タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

【ACMA:GAME】原作主人公がスーパーマン過ぎる【アクマゲーム #01】

いきなり私の愚痴から始まるが、先月末に私が勤めている会社で4月から8時間から5時間に勤務時間を変更すると言われた(会社の都合なので別に私が何かやらかしたとかではないです)。それに伴い出勤日数も半減するとのことで当然ながら給料も半分以下になってしまうのだが、それを言われたのが一ヶ月前ならともかく4月直前に言われたので、正直ビックリしたと同時に余りにも納得がいかなったので上の人にクレームを言いに行った。

一応納得のいく答えが得られたので溜飲を下げることは出来たのだけど、収入が減ることに変わりはないし、当分は節約をする必要があるため予定していた太秦映画村行きの計画は泣く泣く中止することに。

 

はぁ~…。映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」とのコラボ企画が開催されると知って楽しみにしていたのにさ、給料が減るとなったら行く訳にはいかないでしょ?だってまず太秦映画村に行くまでの交通費でもざっと1000円以上はかかるのに、入場料で2400円、更にグッズやコラボメニューなんかを買えば優に1万円は超えるのだから、気前よく散財なんて無理ですよ。もう、血桜パフェ食べてみたかったのに…。

ク・ソ・が!!(怒)

誰が言ったか知らないけど「人生はクソゲーとはよく言ったモノで、真面目に働いていてもこういう理不尽なイベントが起こるからホント困ったものだ。

 

そしてゲームと言えば、昨日から放送がスタートした日テレ制作の日曜ドラマ「ACMA:GAME アクマゲーム」、間宮さんのファンなら当然リアタイ視聴しましたよね?

聞くところによると、今回のドラマは日テレが力を入れている大型企画のようで、昨今のドラマには珍しいVFXを駆使した原作漫画の実写化。世界配信もされるみたいだからそんな企画の主演に我が推し・間宮祥太朗さんが起用されたというのは実に喜ばしい話だ。

 

とはいえ、放送枠は日曜ドラマ、あの世間を騒がせた「セクシー田中さん」の原作者の自殺の記憶がまだ新しい。今回の実写化に対しても追い風となる好意的な意見だけでなく、原作改変に対して批判的なコメントや炎上を煽るような動画が放送前からネット上でアップされているのも確か。

tariho10281.hatenablog.com

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当ブログでも過去にこの問題について私なりの意見を述べたけど、では今回のドラマにおける改変についてどう思ったか、本編の内容に触れながらその是非について個人的意見を述べようと思う。

 

(以下、原作を含むドラマのネタバレあり)

 

原作の照朝とドラマの照朝

ACMA:GAME(1) (週刊少年マガジンコミックス)

初回は原作1巻のエピソード。主人公の織田照朝が突如現れたヤクザ一家の御曹司からアクマゲームを仕掛けられるというのがざっくりとしたあらすじだが、このヤクザ一家の御曹司、丸子光秀は原作だとイタリアマフィア「ベルモンドファミリー」の御曹司、マルコ・ベルモンドに相当するキャラクターで、悪魔の鍵を入手した経緯他の企業の財産を奪いまくっている目的は原作とは全く違っている。あいにく原作はまだ3巻までしか読んでいないのでこの辺りの改変については詳しく語れないのだが、ドラマは初回の段階で黒幕となる崩心祷を登場させているから、恐らくその影響で動機や鍵の入手経緯を大幅に変更したのではないかと考えられる。

 

他にも改変ポイントは色々とあるのだが、何と言っても一番注目すべき改変ポイントは、原作の主人公・織田照朝の設定を大きく変えたことである。この改変について先に結論として私の意見を言っておくと、私は今回の改変は好意的に受け取っている。それを説明するために原作とドラマの照朝を比較しよう。

 

原作の照朝は容姿端麗・頭脳明晰・運動神経も抜群の高校三年生で、しかも亡き両親の事業を継承して日本有数の大企業・織田グループの総会長としてその巨大な屋台骨を支えている。更に照朝の下にはCIAさながらのチームがいて彼をサポートしているという、もう余りにも設定盛り過ぎのチートキャラで「なろう系小説」の主人公かよ!と原作を読んだ時に思ったくらいだ。

 

まぁこれは漫画作品なのでこういう過剰なキャラ設定は別に本作に限らず他作品でもよく見られる傾向だし、主人公を頼りないキャラにするよりもスーパーマンとして描いた方が読む側としても安心感があることに加えて、心から応援することも出来る。

設定盛り過ぎのスーパーマンとは言ったけど、原作では一度会社が破綻寸前まで追い込まれたのにもかかわらず三年で一流企業にまで持ち直したそうだから、そう考えると中学三年の時から事業経営のことで血の滲むような経験をしたことは間違いないし、決してチープなスーパーマンでないことだけはハッキリ言っておくよ。

ただこの設定はあくまでも漫画として有効なのであって、これをそのままドラマ化すると余りにも浮世離れした「嘘くさいキャラ」になっていたと私は思うのだ。

 

ではドラマの間宮さんが演じた照朝についてここから言及していくが、ドラマの照朝は父親が亡くなった後、会社の重役に言いくるめられた結果織田グループはその重役に乗っ取られるという悲劇の主人公として描かれており、当初から頭脳明晰だった訳ではなく、海外での艱難辛苦に満ちた放浪の旅によって精神・肉体・頭脳が鍛えられたという形で改変された。それに伴ってか、原作では1巻の時点で悪魔の鍵を所有していなかったのに対し、今回のドラマでは父親から悪魔の鍵を譲り受け、父親を殺した男の正体を追いながら鍵の秘密を探る旅をしていたという設定が追加されている。

この辺りの改変は海外ロケをしたことで視聴者にもその苦労がわかりやすい形で伝わるよう考えられた作りになっていたと思うし、両親を喪い、汚い大人たちによって財産(株式)をむしり取られながらも、父の教えに従い欲に溺れることのない人格者としてアクマゲームに挑むという、実に地に足の着いた主人公として描かれていたので私は非常に好感が持てた。原作の照朝も苦労人だけど、ドラマの照朝も苦労の質が違うというだけで苦労人であることに変わりはないし、視聴者が感情移入出来るキャラになっていたと評価したい。

 

ただここで一点指摘しておく。原作はマルコが一方的に会社に乗り込んでアクマゲームを仕掛けて来たため、照朝は会社とそこで働く社員を守るためにゲームに挑むのだが、今回のドラマでは悪魔の鍵の秘密を探るために照朝自身が丸子をおびき出しているため、原作とドラマとでは照朝がゲームに挑む姿勢や目的が異なっている。

原作の照朝は最初の段階から会社とそこで働く人々の暮らしを守るヒーロー、スーパーマンとして確立して描かれている分、ドラマはまだヒーローとして弱いというか、個人的事情で動いている面が強いし、特別失うものが多い人間でもないので、ここは原作と比べると劣ってしまうと感じたかな。でもこの後の展開次第では背負うモノも増えてくるだろうし、もっとヒーローとしての魅力が出て来るだろうから期待しておこうではないか。

 

「真偽心眼 True or False

本作の肝となるアクマゲームは悪魔がディーラーとなってゲームを取り仕切るのは勿論、従来の「カイジ」や「ライアーゲーム」といったデスゲーム・心理戦・頭脳戦にはない、各プレイヤーが所持する悪魔の能力を用いたゲーム展開が見所となっている。今回行われた「真偽心眼 True or False」も、言ってみれば相手の言ったことがウソかホントか当てるだけのシンプルなゲームだ。それがこれだけ面白いゲームになったのには特殊能力というスパイスが効いているからであり、それをここからは解説しようと思う。

 

まず照朝は相手がどれほどの頭脳の持ち主かを探るために以下の問いを投げかけた。

Q:、このカップの下には五百円玉がある

普通ならカップの下に五百円玉があるかないかを聞かれているだけ…と思ってしまうが、劇中で丸子が指摘したように、

・硬貨がクロスについていくのが見えた→カップの下にはない(ウソ)

カップの下はその延長線上である机の下の床やデスクの中も含む→カップの「下」にある(ホント)

・「今」というのは出題時の0.4秒の間だけを指す→その時点でカップの下にない(ウソ)

という具合に一つの質問にいくつもの企みが仕組まれているのが凄い所で、頭脳戦として読者も考えられる作りになっていたことにまず関心した。

 

そして丸子のターンでは、

Q:この部屋を中心として半径1㎞の球状範囲内コンビニエンスストア4軒以上ある

という問いが提示されたが、出題者側が操作出来る余地がないほぼ絶対的な事実(=ホント)にもかかわらず答えはウソであり、次の照朝のターンで出題された

Q:このクロスの下に爆弾※1がある

照朝と一部の人間しか知り得ない事実(=ホント)なのにウソが正解となった。ここで「絶対的事実がウソとなっている謎」が出て来ることで照朝はピンチに陥るのだが、この矛盾した謎から丸子の真の特殊能力を推理で当てるというこの展開が実に見事。「出題された問題の真偽」だけでなく「特殊能力の真偽」という二重の True or False が仕掛けられていたというこのプロットはミステリとして読者(視聴者)の意表を突く仕掛けになっていたと思う。

私なんかこの特殊能力を完全に鵜呑みにして「部屋寒くして相手の思考を鈍らせるとか、せこい戦術だな…ww」と思っていたので、この真相と推理※2には唸らされたよ。

 

言うまでもなくこのゲームはウソかホントかを当てるだけなので当てずっぽうでも50%の確率で当たるという部分はあるのだが、照朝は推理によって相手の特殊能力を完全に見破った上で最後の問いを投げかけ、結果丸子を欺いてゲームの勝者となる。

最後の問いの決め手は五百円玉が偽物だったというズルいと言えばズルい手なのだが、ここで照朝が最初にした出題を思い出すと、あの問いは「五百円玉の有無を問う問題」であると同時に「五百円玉が本物かどうかを問う問題」でもあった。つまり、カップの下に出題された「今」の時点で五百円玉があったとしても、それが本物でない場合五百円玉はないのと同じだから、照朝としてはそこまで疑ってかかる人物かどうかを見極めるために偽の五百円玉※3を使ったことになる。

 

※1:原作では「銃」であり、会社の下には秘密の武器庫があったのだが、それにしても日本の会社なのに武器庫って、それ銃刀法違反なのでは…??

