まる。瀕死の男性が死ぬ間際に遺した「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」という謎の一言を軸にした事件で、ボビイの幼馴染みで伯爵令嬢のフランキーと共に事件を捜査していく、冒険活劇ミステリだ。

 

若い二人の男女が探偵活動をするというのはクリスティの代表作の一つであるトミー&タペンスシリーズと同じ趣向であり、本作が発表された年はトミー&タペンスものの短編集『おしどり探偵』(1929年)と長編『NかMか』(1941年)の中間に位置する。『アガサ・クリスティー完全攻略』の霜月蒼氏の批評でもこの点については指摘されており、傑作『NかMか』が発表されるまでの間に生み出された、「神経のゆきとどいた秀作」として評されている。

確かに本作は『NかMか』における秀逸なミスリード・意外な犯人といったサプライズ要素は薄いし、事件の真相がやや雑然とした印象を与える作品だ。とはいえ決して面白くない訳ではないし、霜月氏が指摘したようにキチンと伏線が張られていたり犯人につながる手がかりが実にさり気なく配置されている。また、フランキーを伯爵令嬢という設定にしたことで、トミー&タペンスでは出来なかった金と人脈に物を言わせた捜査手法がとれるようになっているのも本作の見所の一つであり、物語中盤でフランキーがバッシントン-フレンチ家に潜入する作戦を読んだ時は思わず笑ってしまったよ。余りにも豪快過ぎて。

 

な~んか全体的に湿っぽい

原作は過去に三度映像化されており、そのうちの一回は2011年にミス・マープルものとして改変され映像化している。過去作は未視聴なので今回のドラマだけにしぼったレビューとなるが、率直に言うと今回のドラマ、原作を読んだ際のカラっとした感じの作風ではなく、全体的にしっとりとした湿っぽい感じの演出・脚本になっているなと思った。内容自体は原作で死ななかったとある人物が追加で殺害されていることと、エンジェルという名のいかにも怪しい男が暗躍するという点をのぞけば大体原作通りなので、別に大幅な原作改変によって湿っぽい作品になったという訳ではない。原作におけるスリラー要素を強調したことや、初回で描写されたボビイとフランキーのちょっと複雑な恋愛関係が湿っぽさに影響しているのだろう。原作でもお互い身分が違うということが原因で一歩踏み込めない関係を保っていたのだが、今回のドラマでもその辺りの関係性は描写されている。

 

また、親を愛している一方でうっとうしく思う若者の心理も原作ではボビイと彼の父親である牧師との関係を通じて描かれているが、今回のドラマではどちらかというとフランキーの方にその要素を強く感じた。というのも、ドラマでは原作に登場しないエマ・トンプソン演じる伯爵夫人(フランキーの母)が登場しており、娘がドレスを勝手に持ち出したことにキレてガミガミ文句を言うめんどくさい母親として描かれている。当初は正直言って余計な追加人物だなと思ったが、最後まで見ると本作のミステリ的な部分に関わってくることがわかる。この追加要素は個人的には感心したポイントだ。

 

とはいえ、全体的にはミステリというよりもスリラー・サスペンス要素の方が強く、視聴者も一緒に謎解きが楽しめるという感じのドラマではない。原作で犯人がうっかりやらかしたミスが今回のドラマではカットされているため、論理的にこの人が犯人だと指摘するのは無理だし、物語の軸となる「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」というダイイングメッセージにしても、物語終盤でようやく意味が分かる代物なので、「ここに気づいていたら犯人や真相がわかる!」というタイプの作品ではない。

 

全体的にはまずまずの映像化という感じで大きな不満はないけれど、やはり私は原作のカラっとした作風の方が好きだし、ボビイが毒を盛られて病院送りになった下りとか、エヴァンズの正体がわかった場面におけるボビイとフランキーのコミカルなやり取りが気に入っていたので、そういったコミカル要素が抜けてシリアス寄りになっていたのがちょっと勿体なく思えた。もしかすると過去作との差別化を図って敢えてシリアス路線にしたのかもしれないが、何だろう、「見ているこっちがワクワクするような探偵モノ」という原作から感じられた探偵活劇としての面白さが抜けてしまった感じが否めないんだよね。

言うまでもなく、ボビイとフランキーが事件を捜査する動機って正義感ではなく好奇心・野次馬根性から始まっているのだから、多少不謹慎かもしれないけどワクワクしている感じをもっと出して欲しかった(特にフランキーは!)し、コミカルとシリアスのメリハリをきかせた演出・脚本だったら面白かったと素直に評価出来たかな?