※2:ドラマではチョコレートの袋が気圧差で膨張しなかった事実を加えて照朝の推理を補強しているのが地味ながらも良く出来た改変になっていた。

※3:ちなみに、紙幣や硬貨と紛らわしい見た目の物品を製造することは通貨及証券模造取締法で禁止されている財務省のHPを参照)ので、くれぐれもマネしないように!

 

さいごに

初回の感想は以上となるが、全体的に見るとドラマは原作通りやると嘘くさくなる設定を地に足の着いた設定としてうまい具合に改変していて、ドラマならではの見せ場(例えばゲーム開始前のギリシャ語の宣誓)もあって原作既読でも退屈しなかった。

 

「セクシー田中さん」の一件で改変について過剰反応気味になっている人も多いのは仕方ないにせよ、個人的に一言物申したいのは、あの一件の何が問題かって原作者の意向・要望を無視した改変が行われたことが問題なのであって、原作者が了解しているのなら改変自体は何の問題もないし、その良し悪しを決めるのは個人の自由だ。だから「私はこの改変は気に入らない」と主張するのはまだしも、それをあげつらって「原作を改変しているからまたドラマ制作陣は原作者を蔑ろにしている!」と扇情的にコメントするのは結局原作にもドラマにも向き合っていない、不誠実で卑怯な物言いだと私は思う。

 

原作者のツイートを見た感じ、少なくとも今回のドラマは脚本で揉めている様子はないしドラマを応援しているみたいなので、私も引き続きこのドラマを応援していきたい。

(勿論、後になって「実は放送当時は言えなかったけど…」というツイートが流れる可能性も考えてはいる)

【4年ぶりの復活】秀逸なクリスティ・オマージュ!【アリバイ崩し承りますスペシャル】

どうも、タリホーです。

当ブログで4年前にレビューしたドラマ「アリバイ崩し承ります」のスペシャルドラマが先日放送されたけど、いや、正直続編が放送されるなんて期待していなかったからスペシャル番組として放送されると聞いて普通に嬉しかったわ。

 

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以前のレビューはこちら(↑)にまとめているが、連ドラが放送された時点では原作エピソードのほぼ全てを映像化した状態だったし、続編をやるとなると原作者の大山誠一郎氏が新作を量産するのを待つしかなく、実現するとしても1エピソードの執筆にかかる時間から考えて最低でも5年以上はかかるんじゃないかと思っていたので、スペシャルドラマ放送決定の報は正に寝耳に水の嬉しい予想外だった。

しかも本シリーズは短編エピソードだから続編をやるにしても連ドラのシーズン2になると思っていたので、単発のスペシャルドラマ、それも2時間ドラマとして放送されたことも意外だったわ。

 

さて、今回の新作スペシャルだけど、もう既にドラマ本編を見た方ならご存じの通り、アガサ・クリスティの作品をオマージュしたエピソードなのでクリスティのファンとして若干のネタバレをしながら感想を語っていきたいと思う。

 

(以下、ドラマ本編とアガサ・クリスティ『エッジウェア卿の死』について一部ネタバレあり)

 

「時計屋探偵と一族のアリバイ」

時計屋探偵の冒険 アリバイ崩し承ります2

今回映像化されたエピソードは原作『時計屋探偵の冒険 アリバイ崩し承ります2』所収の「時計屋探偵と一族のアリバイ」。資産家の男性が自宅で刺殺され、その甥と姪たちが容疑者として浮上するものの、3人の甥と姪にはアリバイがあって…というのがざっくりとしたあらすじである。

あらすじだけを聞くといわゆる犯人当て(フーダニット)形式の内容だと思うが、すぐに犯人は一人にしぼられてその人物のアリバイ崩しを時乃は行うことに。しかし、そのアリバイ崩しがまさかの失敗!?という形で物語は意外な展開へ向かっていく。

 

このエピソードは2020年6月に『Webジェイ・ノベル』というサイトに初掲載され、私もその時に読んで内容やトリックは知っていたものの、何せ4年近く前に読んだ作品なのでほとんど覚えておらず、実質初見に近い新鮮な気分での視聴となった。

原作は短編のため結構アッサリと解決するのだが、ドラマはテレビ局の密着取材というオリジナルの展開が追加されたり、時乃の高校時代の先輩で現在は医学生として彼女の前に現れる葉加瀬裕次郎というオリジナルキャラを登場させることで尺をのばしている。とはいえ物語としては全然冗長になっていないし、今はすっかり廃れてしまった2時間サスペンスのようにお気軽に見られて、なおかつ本格推理が楽しめるという、なかなか優れた脚本になっていたと素直に評価したい。

 

『エッジウェア卿の死』

エッジウェア卿の死 (クリスティー文庫)

個人的に一番感心したのがドラマ本編でも登場したアガサ・クリスティの長編『エッジウェア卿の死』を絡めた物語の改変だ。

一応『エッジウェア卿の死』を読んだことがない人もいると思うのでこの小説について簡単に解説すると、本作は1933年に発表された作品で、ポアロシリーズとしては7作目の長編に相当する。この時期のクリスティは母親の死や最初の夫アーチボルド・クリスティとの離婚といったトラブルを乗り越え、考古学者であるマックス・マローワンと再婚して約3年経っていた。

私生活が安定したこともあってか、ミステリ作家として勢いづいてきたクリスティはこの翌年の1934年に歴史的名作『オリエント急行の殺人』を発表する。そんな時期に生まれた作品ということもあって、この『エッジウェア卿の死』もなかなかどうして良く出来た秀逸ミステリなのだ。勿論、世間の認知度から考えるとマイナー寄りだし、物語も『アクロイド殺し』や『ABC殺人事件』といった名作群と比べると派手さはないし意外性も正直弱いかな?と感じる所はあるが、クリスティのミスリードの巧みさが遺憾なく発揮された作品なので是非読んでもらいたい。

 

…え?「ドラマでトリックがネタバレされてたから正直読む必要がない」だと?

まぁ確かに〇〇トリックってネタバレはあったけど個人的にはあれはネタバレだけどネタバレじゃないんだよね。というのも『エッジウェア卿の死』は最初の殺人で事件概要がわかった段階で読者は「ああ、これって明らかに〇〇トリックじゃん!」って予想することを見越して作者であるクリスティが更に一段階上の騙しを仕掛けてくる作品なので、別に〇〇トリックだと事前に知っていても問題ないし、むしろその先入観があれば気持ちよく騙される体験が出来るんじゃないかな?

そうそう、Wikipedia ではこの『エッジウェア卿の死』のあらすじが真犯人とトリックを含めて全部ネタバレされているので、未読の方は要注意で!

 

さて、ドラマ本編に話を戻すと、今回のエピソードで用いられたトリックは確かに『エッジウェア卿の死』を彷彿とさせるものだったが、正直原作を読んだ段階ではこのトリックが『エッジウェア卿の死』と同等・同質のものだと気付かなかったので、今回のドラマでクリスティのこの作品を持ち出してきたことに関して、私はハッキリ言って脱帽したというか、脚本家の方がミステリ作品を映像化するにあたってちゃんと勉強しているということが伝わって本当に感心したわ。

 

いや~私もクリスティの作品は結構読み漁って来たから大抵ミステリ小説を読むと「あ、ここはクリスティの『〇〇』をオマージュしたな」という具合にオマージュ要素を見抜くスキルが身に着いているのだけど、今回のドラマを見たらまだまだそのスキルは磨く余地があるなと思ったし、日本のミステリドラマに携わる人の中にも志の高い人がいるとわかって何だか安心したよ。

 

オマージュは一作だけではない!

今回のスペシャルドラマが『エッジウェア卿の死』をリスペクトした作品だということは述べたが、実を言うと今回のドラマにおけるオマージュは『エッジウェア卿の死』だけではない。『エッジウェア卿の死』に加えてもう一作、クリスティの某有名作がオマージュされて今回の物語のトリックとして組み込まれているのだ。

しかし、その作品のタイトルを言ってしまうと間接的にその作品のトリックをネタバレすることになってしまうので、オブラートに包むような形でそのオマージュ要素について言及したい。

 

ミステリ作品において作者は様々なテクニックで読者をミスリードさせるが、そのミスリードの一つに動機のミスリードがある。犯人は自分が疑われないように特定の人物に疑いの目を向ける偽装工作をするというのがよく見られるパターンだが、その中でも自身の犯行動機をカモフラージュするために猟奇殺人鬼の仕業に見せかけたり、わざと連続殺人にして本当のターゲットをわからなくするといった手段が用いられる。今回のドラマでもそういった犯人の真の犯行動機をカモフラージュするための殺人トリックが仕掛けられているのだが、この騙しのテクニックがクリスティの某作品を彷彿とさせるのだ。

その某作品では序盤から登場人物の会話を通して読者に強烈な先入観を植え付けた上で殺人を発生させることで、犯人の真の犯行動機をカモフラージュするという斬新なミスリードがとられていたが、今回のドラマでもその某作品と同様の手法が用いられている。資産家殺しというごくありふれたプロット、これがミスリードに一役買っているのと同時に、その上で犯人の動機につながる情報がさらっと挿入されているのだから実に隙がないし、ミステリとしてもフェアだと感じたのだ。

 

さいごに

以上、今回のスペシャルドラマはクリスティ作品をオマージュした内容になっていて原作以上に面白い出来栄えになっていて素直に感心&満足したし、原作だと途中で存在がかすんでしまった残り二人の容疑者が、ドラマではテレビ局の密着取材のオチ要員として有効活用されていたのも見逃せないポイントだ。短編作品になるとどうしてもトリックがメインになって一部登場人物(容疑者)の扱いや描写が雑になってしまう作品があるけど、そんな「捨て駒」的な容疑者を物語のオチとして改変して利用したのは良かったと思う。まぁ、実際にあんなことが起こったら那野市民どころか、日本全体が大騒ぎになる一大スキャンダルだからオチとしてはリアリティに欠けるのだけど…ww。

 

ところで、今回のドラマは主演の浜辺美波さんのツイートによると2年半前に撮影されたらしいが、そんな前に撮影が済んでいるのに何故今頃になって放送されたのか、気になって仕方がない。今回のドラマのラストの展開から考えると、恐らくテレ朝は連ドラとしてシーズン2を放送する計画があって、その放送の前に今回のスペシャルドラマをやるつもりだったのかもしれないが、思いのほかに原作のストックが貯まらず連ドラの計画がお流れとなり、このままだとスペシャルドラマがお蔵入りになってしまう恐れがあったから、やむなく今になって放送を決意したのかな?と考えてしまった。

個人的にはシーズン2なんて贅沢なことは言わないから、今回のドラマみたいに定期的に単発ドラマを放送して、息の長ーいシリーズになってほしいなと願うばかりだ。

雨穴風お化け屋敷的〇〇村ホラー!?【映画「変な家」レビュー】(一部ネタバレあり)

さーて、ようやく映画「変な家」を観て来たのでレビューしますか!