原作実写化成功のカギは「作り手の誠実さ」と「センスの良さ」

Twitter の方で話題となっている原作実写化における原作者と制作側とのトラブル、何の因果か以前当ブログでも触れた「霊媒探偵・城塚翡翠」「invert 城塚翡翠 倒叙集」と同じ日テレの日曜ドラマ枠で起こったみたいで、漫画「セクシー田中さん」の原作者・芦原妃名子氏のツイートが発端となり、ドラマを担当した脚本家の相沢友子氏のバッシングをする人が出るという始末で、まぁ実に嘆かわしいというか不毛な事態になっている。

 

この騒動が予想以上に炎上したこともあってか、芦原氏は発端となったツイートを削除し謝罪しているが、問題なのは実写化にあたって原作者の依頼をなおざりにしたプロデューサーや出版社の担当者といった仲介役の不手際であり、脚本家を叩くことはお門違いも良いトコだし、原作者にこのような告発・謝罪のツイートを出させた時点でドラマ化に関わったスタッフや出版社はプロの仕事人として失格だと思うのだ。

 

※2024.01.29 追記

芦原妃名子氏がお亡くなりになったそうです。記事をアップした直後にこの訃報を知ったので正直ショックが大きいです。ドラマは見ていなかったとはいえ、このような最悪の事態を迎えてしまったことを残念に思います。

 

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今回の騒動については「霊媒探偵・城塚翡翠」の原作者と同じ事態になっているため日テレはまたしても同じ過ちを繰り返したことになるが、相沢沙呼氏の時以上の炎上となった今回の騒動で改めて原作の実写化について私も色々と考えたのだけど、個人的に今回の一件も含めて原作を実写化する上で重要なのは「作り手の誠実さ」ではないだろうか?

では「誠実さ」とは具体的にどういうことなのかという話になるが、原作者との相互理解や取り決めの上でドラマ(映画)が制作されているか、というのは最低限守るべきラインであるのは勿論のこと、原作が何を大事にしており、どういった作風なのかといった作品に対する理解度も「誠実さ」として反映されてくると思うんだよね。

 

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例えばミステリマニアの間で話題となった「貴族探偵」は、放送当時誰が言ったか知らないけど「『原作に忠実』ではなく『原作に誠実』」というコメントがあった。正にこれって「貴族探偵」の実写化成功を端的に表した言葉だなと思うし、原作者の麻耶雄嵩氏の作風を理解した上で原作の設定をいじって謎解きを改変しているから、原作以上に濃度の濃いミステリになっていて本当に面白かったし、毎回こちらの予想を上回る改変になっていた。視聴率とか一般的な評価だけを見ると成功したとは言えないかもしれないけど、原作の実写化という点では間違いなく大成功したと言える作品だ。

 

「作り手の誠実さ」は作品に反映されるから決して視聴者に伝わらないなんてことはないし、確か映画「大怪獣のあとしまつ」の制作陣が映画公開後に「こちらの伝えたいことが伝わらなかった」とネット記事で述べているのを見かけたが、あれは作り手側の言い訳にしか過ぎず、怪獣映画を制作する時点で特撮マニアが映画館を訪れるという単純な予想すら出来ていない。そこが視聴者(観客)に対して不誠実なのだ。

 

誠実さに関して言えば、最近のドラマは人気のある俳優をやたらと使いまわしており、何クールも連続で出演している方を見かける機会が増えたけど、これも正直言うと「人気のある俳優・アイドルを出せば視聴者は喰いつくだろう」という作り手側の舐めた姿勢を感じる時がたま~にあるし、ファンの「俳優・アイドルを応援する心理」を利用しただけの作品は得てして駄作になりやすい。売ることを意識して作品に向き合わないのだから、その結果単に原作のストーリーをなぞるだけの作品になった実写作品も多々見受けられる。

 

過去の実写化作品を例に「センスの良さ」を語る

さて、原作を実写化する上では、作り手が誠実だからと言って成功するとは限らない。実写化においては「センスの良さ」も重要なポイントとなるのだ。それを語るためにここからは具体的な実写化作品を例に出していこうと思う。

 

LIAR GAME 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

実写化作品の中で個人的に「センスの良さ」で勝利した作品として真っ先に挙げられるのは甲斐谷忍氏が原作のLIAR GAMEだ。ドラマと映画を見た上で原作にも目を通したけど、もし原作通りやっていたらあそこまでの人気シリーズにはなっていなかったのではないかと思う。原作は確かに良く出来た緻密な作品だけど、一方でどこか地味であり特別キャラクターに魅力があると言いにくい作品だ。

しかし、ドラマはゲーム会場が非日常的空間として参加者にやすらぎを与えない空間として演出されているし、登場するキャラも原作以上に性格が誇張されているというか、フクナガに関しては全くと言って良いほど別物だからね。でもあのドラマ版のフクナガの存在がライアーゲームにおける参加者の心理――人を騙し出し抜く快感と冷血になり切れない人間心理――を一人で体現していて、オリジナルのキャラ造形として作品にマッチしていたと評価出来るし、単調になりがちな心理戦を彩っていたと言えるだろう。この世界観の演出とキャラ設定の改変は、ドラマ制作陣最大の功績であることは間違いない。

 

新・信長公記~ノブナガくんと私~(1) 新・信長公記 ノブナガくんと私 (ヤングマガジンコミックス)

比較に適しているかわからないが、同じ甲斐谷氏原作の漫画「新・信長公記も「センスの良さ」という点で触れておきたい。あ、比較なので勿論こちらは駄作として語るよ?

 

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この作品は2022年に読売テレビ制作で実写化されており、もう既に当ブログでレビューはしているが、改めて言及するとドラマは原作で私が面白いと感じたポイントをことごとく潰している

ライアーゲームほどではないが、原作は「旗印戦」という自分が掲げたマニュフェストを達成することでポイントがもらえるというゲームがあり、そのゲームで勝てば学園のトップになれるので、学園のトップになるため戦国武将のクローンが時に謀略を張り巡らせ、時には不良漫画らしくバトルを繰り広げるといった物語だ。だから「旗印戦」が本作最大の見所であるのは勿論、戦国武将のクローンが登場するため当然本作には歴史モノとしての面白さも詰まっている。歴史の教科書を読んだだけではわからない戦国武将の性格やそれを示したエピソードが挿入されており、そこも原作を読んでいて面白かったと感じたポイントだ。

 

ドラマも前半は原作の展開をなぞっていたのだけど、後半から「クローンはオリジナルの宿命を乗り越えられるのか?」という正直よくわからないドラマオリジナルのテーマが盛り込まれて、原作の「旗印戦」の行方が最終回に向かうにつれどうでもよくなっているのがマジでクソみたいな改変だし、ドラマで挿入された歴史ネタも原作と比べると薄くてマニアックさに欠ける。

最終回なんて酷いよ。ドラマは原作とはまた別のラスボス的存在がいるのだけど、そのラスボスが「明日の戦いの前に宴でもしたらどうか」って敵側の戦国武将のクローンに提案するんだよね。ネタバレだけど、このクローンは遺伝子操作が原因で成年になる前に死ぬという定めになっており、ラスボスはそれを踏まえた上で「どうせお前たち遅かれ早かれ死ぬのだから最後に別れの宴でも開けば?」って言うんだよ。で、それでクローンたちはどうしたかと言うと、普通にラスボスの前で宴をやるんだよね。

いやバカの集いかよ!?

何呑気に言われた通りに宴会してるんだよ!仮にも戦国時代に名を馳せた武将のクローンだったら宴で楽しむフリしながらラスボスの寝首をかくような計画でも立てろよ!本当に成年に達する前に死ぬのかとかそういった裏取りも全然しないで、何ラスボスの言ったこと鵜呑みにして、翌日ノープランでラスボスが用意した兵隊と戦ってるんだよ!