変な家 文庫版

実はちらっと既に映画を観た人の評価を目にしたのだけど、軒並み低評価が目立っていて「おやおや…?」と不穏な気持ちになったので、(本当は原作を読まずに観ようと思っていたが)原作を全部読んでから鑑賞しました。

ちなみに今回は間宮さんに興味を持ち始めたうちの母親と共に鑑賞しました。どうやら私が知らない間に昨年放送されたドラマ「真夏のシンデレラ」を見ていたようで、CMも含めて彼の男前ぶりに関心を持ったみたいです。別に私が布教したとかそんなんじゃなくですよ。

 

(以下、原作含む映画本編について若干のネタバレあり)

 

作品概要

今回の映画は性別不詳の覆面作家・雨穴氏が2021年に刊行した小説「変な家」が原作になっているが、この小説の始まりは2020年10月までさかのぼる。

 

omocoro.jp

www.youtube.com

ウェブライターとしても活動している雨穴氏はオモコロに投稿した記事を自身の YouTube チャンネルで動画化、その評判を受けて2021年には新たなエピソード・間取りが追加された完全版として書籍化され、2023年に漫画版が発売された。

 

変な家: 1 (HOWLコミックス)

発端となった記事投稿から映画公開に至るまで何と丸4年も経っていないのだから、メディアミックスとしては異常なまでの急発展を遂げた作品と言えるだろう。

 

本作は家の間取りから「その家で何が行われていたのか」を推理するというホラーミステリーであり、従来のホラー及びミステリーでは重視されなかった間取りをお題にした作品という所に新奇性があって、なおかつ妙なリアリティがある。これが本作の魅力と言うべきポイントだ。

 

一応ここで解説すると、従来のミステリー作品においては間取りはメインではなく例えば犯人特定の手がかりだったり、現実世界からかけ離れた異様な世界観を構築する材料という、言うなれば主役ではなく脇役的な扱いが多かった。綾辻行人氏の〈館〉シリーズや島田荘司氏の『斜め屋敷の犯罪』を読めば、ミステリー小説における間取りがどのように扱われているのかわかるし、間取りはあくまでも意外なトリック・意外な犯人を支える部品の一つという感じなのだ。

 

そんな脇役を主役として描いたことが珍しかったのと同時に、本格ミステリー小説にありがちな浮世離れした世界の話ではなく、モキュメンタリー形式で描いたこともこの作品の優れたポイントで、日常の隣にある、でも外からは容易にうかがい知ることの出来ない家の中の闇を間取りという観点から紐解くという所に、単なるフィクションでは味わえない不気味さがある。去年ホラー好き界隈で話題になった『近畿地方のある場所について』もモキュメンタリー形式で書かれた小説だから、モキュメンタリーは日常のすぐそばにある恐怖を描く上で実に有効であり、普段読書をしない若者にも取っつき易かったのもヒットに影響していると考えられるだろう。

 

今回の映画は原作者の雨穴氏に相当する〈雨男〉こと雨宮が主人公で、最近ユーチューバーとして活動がマンネリ化しているという映画オリジナルの設定が用意されている。また、事件の発端となった「変な間取り」を紹介した柳岡も原作では単なる知人だったのに対し、映画では雨宮のマネージャーという形で改変された。他にも改変ポイントは色々とあるがそれについてはこの後の項で語りたい。

 

低評価の理由

さて、まずは何故低評価の意見が多いのかについて私なりに述べようと思うが、率直に言って今回の映画からは原作特有の「らしさ」が感じられないというのが最大の原因だろう。上に掲載した雨穴氏の動画を見ればその「らしさ」がよくわかるのだが、雨穴氏はあまりホラー演出に趣向を凝らすタイプではなく、実に淡々と物語を語るストーリーテラーなのだ。それに雨穴氏はホラー作家という枠組みだけで語れるような人ではなくて、自分で創作したオリジナルのキモい海洋生物を紹介したり、毎年変なおせちアイテム(?)を購入して頭を悩ませたりと、かなり独特というかキワモノ的な世界観を持つクリエイターだから、そういうテイストを期待していたファンも少なからずいたと思う。

しかし、雨穴氏に相当する雨宮にはそういった独特さがまるで皆無であり、「スランプ気味でバズるネタを求めて事件に深入りしてしまうユーチューバー」という凡庸なキャラ設定にされているのだから、真っ先にそこで不満を抱いた人がいても不思議ではない。

 

しかも本作はミステリーよりもホラー演出に気合いの入った作品なので、元の動画のような淡々と恐い事実が明るみになるという感じではなく、いきなりドーン!と音がなったりビクッ!となる演出、要はジャンプスケア系のホラー演出があるため、「雨穴さんの作品だからホラー苦手でも大丈夫だよね~♪」と軽い気持ちで観に行ったら心底怖い思いをする羽目になるだろう。そういう点でも悪い意味で裏切られたと受け取った人がいたと思う。

 

そして本作は「ゾクッとミステリー」という謳い文句で宣伝されていたので、じゃあ肝心のミステリー要素はどうだったかというと、第一の間取りと第二の間取りは(カットされた説明はあったが)大体原作通りでこの辺りまではまずまずといった感じなのだが、映画の後半、つまり第三の間取りに関しては原作で起こった不可解な事故死が完全にカットされて栗原が(ネタバレなので一応伏せ字)仏壇裏の隠し通路(伏せ字ここまで)を見つける下りが推理というより当てずっぽうに近いことになっていたのが個人的には不満だったかな。事件の元凶となったある出来事についてもかなり簡略化されて描かれていたし、そこも本作が凡庸なホラーミステリーになった原因の一つだと思う。

 

では原作通りやれば良かったのか?

低評価の原因について一通り語った所で、じゃあ原作に忠実に映像化していたら面白くなったのかと言うと、私は全くそう思わない

 

原作は大きく四つの章から成っており、第一章から第三章までは間取りから「この家で何が行われたのか?」を推理するパート、そして結末部の第四章で「何故このような行為が行われたのか?」という事件の遠因となる出来事、つまり事件の動機が関係者の口から語られるのだ。

この構成を見てもわかるように、本作は謎解きにおけるカタルシスを重視した作風ではないし、部分的に見れば間取りをテーマにした斬新なミステリー小説だと思うだろうが、総合的に見ると原作「変な家」は江戸川乱歩横溝正史といった昭和の古典ミステリーに近い作品なのだ。だから私のようなミステリーマニアにとっては新進気鋭のミステリーという感じではなく、シャーロック・ホームズが登場する『緋色の研究』や明智小五郎が活躍する『D坂の殺人事件』という古典的名作を読んだ感覚に近い。今現在本格ミステリー作家として第一線で活躍している青崎有吾氏や今村昌弘氏・阿津川辰海氏といった作者の作品と比べるまでもなく、トリックも作品としてのクオリティも古典的というかクラシックな感じなのだ。

 

古典的・クラシックと言うと聞こえは良いが、悪く言うとミステリーとしてはツッコミ所や穴があると言える。今回の映画でミステリー面に不満を持った方が多くいたと思うが、実際の所原作も栗原の推理には結構飛躍的な発想が見られるし、最後の四章で語られた「ある人物の計画」に関してもちょっと都合の良さを感じるポイントがあって手放しで褒められる出来とは言い難い。事件の元凶となった出来事に関する部分も、原作はもっと複雑で複数の思惑が混じっているから、スッキリ謎が解明されないし理解するのにちょっと時間が要ったかな。

 

そもそも今回の「変な家」に限った話ではないが、ミステリー作品を映像化、特に映画化するのは他のジャンルに比べてかなり難しい。映画はドラマや配信動画と違って間にCMが挿まれないし一時停止することも出来ないから、視聴者が劇中の手がかりだったり事件を考える余地が全然ないし、探偵がスラスラ推理を披露してもそれを視聴者が理解する間がないと折角トリックが優れていても意味がない!