 

元々原作もそのままドラマ化するには少々問題がある作品だったことは以前のレビューでも言及したが、それでもドラマ後半の脚本のクソさ加減に比べたら原作の方がマトモに感じるし、原作の方が明智光秀のキャラも立っていた。ドラマの要所要所で挿まれた各武将クローンの因縁も実に陳腐で薄っぺらいし、全てにおいて「この原作をドラマ化する必要あったか?」って思うくらい原作の実写化の必然性を感じない作品だった。

この脚本の改悪は「原作の実写化」という点で不誠実だったと思うが、センスの面について触れると、ドラマの後半では海外偉人のクローン(ペリー、ジャンヌ・ダルク始皇帝が登場する。まぁ作り手側としては当時の戦国武将が対峙したことがない海外偉人と出会ったらどうなるかという面白さを狙って盛り込んだオリジナル展開だと思うが、個人的な意見としては「海外偉人を出す前に先に顕如を出せ!」と言いたかったね。

 

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同じ織田信長を題材にした「信長のシェフ」でも描写されていたように、顕如は僧侶でありながら約10年もの間、信長の日本統一を阻んだ実力者である。全国各地に信者がいて武装蜂起すれば何十万もの民衆が兵となる脅威的存在だったのだから、どうせオリジナル展開にするのだったら顕如に相当するようなキャラを出して欲しかった。この辺り、どうもドラマの制作陣は制作にあたって歴史の勉強とかしてなかったみたいだし、海外偉人との絡ませ方も全然うまくなかったから、そこも不誠実というかセンスがないと感じさせられたポイントだった。

あと戦国武将のクローンもな~、熊本出身の武将だから熊本弁喋らせるとかキャラ設定が安直過ぎるし、最終回で登場したオリジナルの信長も永瀬廉さんに似合わない口ひげつけさせて、あれじゃあコスプレだよ。

 

以上を見ると日テレや系列局の読売テレビはろくな実写化をしてこなかったという印象を抱くし実際そうなのだけど、一応日テレの実写化作品で「これは面白かった!」と言える作品もある。

映画 妖怪人間ベム

それが2011年に実写化された妖怪人間ベムだ。原作は1968年に放送された同名のアニメであり、三体の妖怪人間がいつか人間になる日を夢見ながら、この世の悪と戦う怪奇ヒーロー譚である。

原作アニメは人間以外にも悪鬼・悪霊といった異形の存在とも戦うが、ドラマはそういったオカルト要素はなく、人間の心の闇を主軸にしたサスペンスとして描かれている。

 

このドラマ版「妖怪人間ベム」、原作の知名度は高いものの、そこまで詳しくアニメの各エピソードについて知っている人は少ない(実は私もそうなのだけど…)こともあってか、妖怪人間の基本設定以外はほぼオリジナルで、亀梨和也さん演じるベムも原作のビジュアルとはかけ離れたキャスティングだ。それでもこのドラマが素晴らしいと言えるのは、ドラマを通して人間の愚かさや愛しさ・素晴らしさというものを描いている点にあると私は思うのだ。

ドラマでは社会からのけ者にされたり、肩身の狭い思いをしていた人々がある切っ掛けで闇堕ちし、そういった人々が起こす事件を止めにベムたちが動くというのが大まかなストーリーだけど、こういった人間の心の闇や歪んだ精神によって引き起こされる事件は今現在でも度々起こっているし、ある種普遍的なテーマでもある。だから普通に考えるとそんな人間になりたがるベムたちの考えって理解出来ないというか、「いや人間になんてならない方が良いよ…」って言いたくなる所だけど、このドラマは緒方一家や夏目刑事一家との交流も描かれることで人間の温かみという、「人がもたらす絶望」だけでなく「人がもたらす希望」も描いているのが素晴らしいポイントで、そこが描写されているからベムたちが人間になりたいという思いにも説得力があるし、三体の妖怪人間のひたむきさ・実直さに私たち視聴者も胸が熱くなるのだ。

 

物語はオリジナルとはいえ、妖怪人間が人工的に作られた怪物であることや、柄本明さんが演じた裏で暗躍する男の存在は、海外の有名な怪奇小説フランケンシュタイン』や『ジキル博士とハイド氏』にも通じる所だし、このドラマが実写化として成功した裏には海外古典でも描かれた人間の愚かさや本質を作品に反映させたことも大きいと今更ながら気づいた次第だ。

 

見たいもの・期待しているものをみせない駄作

実写化失敗の原因の一つとして今ちょっと思ったのだけど、原作を読んでる・知っている人ってある程度「こういう作品であってほしい」という期待や、「実写化するならここは外してほしくない」という要望は少なからずあるはずで、そういった視聴者(観客)の期待や要望から外れた実写化は駄作になる傾向が高いのではないだろうか?