それに推理パートは基本これまで起こったことを説明するだけだから、物語として動きがなく下手な監督が撮ると単調な展開になってしまう。トリックを複雑にすると説明が多くなる上に視聴者がついていけなくなるし、かと言って単純にすると面白みに欠けてつまらなくなるのだから、ミステリーの映画化はデメリットが圧倒的に多い。故に、ミステリーを原作通り映像化することは、私に言わせてみれば無理難題・不可能事だと思うし、改変はあって当然だと思う。

 

今回の映画では後半をミステリーではなく〇〇村ホラーとしてかなり大胆な脚色をしているが、これ自体は全然問題ではないし映画としては大きな見せ場になっていて原作では味わえないカタストロフィ(大破局)もあって良かったと思っている。

では「ミステリーとしてイマイチでもホラーとしては良かったのか?」という疑問について答えてみよう。

 

結局従来のB級ホラー映画に

「変な家」に連なる家にまつわるホラー映画として思い出すのは2015年に公開された小野不由美氏原作の残穢 ―住んではいけない部屋―」だ。

残穢【ざんえ】―住んではいけない部屋―

残穢」は家とその土地がテーマの作品で、ざっくり言うと心霊ホラーなのだが、従来のような幽霊がバァ!と驚かす感じの怖さではなく、点と点がつながっていくミステリー的な怖さが味わえる作品だ。そういう点では「変な家」の先輩的作品と言えるかもしれないが、この映画では結局最後の最後で目立った怪奇現象によるホラー演出で締めくくったのでB級ホラーになったというのが個人的な感想だ。

 

基本的にホラー映画は全てスッキリ解決するのではなく最後に何かしら不穏なものを残して終わるというのが王道のオチであり、今回の映画も従来のホラー映画同様そういう不穏な結末で締めている。あ、別にそういうベタなオチがダメだとかそういうことを言いたいのではなく、物語の着地の仕方として中途半端な感じがしたんだよね。

あの最後のオチは原作を読んで原作で説明された登場人物の因果関係を知っていたら何となく意図する所は理解出来るのだけど、原作未読の人にとっては意味がわからないし、ホラーとしてもミステリーとしても、もうちょっと補足説明が必要だったと思うポイントだ。

 

それからネタバレになるけどこの映画、最後に黒板を爪でひっかくような音が結構な音量で流れるのだけど、あれは本っ当に最悪だったわ。この映画を撮った石川淳一監督には届かないと思うけどさ、本当に上質なホラーには恐怖だけが必要なのであって不快感は極力排除すべきものなんだよ。特に本作はミステリーとして銘打っているのだから、ただでさえ観客は騙し討ちを喰らったようなものなのに、最後の最後であの不快な「キィ~」って音を大音量で聞かされたらそら文句の一つも言いたくなるってもんですよ?家のテレビと違って音量調節が出来ないのだからその辺りもっと配慮してもらいたかったですねぇ…。うちの母も「うるさかった」って文句言ってましたよ。

 

さいごに

ということで映画「変な家」はホラーとしてもミステリーとしてもツッコミ所満載でお世辞にも映画化として大成功した作品とは言えないだろう。とはいえ、ミステリーをホラーとして映画化するというのは、松竹で制作された映画「八つ墓村」という前例作品があるし、あの「八つ墓村」に比べたら本作は十分ミステリーとしての面白さはあったと思う。

 

パンフレットによると石川監督は大のホラー映画好きとのことで、自分の好きなものを詰め込んだという情熱は少なくとも伝わって来た。某有名ホラー映画をオマージュしたシーンもあったし、かつて金田一耕助として一世を風靡した石坂浩二さんにあんな役を演じさせたのも、一人の横溝正史ファンとして感慨深いものを感じた。

あと美術スタッフの仕事が本当に見事だった!古い家の床板とか壁の質感がリアルで、主観視点の撮影手法とあいまって圧倒的な没入感があったのもこの映画の評価ポイントだ。間宮さんがインタビューで「この映画はアトラクションみたい」だと言っていたのも納得だし、映画の後半は遊園地のお化け屋敷に入ったようなドキドキに満ちていた。っていうか、折角だしお化け屋敷としてUSJのハロウィンの時期にアトラクションとしてオープンしたら良いんじゃないですかね?

 

そうそう、日本では厳しい評価で迎えられたが、ポルトガルで開催された第44回ポルト国際映画祭で審査員特別賞を受賞していることに触れておかないといけないな。

この評価の違いは何だろうと私なりに考えてみたけど、一番は情報量の差だと思う。ポルトガルの人は原作小説の内容とか、そもそも原作者がどういう人物なのか知らない、前知識の無いまっさらな状態で映画を見て「面白い!」と感じたと推察されるし、日本ではすっかり定番ネタになった土着的なホラーが海外の人にはきっと新鮮に映ったことは想像に難くない。

 

そう考えると、今の日本人って純粋に映画を楽しめない環境に追い込まれているって感じがして、何と言うか映画を観る側も作る側もつくづく損な感じになっていると思わされる。特に今年の1月は「セクシー田中さん」の原作者の自殺が大きな問題として世間を騒がせたし、その影響で原作の改変に関して敏感になっている時期だからまだその風潮が抜けてない時期に映画を公開したことも、本作の低評価につながっているんじゃないかな?と考えた訳だ。

そういう訳だから、今は低評価が目立つ本作も時間が経てばワインのように味わい深い作品として再評価される時が来るだろう。少なくとも私はそれくらいの資質はあったと断言したい。

【再入村】「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」を再考察!(ネタバレあり)

鬼太郎の映画公開から約三ヶ月たち、ついに近所の映画館も公開終了との知らせを聞き、去る2月29日の仕事帰りに映画館で二度目の鑑賞を行った。

同じ映画を映画館で二回見るというのは人生初めてのことだったが、水木先生の生誕100周年の映画がこれだけの人気を博したのだから、少しでも興行収入に貢献したいという思いもあったし、パンフレットを読んだり他の方のレビューを色々と読んで気になったこともあったので、二回目の鑑賞に踏み切ったという訳である。

 

初見は話を追うことに頭を使っていたので、二度目は細部や登場人物の心情などにも注意を払っての鑑賞となったが、話を知っていても鳥肌が立ったりワクワクしたり目頭が熱くなったりと、もう本当に最高の1時間44分でしたね!

出来れば鑑賞後は余韻に浸って劇場を後にしたかったのだけど、今回は20時半過ぎという遅い時間からの上映、終電車を逃したら家に着くのが翌日になってしまう恐れがあったので映画終わったらすぐに走って駅へと向かったわ。

 

ということで今回は二回目を鑑賞した上でのより詳細な感想・考察・解説となる。まだ3月以降も上映している映画館はあるみたいだけど、もう大半の映画館は公開終了となっていると思うからガッツリネタバレありで語っていきたい。それから、考察等は出来るだけネットで見かけなかった私なりの考察を語っていきたいと思うのでよろしく。

 

(以下、映画のネタバレあり)

 

※前回(一回目)の感想はこちら。(↓)

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頂天眼の報い

一回目の鑑賞の時からトラウマレベルで印象に残ったのは物語序盤、帝国血液銀行の社長室のシーンで画面いっぱいに映ったあの気色の悪い出目金である。あんな映し方をしているのだから、何かしら象徴しているのだろうとは思っていたけど、やはりというか結論を言うとあの出目金は龍賀時貞を象徴していると感じた。

そしてこれはパンフレット購入後に知ったのだけど、あの出目金は頂天眼という品種の金魚のようで、実際に存在する品種のようだ。

ja.wikipedia.org

アカデメキンの突然変異によって生まれ、眼球が前方ではなく天上を向いていることから名付けられたこの出目金、一説によると先端がすぼんだ瓶の中で、何代にもわたり飼育された出目金が、光を求めて眼球を徐々に上に向けた結果生まれたものだと言われている。これを踏まえて終盤の時貞がいた奥の院を見れば、天上からしか光が降り注がないあの場所は頂天眼が育つ場という意味合いが込められており、上ばかり見て下(下々の民衆)を省みない権力者を風刺しているとも解釈出来るのではないだろうか?

 

それから頂天眼は視力がなく嗅覚で餌を探すという特徴がある。この視力がないというのも注目すべきポイントで、ここで映画の冒頭シーンを挙げて解説したい。

www.youtube.com

山田記者が地下へ潜入した(というか「落ちた」が正確か)場面で、例の時貞ボールが登場するが、「痛い」と言っているから痛覚(触覚)はあるみたいだけど視覚・聴覚はなさそうだし、あったら「そこに誰かいるのか!?」とか「そこの人、助けてくれ!」くらいは言えるはず。だから私は「龍賀時貞=頂天眼」だと考えたのであり、その非道な行いに相応しい頂天眼の報いを受けたと思う。

 

遺言状の一幕から(水木の計算、時麿の分裂した人格)

水木が龍賀の屋敷を訪れ、遺言状の席に立ちあう場面。ここは遺言状の内容だったり表舞台に姿を現さなかった時麿が現れたりと見所・注目ポイントが満載なのだが、まず指摘したいのは水木のネクタイ。これは他の方のレビュー動画で知ったのだけど、喪中の家に赴いているのに赤色のネクタイをしているというのは不自然だし、見る人によっては不謹慎、或いは龍賀の家に喧嘩を売っているのかと感じる人もいるだろう。

この水木のネクタイについて、戦争による左目の負傷が原因で色盲色覚異常)になったという説を謳ったレビュー動画を見たのだけど、確かに赤と黒色覚異常になった際に区別がつきにくい色※1ではある。ただ、水木は両目ではなく左目を負傷しているから仮に左目が色盲になったとしても右目でカバー出来るはずだし、個人的に水木が赤のネクタイにしたのにはある種の計算があったと思うのだ。

 

言うまでもなく水木は踏みにじられない立場になるため昇進を目論む野心家だ。そのために本作では社長に直談判して哭倉村へ向かい、次期当主とのコネを結び血液製剤「M」の製造方法を探るというミッションを請け負っている。当然ながら龍賀の者に気取られてはマズいので、「事前に準備して村に来た」のではなく「時貞の訃報を聞いて急いで駆けつけて来た」と相手方に思わせたかったはずだ。そのために水木は喪服のネクタイを敢えて赤色にすることで「急いで・慌てて駆け付けた感」を出したとは考えられないだろうか?

勿論、色盲説も完全には否定出来ないけど個人的には敢えてやったと考えた方が、水木の野心家としての計算高さが垣間見れるしキャラとしても奥深さが出るんじゃないかな。とはいえ、そんな小細工も通用せず(というよりも到着のタイミングが良すぎたのがダメだったのかもね)露骨に畳のヘリに座布団を置かれるという不歓迎ぶり。計算高くても結局うまくいってないのが水木の人間くささを物語っていてナイスだったね。

 

そして遺言状が読み上げられる場面、ここの親族や分家の乱闘ぶりが国会の強行採決で揉みくちゃになっている議員※2を彷彿とさせるし、地味にこういう所でも日本的な醜悪さが演出されているのと同時に、哭倉村・龍賀一族が単なる集落・一家ではなく国家を象徴しているのだと観客に伝わるようになっているのが巧いなと思った。

 

龍賀一族に関しては他の方の感想で各人物の心理描写について色々と読み取っている人がいる中で、特に時麿は最初に殺害されたということもあってなかなか彼のキャラ分析は難しいし、深く掘り下げたレビューは見受けられなかった。ただ遺言状の場面を見る感じ、どうも時麿は解離性同一障害、俗に言う多重人格※3だったんじゃないかな~と思っている。

多重人格になる原因はハッキリとわかっていないが、幼少期のトラウマ体験が原因で人格が分裂する場合があると言われており、それを踏まえれば時麿が多重人格者になるのもあの家なら「なって当然」だ(むしろならない方がおかしいくらい)。当主として窖の狂骨を制御し、そのための霊力の強い子供を近親相姦によって設けるという役目がある以上、幼少期の段階で時貞の仕込みはあったことは間違いないし劇中でも修行をしたことは本人が述べている。窖に充満した狂骨の集団を見たらそりゃ誰だってトラウマになるし、それを制御する時貞の姿を幼少期から見ていた時麿にとって時貞は逆らうことの出来ない絶対的な存在だったに違いない。

この点についてもっと掘り下げるなら、もしかすると時麿は時貞が自分の娘と姦通していることも知っていた可能性があるし、更にエゲツないことを言わせてもらうとその姦通行為自体が修行のカリキュラムとして組み込まれ時貞から何かしらの形で教え込まれていたとしたら、それはもう完全に性的虐待である。性的虐待が原因で多重人格になったという話は現実にもあるし、そう考えれば遺言状読み上げの場における時麿の様子も単なる情緒不安定ではなく、「子供返りした時麿」「当主としての時麿」、この二つの人格が現れた場面だとは考えられないだろうか?

 

時麿の多重人格に関してはまだ言いたいことがある。それは彼が殺害された現場である哭倉神社についてだが、祭壇の様子(串刺しになったウサギの生贄※4)を見る感じ諏訪大社がモデルで土着神を祀ったものだ。つまり本作の場合はナグラ様=幽霊族を祀ったものということになるだろう。しかし実際は狂骨化した幽霊族の魂は裏鬼道の呪詛返しの術によって窖に封じられていたのだから、哭倉神社は形ばかりの神社だ。実質的には必要ないとはいえ、村としての体裁がある以上、寺や神社がないというのはおかしな話だし、外部から来た人間に怪しまれたら困るので建っているという感じだろうか。

形骸化した神社ではあるものの、多重人格の時麿を抱えた龍賀一族にとっては意味があって、恐らくあの神社は「子供返りした時麿」が表面に出ないよう制御するための神社だったと私は考えている。龍賀一族にとって長男の時麿が「子供返りした時麿」の人格のままだと非常に困るはずだし、「当主としての時麿」の人格を維持するためにも、神社という場によって当主の自覚を植え付けると共に人格の転移を抑制し、また神主の恰好をさせることで出来るだけその状態をキープさせようという狙いがあったと思われる。しかしそれでも「子供返りした時麿」が出る時があるので、そこで時貞は時弥という魂を乗っ取るための器を保険として用意しておいた、と考えれば辻褄が合いそうだ。

 

※1:色覚異常 - 目の病気百科|参天製薬

※2:例えばこちら。怒号の中、強行採決~参議院・安保特別委 - YouTube

※3:多重人格についてはこちらの記事を参考にしました。自分が自分でなくなっちゃう!?解離性障害 - 記事 | NHK ハートネット

※4:シカやウサギを生贄に!? 神秘的な古来の儀式「神長官守矢史料館」【長野】 | 日本珍スポット100景

 

左目にダメージを受ける龍賀一族

一回目の鑑賞でも気になったポイントだが、本作で惨殺された龍賀一族の面々がいずれも左目にダメージを受けているのが疑問だった。鬼太郎の父親の目玉おやじの目は左目であることや劇中で本人が言っていた「片目で見るくらいがちょうど良い」という発言と関係しているのかなと、とつおいつ考えてはいたが論としてはその時まとまらなかった。

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左目と右目が意味するものについては6期の泥田坊回の時に言及したことを思い出したので、もしかするとそれが当てはまるかな?とも思ったが、今回の映画には合わないと思ったので未来と過去に対する眼差しという考察も却下。

 

そこで今一度今回の鑑賞に際して考えたのだが、左目と右目は視神経を通じ交叉して左脳・右脳に情報が伝達される。そして左目につながる右脳は直感性・創造性を司る脳だと言われており、反対に左脳は論理的思考・分析といった能力を主に司っている。この情報を基に考えると、左目を潰されたり抉られる龍賀一族は直感や創造性といったものが欠如し、論理だけで戦後の日本社会を牛耳っている歪な一族であることを隠喩していた…という風に考えられる。

論理と直感(身体的感覚)については、上に載せた一回目の鑑賞におけるネタバレレビューで詳しく語っているが、やはり左目に対するこだわりは龍賀が人の心の欠如した、論理や大義という尺度でしか人を見られなくなった一族であることを表していたのだろう。

 

龍哭御霊信仰(天変地異の解釈)

今回の映画が鬼太郎ファン以外の人々にもウケた理由はストーリーが秀逸で戦後日本の醜悪さや人間の愚かさを容赦なく描いたこと、水木とゲゲ郎のバディもの・ブロマンスとしての美しさや、裏鬼道との戦闘における作画の凄さ、徹底した時代考証など、色んな要素が手抜きされることなく仕上がったからなのは間違いないが、個人的に民俗学歴史学の観点から本作の凄さを語ると、この映画って第二次世界大戦前後の日本に限った価値観や思想を描いた話ではなく、古代の日本人の思想もかなり反映されているのだ。それを語る上で重要となるのが龍哭である。

 

龍哭は哭倉村における地震みたいなもので、その正体は言うまでもなく窖から漏れ出た狂骨の叫び(怨念)なのだが、本作における狂骨は地震や山火事といった天変地異・災害の象徴でもあり、元凶の龍賀一族だけでなくその悪事に加担した村人や女性・子供まで分け隔てなく襲い殺す無差別性は、正に災害そのものである。現代では地震の原因が地下にあるプレートの断裂などが原因で発生することがわかっているからともかく、古代の日本人は地球が丸いことすら知らなかったし、日本が四つのプレートの上にある国で世界に類を見ない地震大国であること、つまり地震が頻発して当然ということもわからなかったのだ。

ではこういった天変地異の原因は何なのかと昔の人は考える訳だが、例えば古代中国では天人相関説というものがあって、災害が起こるのはその時の政治家の政治が悪政であり、それを天帝が罰している。要は政治が災害の原因という考えだ。一方日本では平安時代御霊信仰が広まって、災害や疫病は非業の死を遂げた人々が怨霊となって災いをもたらすと考えられた。しかも仏教が流入する以前の古代日本においては、地下世界は根の国、つまり死者の世界だと考えられていたのだから、地震が死者の怨念による仕業だという解釈にも相応の説得力と恐ろしさがあったはずだ。

 

そして怨霊を神として祀り上げたり、或いは陰陽師の力を頼って災いを祓うといった対処法がとられたのだが、本作の裏鬼道も劇中でゲゲ郎が言及したようにルーツは陰陽道にある訳で、陰陽師平安時代に特に権力者や政治と密接に関わるようになるし、闇医者ならぬ陰陽師なる者も平安時代には存在したらしいから、今回の映画にはそういった古代日本の御霊信仰や思想、外道の術師の存在が反映されていて、だから多くの人々の心に響いたんじゃないかな?と私は思ったのだ。

 

さいごに

以上、二回目の鑑賞における考察となる。初回は話の大枠に沿った感想・解説となったが今回はより細部の演出や趣向に目を配ることが出来たと思うし、隠れ妖怪の一体であるカシャボも見つけられて嬉しかったな(でも幽霊赤児は見つけられなかった…)。

あと沙代ちゃんを始めとする屍人化した人々の何が悲しいかって、骨が残らなかったというのが改めて見るとむごいなと思う。骨ってその人の生きた証でもあるから、それすら残らずあんな目に遭って死んでいく、そして忘れ去られていくという残酷さがあるんだよね。だから余計に時弥少年の最後のメッセージが胸にくるのよ…。

 

さて、最後にちょっと紹介したい作品があるのだが、それがこちら。

水木しげる 貸本・短編名作選 魍魎 地獄・地底の足音 (ホーム社漫画文庫)

今回の映画を見て思い出したのだけど、この名作選に収録された「地獄」というSFホラーを是非とも読んでもらいたい。今回の映画が水木先生の作風をしっかり反映させた作品であることが理解出来るはずだ。

全体的に湿っぽいドラマ化【なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?】

さて、昨年末に予告していた通り、ドラマ「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」をレビューしようと思う。

 

www.nhk.jp

ドラマは昨年の11月に放送済みだが、来月にNHK総合で放送されるみたいなので、未視聴の方に配慮して出来るだけネタバレ控えめで感想を語っていきたい。

 

作品概要

なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか? (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

ドラマの原作はアガサ・クリスティが1934年に発表した同名小説。元海軍勤めのお人好しの青年ボビイがゴルフのラウンド中に崖下で転落した男性の瀕死体を発見する所から物語は始まる。瀕死の男性が死ぬ間際に遺した「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」という謎の一言を軸にした事件で、ボビイの幼馴染みで伯爵令嬢のフランキーと共に事件を捜査していく、冒険活劇ミステリだ。

 

若い二人の男女が探偵活動をするというのはクリスティの代表作の一つであるトミー&タペンスシリーズと同じ趣向であり、本作が発表された年はトミー&タペンスものの短編集『おしどり探偵』(1929年)と長編『NかMか』(1941年)の中間に位置する。『アガサ・クリスティー完全攻略』の霜月蒼氏の批評でもこの点については指摘されており、傑作『NかMか』が発表されるまでの間に生み出された、「神経のゆきとどいた秀作」として評されている。