 

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以前私が酷評したドラマ「地獄先生ぬ~べ~」も視聴者が期待するモノをことごとく外した最低最悪のドラマだったけど、今思えばぬ~べ~の恩師である美奈子先生と覇鬼が登場しているのに、ぬ~べ~がどのように覇鬼を左手に封印したのかという原作でもかなり重要なエピソードを全っ然描いてないというのが今更ながらビックリするよね。原作ファンにとっては当たり前の情報だけど、仮にもドラマ化するのだから原作含めてぬ~べ~を全く知らない人が視聴する可能性だってあるのに、肝心要となるエピソードを映像化しないで人体模型とか怪人「A」とか、とにかく話題性ばかりを狙ったエピソードやキャスティングに意識を向けていて、何かそういう点でも「ホントにこの制作陣原作好きなの…?」って疑問しかわかない。っていうか、この制作陣はドラマ制作ではなくコスプレ・コント番組を制作する方がセンスも活かされるし、そういう采配が出来る人がいたらこんなクソ実写も生まれなかったんだけどな。

 

そういや調べてわかったけど「ぬ~べ~」のスタッフって「臨床犯罪学者 火村英生の推理」と同じだったんだね。

臨床犯罪学者 火村英生の推理(DVD-BOX)

これは「ぬ~べ~」ほど駄作認定されてないし、放送当時は一定の評判もあって Hulu で続編が制作されたくらいの人気はあったみたい。でも一人のミステリ好きとして言わせてもらうと、原作者はエラリー・クイーンをリスペクトしている作家なのに、このドラマはかなりシャーロック・ホームズシリーズを意識した作品になっていて、「探偵=ホームズ」という従来のミステリドラマの型に原作を当てはめて制作されている辺り、やはりこの制作陣は勉強不足だよなと思わずにはいられない。原作に登場しないシャングリラ十字軍という新興宗教とか、ライヘンバッハの滝を意識した最終回とか、まぁ改悪とまではいかないにしても従来のミステリドラマのお決まりのプロットである感じは否めない。

個人的にこのドラマで酷いなと特に思ったのは7話の「朱色の研究」の解決編。この場面の火村って目の前に事件関係者がいるのに、相手の神経を逆撫でするような語り方で推理を披露していて、ちょっと見ていて不愉快だなと感じてしまった。仮にも大学で犯罪学を教えている人がこんな無神経なことをする?って思ったし、「名探偵は賢い分、空気を読まない発言・態度をする」という従来の探偵像を火村にやらせているのだからそこも実にタチが悪い。

 

そもそも映像化された原作エピソードを見た感じ、長編は『ダリの繭』と『朱色の研究』『狩人の悪夢』で、それ以外は短編エピソードをチョイスしているから、この制作陣って作家アリスシリーズを特別実写化したかったのではなく、従来の探偵モノを作る上でどの原作・どのエピソードが相応しいか?という目線でエピソードを取捨選択したんじゃないかと思う。ファンだったら原作で人気のある「スイス時計の謎」とかシリーズ最初の『46番目の密室』をまず映像化してほしいと思うのに、実際に映像化されたほとんどはマイナーな短編ばかり。この点だけを見てもドラマからは作家アリスシリーズを映像化したいという気概が感じられないし、とりあえずミステリドラマをやりたいからこの原作を借りたという印象を受けてしまう。

 

さいごに

ということで過去の実例をもとに原作実写化に必要なのは「誠実さ」と「センスの良さ」だと語ってみたが、「誠実さ」に欠けた作品は原作や原作者に対するリサーチや勉強が不足するため従来のドラマにおけるプロットを無理やり当てはめたストーリーに改悪されたり、さして内容のない薄っぺらい物語がオリジナルで挿入されるという事態が引き起こされる。そして制作陣にセンスがないと漫画(2D)を実写(3D)に置き換えた時に生じる問題がイメージ出来ないから、コスプレ大会とでも呼ぶべき作品が生まれてしまう。

ただ、くれぐれも気をつけなければならないのは、どんな駄作・失敗作でもそれは一人の人間の一存で作られている訳ではないし、脚本がクソだからと言って脚本家が全部悪いかというと、そうとも限らない。こういったドラマ制作の内情は私たち一般視聴者には基本的には伝わらないのでどうしても部分でしか物事を評価出来ない面もあるが、2016年に読売テレビ制作・バカリズムさんが脚本を務めた黒い十人の女では、確か6話か7話でドラマ制作の内情が一部描写されていて、そこではプロデューサーや演出家・脚本家が集まってドラマの内容をどうしていくか打ち合わせをしていた。そしてプロデューサーの無茶ぶりで脚本がどんどんカオスになって、そのくせドラマがコケると脚本のせいにされるという脚本家の悲喜劇が描かれている。ドラマ自体は不倫をテーマにしたドラマなのでドラマ制作の悲喜劇がメインではないのだけど、原作者とドラマスタッフとのトラブルが顕在化した今、改めて視聴されるべきドラマかもしれない。TVer とかで配信すれば良いのにね。

坂本拓弥『体育がきらい』を読んで、自身の「体育嫌い」を振り返る

いきなりだが、私タリホーは学生時代から一貫して体育及び運動というものが苦手かつ嫌いである。そんな私が Twitter『体育がきらい』という本があることを知った。

 

体育がきらい (ちくまプリマー新書)

著者の坂本拓弥氏は大学で体育・スポーツ哲学を教えている方であり、一見すると「体育好き」側の人間が書いた本ということで、未読の人には「どうせ〈体育嫌い〉を否定して〈体育好き〉になろう!とかそんな趣旨の論を展開してるんだろ?」と思うだろうが、本書は「体育なんて好きにならなくてもいい」という著者の主張を軸にしながら、体育嫌いの原因を分析していく一冊だ。一通り読んでみたけど、決して体育を得意とする人間が書いた鼻もちならない感じは本書には全くないし、体育やスポーツを教える立場の人間が「体育なんて好きにならなくてもいい」というこの主張も矛盾したものではない。体育やスポーツという枠に囚われず、健やかに身体を動かしてもらいたいという思いが本書には込められている。

 

体育嫌いの始まり

さて、本書では「体育嫌い」の原因を主に授業・先生・部活・スポーツ・運動という5つの観点から分析しているが、正にこの5つは私の「体育嫌い」の理由に当てはまる要素だ。

私の「体育嫌い」の始まりは小学生の頃だっただろうか。当時体育の授業でサッカーをやることになって、いざ対戦試合をすることになったのだけど、その際私がミスをすることが多くて同級生のK君に怒られまくったという記憶が残っている。その子は当然ながらサッカーが得意だったから私が下手クソ過ぎることにイラついたのだけど、それが原因で体育に参加したくないと先生に言ったような気がする。その時は先生の仲裁によってK君とは和解出来たけど、このサッカーのエピソードの他にも小学生の時は鉄棒が嫌というか、逆上がりが怖かった(視点が上下逆さになるという恐怖!)思い出があるし、昼休みのドッジボールにしてもボールがつかめないからとにかくよけまくっていたらゲームが終わってから同級生から「よけてばっかりでズルい」みたいな文句を言われて「そんなこと言われてもつかめないんだから仕方ないでしょ…」と思って何も言えなかった記憶がある。

 

卓球部時代の不満、納得のいかなさ

体育が嫌いだったとはいえ、一応中学時代は卓球部に所属しており、それなりに真面目に三年間卓球をやっていた。今思い返すと楽しい思い出もあったが嫌な、というよりしんどい思い出も結構あって個人的に卓球部の頃の思い出は私にとっては複雑なんだよね。

複雑なのにはいくつか理由があるが、まず第一に卓球部の部長が、何と小学一年生の頃に私をいじめていた先輩だったという点だ。これは当の部長本人は完全に忘れていて私のことは一部員としか見ていなかったみたいだけど、私自身は覚えていたから、そこで私は凄くモヤモヤさせられた。小学生の時はイヤな人だったけど、中学で卓球部の部長となったその人は普通にマトモだったから、その変貌ぶりに納得がいかなかったのかもしれない。