確かに本作は『NかMか』における秀逸なミスリード・意外な犯人といったサプライズ要素は薄いし、事件の真相がやや雑然とした印象を与える作品だ。とはいえ決して面白くない訳ではないし、霜月氏が指摘したようにキチンと伏線が張られていたり犯人につながる手がかりが実にさり気なく配置されている。また、フランキーを伯爵令嬢という設定にしたことで、トミー&タペンスでは出来なかった金と人脈に物を言わせた捜査手法がとれるようになっているのも本作の見所の一つであり、物語中盤でフランキーがバッシントン-フレンチ家に潜入する作戦を読んだ時は思わず笑ってしまったよ。余りにも豪快過ぎて。

 

な~んか全体的に湿っぽい

原作は過去に三度映像化されており、そのうちの一回は2011年にミス・マープルものとして改変され映像化している。過去作は未視聴なので今回のドラマだけにしぼったレビューとなるが、率直に言うと今回のドラマ、原作を読んだ際のカラっとした感じの作風ではなく、全体的にしっとりとした湿っぽい感じの演出・脚本になっているなと思った。内容自体は原作で死ななかったとある人物が追加で殺害されていることと、エンジェルという名のいかにも怪しい男が暗躍するという点をのぞけば大体原作通りなので、別に大幅な原作改変によって湿っぽい作品になったという訳ではない。原作におけるスリラー要素を強調したことや、初回で描写されたボビイとフランキーのちょっと複雑な恋愛関係が湿っぽさに影響しているのだろう。原作でもお互い身分が違うということが原因で一歩踏み込めない関係を保っていたのだが、今回のドラマでもその辺りの関係性は描写されている。

 

また、親を愛している一方でうっとうしく思う若者の心理も原作ではボビイと彼の父親である牧師との関係を通じて描かれているが、今回のドラマではどちらかというとフランキーの方にその要素を強く感じた。というのも、ドラマでは原作に登場しないエマ・トンプソン演じる伯爵夫人(フランキーの母)が登場しており、娘がドレスを勝手に持ち出したことにキレてガミガミ文句を言うめんどくさい母親として描かれている。当初は正直言って余計な追加人物だなと思ったが、最後まで見ると本作のミステリ的な部分に関わってくることがわかる。この追加要素は個人的には感心したポイントだ。

 

とはいえ、全体的にはミステリというよりもスリラー・サスペンス要素の方が強く、視聴者も一緒に謎解きが楽しめるという感じのドラマではない。原作で犯人がうっかりやらかしたミスが今回のドラマではカットされているため、論理的にこの人が犯人だと指摘するのは無理だし、物語の軸となる「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」というダイイングメッセージにしても、物語終盤でようやく意味が分かる代物なので、「ここに気づいていたら犯人や真相がわかる!」というタイプの作品ではない。

 

全体的にはまずまずの映像化という感じで大きな不満はないけれど、やはり私は原作のカラっとした作風の方が好きだし、ボビイが毒を盛られて病院送りになった下りとか、エヴァンズの正体がわかった場面におけるボビイとフランキーのコミカルなやり取りが気に入っていたので、そういったコミカル要素が抜けてシリアス寄りになっていたのがちょっと勿体なく思えた。もしかすると過去作との差別化を図って敢えてシリアス路線にしたのかもしれないが、何だろう、「見ているこっちがワクワクするような探偵モノ」という原作から感じられた探偵活劇としての面白さが抜けてしまった感じが否めないんだよね。

言うまでもなく、ボビイとフランキーが事件を捜査する動機って正義感ではなく好奇心・野次馬根性から始まっているのだから、多少不謹慎かもしれないけどワクワクしている感じをもっと出して欲しかった(特にフランキーは!)し、コミカルとシリアスのメリハリをきかせた演出・脚本だったら面白かったと素直に評価出来たかな?

原作実写化成功のカギは「作り手の誠実さ」と「センスの良さ」

Twitter の方で話題となっている原作実写化における原作者と制作側とのトラブル、何の因果か以前当ブログでも触れた「霊媒探偵・城塚翡翠」「invert 城塚翡翠 倒叙集」と同じ日テレの日曜ドラマ枠で起こったみたいで、漫画「セクシー田中さん」の原作者・芦原妃名子氏のツイートが発端となり、ドラマを担当した脚本家の相沢友子氏のバッシングをする人が出るという始末で、まぁ実に嘆かわしいというか不毛な事態になっている。

 

この騒動が予想以上に炎上したこともあってか、芦原氏は発端となったツイートを削除し謝罪しているが、問題なのは実写化にあたって原作者の依頼をなおざりにしたプロデューサーや出版社の担当者といった仲介役の不手際であり、脚本家を叩くことはお門違いも良いトコだし、原作者にこのような告発・謝罪のツイートを出させた時点でドラマ化に関わったスタッフや出版社はプロの仕事人として失格だと思うのだ。

 

※2024.01.29 追記

芦原妃名子氏がお亡くなりになったそうです。記事をアップした直後にこの訃報を知ったので正直ショックが大きいです。ドラマは見ていなかったとはいえ、このような最悪の事態を迎えてしまったことを残念に思います。

 

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今回の騒動については「霊媒探偵・城塚翡翠」の原作者と同じ事態になっているため日テレはまたしても同じ過ちを繰り返したことになるが、相沢沙呼氏の時以上の炎上となった今回の騒動で改めて原作の実写化について私も色々と考えたのだけど、個人的に今回の一件も含めて原作を実写化する上で重要なのは「作り手の誠実さ」ではないだろうか?

では「誠実さ」とは具体的にどういうことなのかという話になるが、原作者との相互理解や取り決めの上でドラマ(映画)が制作されているか、というのは最低限守るべきラインであるのは勿論のこと、原作が何を大事にしており、どういった作風なのかといった作品に対する理解度も「誠実さ」として反映されてくると思うんだよね。

 

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例えばミステリマニアの間で話題となった「貴族探偵」は、放送当時誰が言ったか知らないけど「『原作に忠実』ではなく『原作に誠実』」というコメントがあった。正にこれって「貴族探偵」の実写化成功を端的に表した言葉だなと思うし、原作者の麻耶雄嵩氏の作風を理解した上で原作の設定をいじって謎解きを改変しているから、原作以上に濃度の濃いミステリになっていて本当に面白かったし、毎回こちらの予想を上回る改変になっていた。視聴率とか一般的な評価だけを見ると成功したとは言えないかもしれないけど、原作の実写化という点では間違いなく大成功したと言える作品だ。

 

「作り手の誠実さ」は作品に反映されるから決して視聴者に伝わらないなんてことはないし、確か映画「大怪獣のあとしまつ」の制作陣が映画公開後に「こちらの伝えたいことが伝わらなかった」とネット記事で述べているのを見かけたが、あれは作り手側の言い訳にしか過ぎず、怪獣映画を制作する時点で特撮マニアが映画館を訪れるという単純な予想すら出来ていない。そこが視聴者(観客)に対して不誠実なのだ。

 

誠実さに関して言えば、最近のドラマは人気のある俳優をやたらと使いまわしており、何クールも連続で出演している方を見かける機会が増えたけど、これも正直言うと「人気のある俳優・アイドルを出せば視聴者は喰いつくだろう」という作り手側の舐めた姿勢を感じる時がたま~にあるし、ファンの「俳優・アイドルを応援する心理」を利用しただけの作品は得てして駄作になりやすい。売ることを意識して作品に向き合わないのだから、その結果単に原作のストーリーをなぞるだけの作品になった実写作品も多々見受けられる。

 

過去の実写化作品を例に「センスの良さ」を語る

さて、原作を実写化する上では、作り手が誠実だからと言って成功するとは限らない。実写化においては「センスの良さ」も重要なポイントとなるのだ。それを語るためにここからは具体的な実写化作品を例に出していこうと思う。

 

LIAR GAME 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

実写化作品の中で個人的に「センスの良さ」で勝利した作品として真っ先に挙げられるのは甲斐谷忍氏が原作のLIAR GAMEだ。ドラマと映画を見た上で原作にも目を通したけど、もし原作通りやっていたらあそこまでの人気シリーズにはなっていなかったのではないかと思う。原作は確かに良く出来た緻密な作品だけど、一方でどこか地味であり特別キャラクターに魅力があると言いにくい作品だ。

しかし、ドラマはゲーム会場が非日常的空間として参加者にやすらぎを与えない空間として演出されているし、登場するキャラも原作以上に性格が誇張されているというか、フクナガに関しては全くと言って良いほど別物だからね。でもあのドラマ版のフクナガの存在がライアーゲームにおける参加者の心理――人を騙し出し抜く快感と冷血になり切れない人間心理――を一人で体現していて、オリジナルのキャラ造形として作品にマッチしていたと評価出来るし、単調になりがちな心理戦を彩っていたと言えるだろう。この世界観の演出とキャラ設定の改変は、ドラマ制作陣最大の功績であることは間違いない。

 

新・信長公記~ノブナガくんと私~(1) 新・信長公記 ノブナガくんと私 (ヤングマガジンコミックス)

比較に適しているかわからないが、同じ甲斐谷氏原作の漫画「新・信長公記も「センスの良さ」という点で触れておきたい。あ、比較なので勿論こちらは駄作として語るよ?