 

そして顧問の先生の存在が私のスポーツ嫌いの原因になったことも挙げられる。その先生は中学二年の時の担任で、担当教科は社会だった。生徒からの評判も良かったし教え方とかもプリントに図説とかを載せてわかりやすく説明してくれる人だったからまぁ総合的には「良い先生」だったとは思うけど、一方で部活の時の顧問・コーチとしての先生はあまり好きになれなかったんだよね。

その先生は過去にバスケ部に所属していて、学生時代の頃の話を私たち部員にしたことがある。どうやら当時バスケ部の顧問をしていたその教師はどうも暴力的な人だったみたいで、パイプ椅子をふり回して生徒を殴って鼻血を出させるような教師だったらしいのだが、先生はそれを引き合いに出して「それに比べたら今のオレの指導はマシなんだぞ」という、何かすっごい恩着せがましいことを度々言っていた気がする。そりゃそうだけど、それを引き合いに出して自分の指導方法の正当性を主張するというのがズルいなと当時も今も思う。

 

で、その先生って当時年齢が30代ということもあってか影響されやすい、ある種ミーハーな面があってそこも個人的にはイヤだった。それを裏付ける出来事があったのだけど、その出来事というのは実は一度学校に卓球で世界大会にまで出た経験のある人をコーチとして外部から呼んだ時の話になる。その時に呼んだコーチの影響を受けて先生は翌日のトレーニングを変更、打ち合いのラリーを20回やって失敗した回数だけ腕立て伏せをする(しかも回数を大声で数えながら)というこれまでよりも厳しいものにしたんだよね。厳しいのが嫌だったのは勿論だけど、その厳しさが外部からの影響を受けた非常にミーハーなものだったことが私にとって不快だったのだ。それをやって技術が向上するとか明確なメソッドがあるのならともかく、理由もないまま単に回数をこなして上達なんてするのだろうかという疑念があったから、そこも私の「体育嫌い」につながる原因かなと思った。

 

この先生に関する納得いかないエピソードはまだある。先生は中学生の頃はバスケ部だったが高校生の時は弓道をやっていたらしく、武道経験もそれなりにあった人だった。だからなのか、部活が夏休みに入っていつも以上に練習時間が長くなった時に、部室とは別の体育館の二階の武道場で空手の突きみたいなこともやらされて、「いや卓球部なのに何で空手とか武道をやらされるんだよ」って内心ツッコミながら練習をしていた。先生としてはスポーツにおける心技体とやらを教えたかったのだろうが、私としては「やりたくないことをやらされた」という記憶として残っているので試みとしては失敗したと言えるだろう。先生との二者面談の時だったか、私は先生から「(卓球部での活動に対する)貪欲さがない」と指摘されたことがあるけど、そりゃ私は元々運動が苦手な人間なのだから、「そりゃそうだ」と内心思ったし、三年間やってみたけどスポーツの面白さは全然わからなかった。むしろそれはしんどいものとして身体に刻み込まれたといった方が正確だ。

ついでにぶっちゃけると、試合の時に着用するユニフォームも私の好みでない赤色のユニフォームで正直イヤだったかな。もう一着青色のユニフォームもあったんだけど、みんな赤色ばっかり着るから青色着たくても着れなかったんだよね。

 

『体育がきらい』の文中で著者も述べているが、スポーツって勝ち負けが重要で競争することに意義がある。だから県大会とか大規模な試合になってくると熾烈さを増してくるし、気合いの入った学校なんかは選手がハチマキをしめて試合に臨み、コーチとなる先生も選手に顔を近づけて怒鳴っているという、もう傍から見ても弱肉強食という感じの世界だ。だからスポーツは楽しいものではないとわかって私は高校に入って文芸部という文化系の部活に入ったのである。

 

仲良くない子に足技をかけるという辛さ

中学時代の体育の授業や部活もしんどかったが、実は一番苦痛だったのが高校の体育の授業である。というのも、中学までは親しい友人がいたので体育や部活をやる上でもある程度の気楽さがまだあったのに対し、高校時代は友人がゼロだったので、親しくない人とスポーツをするということに物凄く抵抗感があったし苦痛だった

特に辛かったのが柔道をやる時で、まだ球技とかはミスをしても「ごめん」で済ませられるからともかく、柔道は生身の相手に足技をかけたり投げたりするから、もし失敗して怪我をさせてしまったらどうしよう…と内心ビクビクしながらやっていたし、相手に「こいつ下手くそ過ぎてやるのイヤだわ~」とか思われてないかなといった不安がよぎって常に気をつかいながらやっていたから気疲れが半端じゃなかった。「スポーツを共にやったら普通打ち解けられるものだろ」って思う人もいるだろうけど、全然そんなことないよ。しかも私が通っていた高校は三年生になると、授業を生徒たち自身が計画し行っていくというシステムだったから、そこでも自分のコミュ力のなさでかなり苦労した記憶がある。

 

こんな感じで私の〈体育嫌い〉の原因を振り返ってみたが、体育って陸上競技と武道系と球技、それから器械体操というオリンピック競技で行われるスポーツを授業でやるから、それが合わないとマジで苦痛だし、特に器械体操は体育だと跳び箱とかマット運動とかイヤだったね。まだ前回りとか後ろ回り程度ならいいのだけど、倒立とかホント怖さが勝ってやりたくなかったし、中学の時とか跳び箱の上で前転とか倒立をするのが怖い&やる意味が分からなくて心底苦痛だったわ…。

 

体育がスポーツの幅を狭めた

本書を読んで私が感じたのは、体育って身体を動かすことの楽しさを教えることに全然貢献していないし、スポーツというジャンルの幅を狭める結果になっていると個人的には思った。オリンピック競技がスポーツの王道みたいになっているし、スポーツと聞いて連想するものと言ったら大概はオリンピック競技になっている種目が大半だろう。でも実際は娯楽・ゲームとして興じられているボウリングだってスポーツの一つだし、ボウリングに似たフィンランド発祥のモルックというスポーツもあることを知ったのは大人になってからだ。こういった、ゆるく楽しめるスポーツの存在を除外して、やたら競争や勝ち負けに特化した競技ばかりを体育はやるから、そこが私としては気に入らないと感じるのかもしれない。

 

スポーツが報道番組で幅をきかせていることに対するムカつき

あと私が体育やスポーツ・運動というものに反抗心を感じる原因を自分なりに分析すると、その原因の一つとして朝のニュース番組でスポーツのコーナーが幅をきかせていることに対する不満があるのではないかなと思った。どの局でも朝のニュースでは芸能情報に加えてスポーツのコーナー、特に野球の試合や選手に関する報道は絶対にやっているし、文化・芸術的なニュースはほとんどやらないか、やっても軽く流されてあまり深掘りされない。そのくせスポーツは試合の動向とか選手の言動とかを細かく解説して朝の情報番組の全体の3,4割の尺をそれに費やすのだから、文化系のクラブ出身の私としては(普段は意識していないが)不公平で気に食わないと感じてしまう。

とはいえ、スポーツって他の芸術に比べて目で見てダイレクトに凄さが伝わるものなので、報道番組で特集されやすいだけの理由があるのも理解しているし、音楽なんかも演奏技術の凄さ、歌手の歌唱力がダイレクトに伝わる芸術の分野だから限られた放送時間の中でも伝わるしニュース番組で扱われやすい。絵画とか彫刻といったアートは作品自体は報道されるけど、作者についてはそこまで深掘りされないし、物によっては専門的な知識が必要となるから、そういう点でもスポーツ・音楽が報道番組において優遇されやすいのだろう。そういう事情があるのはわかるけど、やっぱりムカつく時があって朝機嫌の悪い時とか、「野球選手の年俸がどうとかどっちゃでもええわ、もっと報道せなアカンこと一杯あるやろ」って毒づきたくなるよ。

 

 

ということで坂本氏の『体育がきらい』、私の〈体育嫌い〉を振り返り整理する上で非常に役に立ったというか、意気込んで運動をせずとももっと気楽に身体を動かすという考え方をしても良いというこれまでの凝り固まった思考をほぐしてくれるような、そんな一冊だった。