 

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この作品は2022年に読売テレビ制作で実写化されており、もう既に当ブログでレビューはしているが、改めて言及するとドラマは原作で私が面白いと感じたポイントをことごとく潰している

ライアーゲームほどではないが、原作は「旗印戦」という自分が掲げたマニュフェストを達成することでポイントがもらえるというゲームがあり、そのゲームで勝てば学園のトップになれるので、学園のトップになるため戦国武将のクローンが時に謀略を張り巡らせ、時には不良漫画らしくバトルを繰り広げるといった物語だ。だから「旗印戦」が本作最大の見所であるのは勿論、戦国武将のクローンが登場するため当然本作には歴史モノとしての面白さも詰まっている。歴史の教科書を読んだだけではわからない戦国武将の性格やそれを示したエピソードが挿入されており、そこも原作を読んでいて面白かったと感じたポイントだ。

 

ドラマも前半は原作の展開をなぞっていたのだけど、後半から「クローンはオリジナルの宿命を乗り越えられるのか?」という正直よくわからないドラマオリジナルのテーマが盛り込まれて、原作の「旗印戦」の行方が最終回に向かうにつれどうでもよくなっているのがマジでクソみたいな改変だし、ドラマで挿入された歴史ネタも原作と比べると薄くてマニアックさに欠ける。

最終回なんて酷いよ。ドラマは原作とはまた別のラスボス的存在がいるのだけど、そのラスボスが「明日の戦いの前に宴でもしたらどうか」って敵側の戦国武将のクローンに提案するんだよね。ネタバレだけど、このクローンは遺伝子操作が原因で成年になる前に死ぬという定めになっており、ラスボスはそれを踏まえた上で「どうせお前たち遅かれ早かれ死ぬのだから最後に別れの宴でも開けば?」って言うんだよ。で、それでクローンたちはどうしたかと言うと、普通にラスボスの前で宴をやるんだよね。

いやバカの集いかよ!?

何呑気に言われた通りに宴会してるんだよ!仮にも戦国時代に名を馳せた武将のクローンだったら宴で楽しむフリしながらラスボスの寝首をかくような計画でも立てろよ!本当に成年に達する前に死ぬのかとかそういった裏取りも全然しないで、何ラスボスの言ったこと鵜呑みにして、翌日ノープランでラスボスが用意した兵隊と戦ってるんだよ!

 

元々原作もそのままドラマ化するには少々問題がある作品だったことは以前のレビューでも言及したが、それでもドラマ後半の脚本のクソさ加減に比べたら原作の方がマトモに感じるし、原作の方が明智光秀のキャラも立っていた。ドラマの要所要所で挿まれた各武将クローンの因縁も実に陳腐で薄っぺらいし、全てにおいて「この原作をドラマ化する必要あったか?」って思うくらい原作の実写化の必然性を感じない作品だった。

この脚本の改悪は「原作の実写化」という点で不誠実だったと思うが、センスの面について触れると、ドラマの後半では海外偉人のクローン(ペリー、ジャンヌ・ダルク始皇帝が登場する。まぁ作り手側としては当時の戦国武将が対峙したことがない海外偉人と出会ったらどうなるかという面白さを狙って盛り込んだオリジナル展開だと思うが、個人的な意見としては「海外偉人を出す前に先に顕如を出せ!」と言いたかったね。

 

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同じ織田信長を題材にした「信長のシェフ」でも描写されていたように、顕如は僧侶でありながら約10年もの間、信長の日本統一を阻んだ実力者である。全国各地に信者がいて武装蜂起すれば何十万もの民衆が兵となる脅威的存在だったのだから、どうせオリジナル展開にするのだったら顕如に相当するようなキャラを出して欲しかった。この辺り、どうもドラマの制作陣は制作にあたって歴史の勉強とかしてなかったみたいだし、海外偉人との絡ませ方も全然うまくなかったから、そこも不誠実というかセンスがないと感じさせられたポイントだった。

あと戦国武将のクローンもな~、熊本出身の武将だから熊本弁喋らせるとかキャラ設定が安直過ぎるし、最終回で登場したオリジナルの信長も永瀬廉さんに似合わない口ひげつけさせて、あれじゃあコスプレだよ。

 

以上を見ると日テレや系列局の読売テレビはろくな実写化をしてこなかったという印象を抱くし実際そうなのだけど、一応日テレの実写化作品で「これは面白かった!」と言える作品もある。

映画 妖怪人間ベム

それが2011年に実写化された妖怪人間ベムだ。原作は1968年に放送された同名のアニメであり、三体の妖怪人間がいつか人間になる日を夢見ながら、この世の悪と戦う怪奇ヒーロー譚である。

原作アニメは人間以外にも悪鬼・悪霊といった異形の存在とも戦うが、ドラマはそういったオカルト要素はなく、人間の心の闇を主軸にしたサスペンスとして描かれている。

 

このドラマ版「妖怪人間ベム」、原作の知名度は高いものの、そこまで詳しくアニメの各エピソードについて知っている人は少ない(実は私もそうなのだけど…)こともあってか、妖怪人間の基本設定以外はほぼオリジナルで、亀梨和也さん演じるベムも原作のビジュアルとはかけ離れたキャスティングだ。それでもこのドラマが素晴らしいと言えるのは、ドラマを通して人間の愚かさや愛しさ・素晴らしさというものを描いている点にあると私は思うのだ。

ドラマでは社会からのけ者にされたり、肩身の狭い思いをしていた人々がある切っ掛けで闇堕ちし、そういった人々が起こす事件を止めにベムたちが動くというのが大まかなストーリーだけど、こういった人間の心の闇や歪んだ精神によって引き起こされる事件は今現在でも度々起こっているし、ある種普遍的なテーマでもある。だから普通に考えるとそんな人間になりたがるベムたちの考えって理解出来ないというか、「いや人間になんてならない方が良いよ…」って言いたくなる所だけど、このドラマは緒方一家や夏目刑事一家との交流も描かれることで人間の温かみという、「人がもたらす絶望」だけでなく「人がもたらす希望」も描いているのが素晴らしいポイントで、そこが描写されているからベムたちが人間になりたいという思いにも説得力があるし、三体の妖怪人間のひたむきさ・実直さに私たち視聴者も胸が熱くなるのだ。

 

物語はオリジナルとはいえ、妖怪人間が人工的に作られた怪物であることや、柄本明さんが演じた裏で暗躍する男の存在は、海外の有名な怪奇小説フランケンシュタイン』や『ジキル博士とハイド氏』にも通じる所だし、このドラマが実写化として成功した裏には海外古典でも描かれた人間の愚かさや本質を作品に反映させたことも大きいと今更ながら気づいた次第だ。

 

見たいもの・期待しているものをみせない駄作

実写化失敗の原因の一つとして今ちょっと思ったのだけど、原作を読んでる・知っている人ってある程度「こういう作品であってほしい」という期待や、「実写化するならここは外してほしくない」という要望は少なからずあるはずで、そういった視聴者(観客)の期待や要望から外れた実写化は駄作になる傾向が高いのではないだろうか?

 

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以前私が酷評したドラマ「地獄先生ぬ~べ~」も視聴者が期待するモノをことごとく外した最低最悪のドラマだったけど、今思えばぬ~べ~の恩師である美奈子先生と覇鬼が登場しているのに、ぬ~べ~がどのように覇鬼を左手に封印したのかという原作でもかなり重要なエピソードを全っ然描いてないというのが今更ながらビックリするよね。原作ファンにとっては当たり前の情報だけど、仮にもドラマ化するのだから原作含めてぬ~べ~を全く知らない人が視聴する可能性だってあるのに、肝心要となるエピソードを映像化しないで人体模型とか怪人「A」とか、とにかく話題性ばかりを狙ったエピソードやキャスティングに意識を向けていて、何かそういう点でも「ホントにこの制作陣原作好きなの…?」って疑問しかわかない。っていうか、この制作陣はドラマ制作ではなくコスプレ・コント番組を制作する方がセンスも活かされるし、そういう采配が出来る人がいたらこんなクソ実写も生まれなかったんだけどな。

 

そういや調べてわかったけど「ぬ~べ~」のスタッフって「臨床犯罪学者 火村英生の推理」と同じだったんだね。

臨床犯罪学者 火村英生の推理(DVD-BOX)

これは「ぬ~べ~」ほど駄作認定されてないし、放送当時は一定の評判もあって Hulu で続編が制作されたくらいの人気はあったみたい。でも一人のミステリ好きとして言わせてもらうと、原作者はエラリー・クイーンをリスペクトしている作家なのに、このドラマはかなりシャーロック・ホームズシリーズを意識した作品になっていて、「探偵=ホームズ」という従来のミステリドラマの型に原作を当てはめて制作されている辺り、やはりこの制作陣は勉強不足だよなと思わずにはいられない。原作に登場しないシャングリラ十字軍という新興宗教とか、ライヘンバッハの滝を意識した最終回とか、まぁ改悪とまではいかないにしても従来のミステリドラマのお決まりのプロットである感じは否めない。

個人的にこのドラマで酷いなと特に思ったのは7話の「朱色の研究」の解決編。この場面の火村って目の前に事件関係者がいるのに、相手の神経を逆撫でするような語り方で推理を披露していて、ちょっと見ていて不愉快だなと感じてしまった。仮にも大学で犯罪学を教えている人がこんな無神経なことをする?って思ったし、「名探偵は賢い分、空気を読まない発言・態度をする」という従来の探偵像を火村にやらせているのだからそこも実にタチが悪い。

 

そもそも映像化された原作エピソードを見た感じ、長編は『ダリの繭』と『朱色の研究』『狩人の悪夢』で、それ以外は短編エピソードをチョイスしているから、この制作陣って作家アリスシリーズを特別実写化したかったのではなく、従来の探偵モノを作る上でどの原作・どのエピソードが相応しいか?という目線でエピソードを取捨選択したんじゃないかと思う。ファンだったら原作で人気のある「スイス時計の謎」とかシリーズ最初の『46番目の密室』をまず映像化してほしいと思うのに、実際に映像化されたほとんどはマイナーな短編ばかり。この点だけを見てもドラマからは作家アリスシリーズを映像化したいという気概が感じられないし、とりあえずミステリドラマをやりたいからこの原作を借りたという印象を受けてしまう。

 

さいごに

ということで過去の実例をもとに原作実写化に必要なのは「誠実さ」と「センスの良さ」だと語ってみたが、「誠実さ」に欠けた作品は原作や原作者に対するリサーチや勉強が不足するため従来のドラマにおけるプロットを無理やり当てはめたストーリーに改悪されたり、さして内容のない薄っぺらい物語がオリジナルで挿入されるという事態が引き起こされる。そして制作陣にセンスがないと漫画(2D)を実写(3D)に置き換えた時に生じる問題がイメージ出来ないから、コスプレ大会とでも呼ぶべき作品が生まれてしまう。

ただ、くれぐれも気をつけなければならないのは、どんな駄作・失敗作でもそれは一人の人間の一存で作られている訳ではないし、脚本がクソだからと言って脚本家が全部悪いかというと、そうとも限らない。こういったドラマ制作の内情は私たち一般視聴者には基本的には伝わらないのでどうしても部分でしか物事を評価出来ない面もあるが、2016年に読売テレビ制作・バカリズムさんが脚本を務めた黒い十人の女では、確か6話か7話でドラマ制作の内情が一部描写されていて、そこではプロデューサーや演出家・脚本家が集まってドラマの内容をどうしていくか打ち合わせをしていた。そしてプロデューサーの無茶ぶりで脚本がどんどんカオスになって、そのくせドラマがコケると脚本のせいにされるという脚本家の悲喜劇が描かれている。ドラマ自体は不倫をテーマにしたドラマなのでドラマ制作の悲喜劇がメインではないのだけど、原作者とドラマスタッフとのトラブルが顕在化した今、改めて視聴されるべきドラマかもしれない。TVer とかで配信すれば良いのにね。

この殺人劇には名優が必要だった【映画「ある閉ざされた雪の山荘で」レビュー】(ネタバレなし)

どうも、タリホーです。

映画「ある閉ざされた雪の山荘で」観て来ましたよ~。

今年は今回の映画に加えて、3月には映画「変な家」が公開されるし、それから綾辻行人氏の十角館の殺人が実写化されるという具合に、家や館をお題にしたミステリの映像化がちょっとしたトレンドになっているなと感じるがそれはともかく。早速レビューしていこうと思うが、まずは作品概要から。

 

作品概要

ある閉ざされた雪の山荘で (講談社文庫)

今回の映画は1992年に刊行された東野圭吾氏の同名小説が原作。

劇団「水許」の次回作公演のオーディションに合格した男女7人が、飛騨のとある山荘で舞台稽古を行う。演出家・東郷陣平の次回作のテーマは「吹雪の山荘」ということで、記録的な大雪によって外部との連絡がとれず孤立した山荘内で殺人が起こるという設定のもと、7人のメンバーは山荘内で舞台稽古を行うが、翌朝メンバーの一人が姿を消し、"死体"の状況を説明するメモだけが現場に残されていた。犯人役が誰なのかメンバーは推理を始めるなかでとある疑問が生じる。果たしてこれは本当に次回公演の稽古なのか…?

 

以上が本作のあらすじとなる。あらすじを読んでもわかるように、本作はミステリとしては特殊なクローズドサークルものであり、実際は雪も降っておらず外部との連絡が可能な山荘内で、7人のメンバーにだけ設定・制約が課された状態でクローズドサークルが成立しているという虚構性を前面に出したプロットになっているのが注目ポイントだ。嘘くさいシチュエーションであるとはいえ、これが舞台役者の稽古(お芝居)であるという点や、舞台設定以外は作中の登場人物の人間関係がお芝居に反映されるなど、随所に現実が盛り込まれて虚構と現実が入り混じった状態で物語が進展していく所に本作の面白さがある。

 

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映画では主役の探偵役を決めるための最終オーディションとしてこの舞台稽古が設定されたという形で改変されており、原作が「吹雪の山荘」という設定をもとにメンバーが「この状況だとこういう風に動くよね」という感じで稽古を進めていくため、メタ的な会話が印象に残ったのに対し、映画は各メンバーの芝居に対する価値観だったり競争心みたいなものが強調されている。これは映画の結末にも関係するポイントになるので詳しくは後ほど言及していきたい。

 

30年以上前の原作を何故今更映像化したのか?

まずハッキリ言っておくが、

本作は重厚なミステリを期待して観に行くと凄くガッカリする作品だ。

そもそも原作が30年以上前の作品なので、今から見るとトリック自体が古くて目新しいものではないし、本作と同じトリックを用いた作品でもっと面白い作品はこの原作が発表されて以降、次々と生み出されている。しかも、原作のトリックは小説という媒体だからこそ通用するトリックなので、今回の映像化ではそのサプライズすらも殺されている(監視カメラを出した時点で真相に察しがついた人もいると思うし…)のだから、原作未読の観客が本作に低評価を下すのも当然である。それに物語も劇団員同士の確執や、役の奪い合いというベタな人間模様が描かれる程度で深い人間ドラマがあるとかそういうこともないので、その点も東野氏の他作品と比べると見劣りする部分ではないだろうか。

 

それと本作の要であるクローズドサークルとしての制約、つまり外部との連絡をした時点で次回公演の役から降ろされるという「縛り」も、原作が発表された1990年代ならばともかく現代だと「役者として大成しなくても身の振り方ならいくらでもあるでしょ?」というツッコミが出来てしまうし、現に劇中で重岡大毅さん演じる久我は兼業で料理店で仕事をしており、フランベで肉を焼くといった本格的な調理技術を持った人物として描写されているので、役者以外で生きていく道がないという逼迫感に欠けるというのも、今回の映画のミステリとしての問題点だと思う。まぁこの点に関しては原作にも同じことが言えるので特別映画だけが悪い訳ではないけどね。

 

以上のように、本作はミステリ映画としてはガッカリする作品なのは間違いないが、だからと言って駄作として切り捨てるような作品ではないと正直思っていて、そう思うのは本作が原作の発表から30年以上経った今になって映画化されたことと関係してくる。

言うまでもなく本作はトリックも作中の人間ドラマも、東野作品としては凡庸というかベタな内容で、それを抜き出した所で正直作品としての魅力に欠ける。同じ著者の探偵ガリレオシリーズと比べれば雲泥の差だ。

 

じゃあ結局本作を支えるものは何かという話になるが、それは劇中の7人の舞台役者であり、彼らの演技によってこの「ある閉ざされた雪の山荘で」が成立していると言えよう。舞台役者を演じる、しかも殺人劇を演じるということは「演技の演技」という高度なテクニックが求められる訳であり、それが出来る役者でないと当然ながら本作は成立しないのだ。

そう考えれば、本作がこれまで映像化されなかったのは原作のトリックが映像化に適したものでないということに加えて、この作品を成立させるだけの演技力のある若手役者が2、30年前の芸能界にはいなかったからではないか?という仮説が立てられる。あいにく私はドラマとか映画・演劇に明るい人間ではないのでこの辺りのことはあまり偉そうに解説出来ないけど、私のつたない芸能の知識・偏見を元に考えると昔は大御所と呼ばれるベテラン役者は多くても、今みたいに充実した演技の出来る若手役者って実はそれほどいなかったんじゃないかな?と思うのだ。

 

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ネームバリューのある役者を起用することは映画の客集めとして古今東西、いかなるジャンルの作品でも用いられる手段だが、本作では単に名がある役者を使えば良い作品ではないし、むしろ脚本がベタでシンプルだからこそ確かな演技力がないと見応えが生まれない。

雨宮を演じた戸塚純貴さんは昨年日テレで放送されたドラマ「だが、情熱はある」でオードリーの春日さんを好演したことが記憶に新しいし、田所を演じた岡山天音さんはバイプレイヤーとして抜群の認知度と実力を備えた方だ。そして本多を演じた間宮祥太朗さんは叩き上げの実力派俳優としてドラマだけでなくバラエティでも活躍をしているし、私も「ニーチェ先生」で間宮さんを知ってからドハマりして追っているので、俳優としての素晴らしさは一般の人以上に知っているつもりだ。

 

一般的に実力あるキャストを揃えると役者同士の競演が作品のアピールポイントとなる。文字通り俳優陣が競い合うように演技をして観客に自分の魅力・実力をアピールすることで相乗効果をもたらした作品はいくつもあるが、本作の場合はミステリとしての性質上それが出来ない、つまり何も考えずに競演をするとミステリとして破綻してしまう作品なので、「オレがオレが!」と前に出るのではなく役割を把握した上で時には一歩後ろに引き下がるような気配りもしないといけない繊細さも必要とされる。だからこの作品において重要なのは「競演」ではなく「共演」であり、これこそが映画オリジナルの結末につながるポイントであると同時に本作をより面白く鑑賞する上で必要な視点となるのだ。

 

ミステリ作品を(真相を踏まえた上で)二回目・三回目と鑑賞する場合、大抵は「ああ、ここにヒントがあったのか!」と劇中に散りばめられた伏線や手がかりを発見するという楽しみ方が出来るけど、本作の場合そういった妙味はなく、真相を踏まえた上での各メンバーの動向や反応を観察することに本作の面白さがある。山荘に到着した際の各メンバーの動きや言動、夕食時の会話など、細かい動作を観察することで原作とはまた違う各メンバーの性格や嗜好なんかがうかがえるし、本作のトリックを知った上で鑑賞すると、ちょっとした会話における間のとり方や台詞にもある種の気配り・配慮があると言えるだろう。

 

※事件の真相を踏まえると、映画の俯瞰視点の演出は(個人的には)ミステリとしてはアンフェアだったのではないかな~?と思っている。

 

さいごに

ということで映画のレビューは以上となるが、原作が30年以上前の作品ということもあってトリックに斬新さも意外性もないのは否めないし、本作を単純に本格ミステリとして評価すると実につまらない、原作で久我が評した「茶番劇」であることは確かだ。とはいえ、東野圭吾の原作小説の映像化としてはこれ以上ないほど最良の映像化だったことは間違いないし、名実ともに世間に知られた俳優陣の「共演」によって鑑賞に堪えうる作品になっていたことは評価しなければならない。本当はパンフレットで監督や脚本のインタビューとか読めたら今回の映画化における制作側の背景を加味した感想が語れたのだけど、パンフレットが売り切れておりそれが出来なかったのはちょっと残念である。

 

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ちなみに、今回の映画における「競演」から「共演」というテーマは間宮さんの役者人生とも関わるものだったので、個人的には感慨深いテーマだったし、このテーマの作品に私の推しを起用したプロデューサーの方に感謝を送りたい。間宮さんも10代の頃は共演者を敵、つまり競い合う相手として見ていたのを玉置怜央さんとの共演で考えを改めたというエピソードがあるからね。